第七話 ページ4
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二月十五日(月)
「おっす、ワカちゃん」
「おはよう」
バレタインデーの翌日。
登校途中、交差点で信号待ちをしていると、後ろから声を掛けられた。振り向かなくともわかる。早苗だ。
「昨日さ、バレンタインだったじゃない。チョコレート、貰った?」
ショートヘアの髪を揺らして、横から僕の顔を覗き込むようにして聞いてくる。
その、興味津々、といった感じの笑顔が、一昨日のあずき君に似ていると思った。
いや、やっぱり『チャオは育て主に似る』と言う事なのかもしれない。
「もらったよ、ひとつだけ」
無論、昨晩にカトレアから貰ったチョコレートのことである。
「誰から誰から」
わかってるくせに。
「カトレアから」
「おっ、カトちゃん、ちゃんと渡せたんだ」
早苗も、もう隠すつもりはないらしい。一昨日、カトレアと一緒にチョコレートを作ったことを。
手作りチョコレートを渡そうとしてくれたのは、間違いなくカトレアの気持ちだろう。
でも、カトレア一人ではきっと難しかったはずだ。早苗の協力が無かったら、あのチョコレートは完成しなかったに違いない。
ちゃんと、お礼を言わなければ。
「一昨日さ、カトレアのこと手伝ってくれてたんだよね。ありがとう」
「どういたしまして。でも、一番頑張ったのはカトちゃんだから。ワカちゃんに喜んでもらいたい、って」
「うん。すごく嬉しかった」
僕がそう言うと、
「よかった」
早苗は、にっこり笑った。
ふいに、静寂が訪れる。
信号はまだ赤のまま。今日の信号待ちは、やけに長い気がする。
そしてこういう時に限って、珍しく早苗が無口だ。
普段ならこういう状況で、昨日見たテレビの話とか、どうでもいいようなことを捲くし立ててくるはずなのに。
ただそのおかげで、僕としては話を切り出しやすい状況ではある。
上着の右ポケットに右手を突っ込む。今朝、家を出る前に忍ばせてきたものがあることを確認する。
よし、言おう。
決心を固め、早苗に話しかけようとしたときだった。
「ワカちゃん、はい。一日遅れのハッピーバレンタイン」
突然、早苗に左手を取られ、何かを渡された。ピンクの包装紙に包まれて、赤いリボンがあしらわれた、手のひらほどの大きさの箱。
中を開けてみないとわからないけれど、今の台詞から察するに——。
「手作りチョコレートだよっ。カトちゃんとチョコレート作った時の余りで作ったんだけどね」
推測は、確信に変わった。手渡されたのは、早苗からのバレンタインチョコレート。
正直、このタイミングで渡されるなんて……というより、今年も僕にチョコレートを渡してくれるとは、全く思っていなかった。
それも、手作りの。
カトレアのチョコレートを作った時の余りということを強調していたけれど、それでも。
早苗が気持ちを込めて作ってくれた事には、変わりないんじゃないだろうか。
貰えないだろうな、と思っていたものを突然貰い、僕の思考回路が少し鈍る。
正直に言えば、嬉しいのだと思う。けれど、何故だかそれをすんなり認める事の出来ない僕がいる。
一体何が嫌なのだろう。『早苗からチョコレートをもらえて嬉しい』という、ただそれだけのはずなのに。
簡単な話だ。
——素直じゃないのだ、僕も。
「くれるなら、何で昨日くれなかったのさ」
だから、真っ先にお礼を言う事もせず、こんなことを口走ってしまった。
僕のためにチョコレートを作ってきてくれた早苗に言うべき言葉ではない。でも、後悔しても吐き出した言葉は取り消せない。
日曜日に、わざわざ僕の元へチョコレートを持ってくるまでもない。どうせ月曜日に会うのだから、そのときに渡す。それが普通だ。
なのに、何でそんな事を言ったんだ、と数秒前の自分を心の中で叱責する。
そんな僕に、早苗は笑顔で言った。
「『ワカバにチョコレートをあげたい』って言い出したのはカトちゃんだから、カトちゃんに最初に渡してほしかった、っていうのと」
「うん」
「『今年は貰えないのかな』って思わせた後に渡した方が、ワカちゃん喜ぶかな、って」
「……」
心のうちを全て読まれていたような気がして、なんともいえない敗北感に襲われる。
にしし、と白い歯を覗かせて笑う早苗を前に、僕は何も言えなかった。
言うとすれば、この言葉しかないのだけれど。僕には言えない。絶対に言えない——。
——その通りだったよ、なんて、口が裂けても言えない。
僕は、素直じゃないから。
「あ、信号青になったよ。行こう」
「あ、待って」
歩き出そうとした早苗を呼び止める。
早苗は、きょとん、とした表情で僕の言葉を待っている。
僕も、さっさと渡して楽になりたい。その一心で、上着の右ポケットに入れっぱなしだった手を引き上げる。
もちろん、中に忍ばせていたものをしっかり掴んで。
「これ。その、僕も、一日遅れのハッピーバレンタイン」
ぼそぼそと呟くようにして、なんとか絞り出した。
恥ずかしくて、とてもじゃなけど早苗やあずき君のように、にこやかな笑顔は作れそうにない。今も、これからも。
そんなぎこちないお祝いメッセージと共に僕が差し出したのは、黒っぽい箱に一口サイズのチョコレートが五種類詰まった、一箱三百円ほどのチョコレート。
早苗やカトレアがしてくれたような、可愛らしい装飾など一切ない、買ったままのチョコレート。
早苗の手作りチョコレートを受け取った後に渡すのは、少し気が引けるのだけれど。
「えっと、あずき君がね。男の子の方からチョコレートをあげる、逆バレンタインっていうのが流行ってるっていうから、その。早苗からは、毎年貰ってたから、その」
チョコレートを渡すだけなのに、何でこんなに顔が熱くなるんだろう。
早苗の顔を見る事が出来ず、前方右斜め下辺りに視線を彷徨わせる。
今の僕は、昨日のカトレアと全く同じだ。
右手を差し出したまま、僕は早苗の反応を待つことしか出来なかった。
すると右手から、するり、と握っていた箱が引き抜かれ、早苗がチョコレートを受け取ってくれたことがわかった。
それと同時に。
「ありがとう。すごく嬉しい」
「……ん」
まっすぐぶつけられたその言葉に、僕は胸をなでおろす。
ずっと視線を逸らしているのも失礼だと思って、ほんの少し視線を上げる。花のような笑顔が、そこにあった。
どうしても照れくさくて、早苗の顔を長く見ていられない。上げた視線をうろちょろさせながら、右手の人差し指の爪で、熱くなっている右の頬をいじる。
そして、思い出した。
僕はまだ、早苗がくれたチョコレートに対してのお礼を言っていない。
しょうもない意地のせいで、僕はさっきお礼を言いそびれたのだ。
早く言わなければ。そう思って、感謝の言葉を口にしようとした時だった。
「あー、赤くなってるっ」
心臓が、どきり、と大きく鼓動した。
突然大きな声をあげられたから、というのもあるけれど、一番の原因は『赤くなってる』という一文だ。
そんなに大きな声でからかわれるほど、僕の頬は赤くなっているのだろうか。そう思うと、ますます顔が熱くなってくる。
でも、早苗は僕の頬を見て『赤くなってる』と言ったのではなかった。
「話してたら、信号赤になっちゃったよ。遅刻しちゃう」
さっき青になったはずの信号が、赤になっている。それを見て、早苗は『赤くなってる』と言ったのだ。
信号が青になった時、早苗を呼び止めたのは僕だ。とりあえず横断歩道を渡って、それからチョコレートを渡せばよかったのに、と後悔する。
このまま二人揃って遅刻したら、百パーセント責任は僕にある。
「ワカちゃん、走るよ」
「え」
早苗は左右を確認し、車が来ていない事を確認すると、左手で僕の右手を取り、駆け出した。
赤く光る信号機を無視し、僕の意思を確認せずに。
お互い、渡し合ったチョコレートを片手に持って、力強く地面を蹴って走る早苗と、問答無用で引っ張られる僕。
——完全に、お礼を言うタイミングを逃してしまった。
今度、きちんとお礼をしよう。
赤いコートをはためかせて走る早苗の後姿を間近で見ながら、僕は——。
——三月十四日に、一体何を贈れば早苗は喜んでくれるだろうかと、考え始めた。