第七話 ページ2
…
若葉の家を飛び出した早苗とカトレアは、宣言通り、早苗の家にいた。さらに具体的に言うと、早苗の家の台所にいた。
整頓された、清潔感のあるキッチンに、いくつかの調理器具が並べられている。
包丁にまな板、ボウルにへら、オーブンシートで作ったコルネ。
——そして、手のひらほどの大きさの、ハートの型。
それらを見渡す早苗の身体には、フリフリのついたピンクと白のエプロンが装備されている。
さらに流し台の隣で、釣り上がった目にへの字の口というデフォルトの表情を浮かべて佇むカトレアの身体にも、早苗と同じ柄のエプロンが装備されていた。小さな小さな、チャオ用のエプロンである。
一通り見渡して、抜かりが無い事を確認した早苗は、
「それでは、ただいまより。バレンタインチョコの制作に取り掛かりたいと思います。カトちゃん、準備は出来たかな」
「ん」
そう宣言した。
早苗の呼びかけに、カトレアは短く応答しながら、頷いた。
バレンタインチョコ。バレンタインデーに、女性から男性に渡される際のチョコレートのことである。
若葉の家での、早苗とカトレアの内緒話の内容、これで大体ご想像いただけたと思う。
要するに、カトレアがバレンタインチョコの制作を手伝って欲しいと、早苗に依頼したのだ。
ちなみに、誰に渡すつもりなのかというと。
「ワカちゃん、きっと喜ぶよ」
「べ、別に喜ばなくていい! ぎ、義理チョコなんだからな!」
お聞きの通りである。
照れ隠しに使われるお決まりの文句に微笑ましさを覚えながら、早苗は白いビニール袋を取り出す。
ここに来る途中に寄ったコンビニで購入した、チョコレートである。
「じゃあ早速作り始めよう! 私はお湯を沸かすから、カトちゃんはまな板の上にチョコレートを出しておいて」
「ん」
そう言って早苗は、鍋に水を入れ湯煎のためのお湯を沸かし始め、カトレアはビニール袋の中からチョコレートを取り出し始めた——。
——その頃、若葉とあずきは。
「ワカバ殿、何をご購入される予定で?」
「ココアと、あと、丸い木の実が欲しいな。カトレアが好きなんだ」
若葉の家から程近い、スーパーマーケットに来ていた。
紺の上着に身を包んで、カートを押し進める若葉。そのカートの中に、あずきがちょこんと座り込んでいる。
若葉はお目当てのココアと丸い木の実を、カートの前方に空いたスペースに入れ、他に何か買う物は無いかと、軽く辺りを見回す。
そのとき、菓子製品コーナーに立てられたのぼりに書かれた『バレンタイン目前! チョコレート割引中!』という文字が目に入った。
この日は、二月十三日。バレンタインデーというイベントが明日に控えているのだと言う事を、若葉は思い出した。
「明日は、バレンタインデーだね」
「ワカバ殿は、どなたからかチョコレートを貰えるあてなどあったりするのですか」
「まさか」
若葉は苦笑いを浮かべながら、割引の対象となっている商品が陳列されている場所へ歩を進める。
自分自身はバレンタインデーとは無縁だろうけれど、その恩恵にはあずかってしまおう、という腹積もりだ。
若葉はチョコレートが多数陳列されている棚の前まで来て、ぽつりと一言。
「一応、早苗からは毎年貰ってるんだけどね」
「なんと、そうなのですか」
カートの中で、くりん、と身体を反転させて、好奇心に満ち溢れた視線を若葉に注ぐ。
もっと詳しく聞きたい、と言った感じだ。
若葉もそれを感じ取り、そして思った。きっと、勘違いをしているな、と。
「学校で会ったら、百円ぐらいのちっちゃいチョコを渡してくれるんだ。まあ、年に一回の挨拶みたいなものだよ」
割引対象商品を品定めしながら、そう付け加えた若葉。
義理チョコであると言う事のアピールであったが、聞いているのかいないのか、あずきは興味津々といった感じの笑顔を絶やさない。
自分に向けられる視線をかわすように、あずきから目を逸らしながら、板状のミルクチョコレートをひとつ、カートに入れる。
あずきから放たれる好奇心をひしひしと感じながら、若葉は多少強引に話題を逸らす。
「あずき君も、何か欲しいのある?」
チョコレートで懐柔しよう、というつもりではないだろうが、それまでの流れからして『チョコレートを買ってあげるからこの話はやめよう』と言っている様に思われても仕方の無い若葉であった。
『悪いですよ』と断っていたあずきであったが、若葉が『せっかくの割引なんだから』と強く勧めてくるので、最終的には若葉の好意に甘えることにした。
あずきにチョコレートを買ってあげる、というよりも、割引商品の買い物が楽しいだけなのかもしれない。
「これなんかどうかな。期間限定だって」
カートの中のあずきに若葉が薦めてきたのは、黒っぽい箱に一口サイズのチョコレートが五種類詰まった、一箱三百円ほどのチョコレート。
「いいですね。では、それをいただけますか」
「うん。……実は、僕が食べたかっただけだったりして」
そう言って、手のひらほどの大きさの黒っぽい箱を二つ、カートに入れた。
「バレンタインデーといえばですね」
「ん?」
買い物を終えた帰り道。あずきが、ふと口を開いた。
その声はどこから聞こえてくるのかと言うと、右手にスーパーのレジ袋を提げて歩く若葉の背中から、である。
あずきは、若葉の首根っこに、ちょこんとしがみついていた。
人間とチャオでは歩くスピードに差があるので、一緒に移動した方が楽だろう、という若葉の配慮である。
もっとも、小さな身体でずんずんと逞しく歩いていく、カトレアのようなチャオも中にはいるけれど。
「最近は、バレンタインデーに男性から女性にチョコレートを贈るという……逆バレンタイン、なんてものが流行っているそうですよ」
「逆バレンタイン?」
若葉にとって、それは初めて耳にする言葉であった。
「ええ。アンケートによると『男性からチョコレートを貰って嬉しいか』との質問に『嬉しい』と答える女性が非常に多いようですよ」
「へえ、そうなんだ」
「はい。ですから、今年はワカバ殿も誰かにチョコレートを贈ってみてはいかがですか。例えば、サナエ殿にでも」
何で、そこで早苗の名前が出てくるんだ、と若葉は苦笑いを浮かべる。
恐らく、先程スーパーで交わしたバレンタインのくだりの延長なのだろう。
あずきは後ろにいるからその表情は確認できないけど、きっとにやにやと笑っているんだろうな、と若葉は思った。
「そうやってからかう所、早苗に似てる」
逆バレンタインを実践するかどうかには答えず、若葉はそう言った。
後ろから『からかったつもりはありませんよ』と声が聞こえたが、若葉にとってはそこで早苗の名前を出されたということには変わりなく、あずきに自分と早苗がどういう関係だと思われているのかを考えると——いや、そんな大げさなものではない。
ただ単に『バレンタインデー』という、恋愛関係のイメージが強い話題の時に自分と早苗の名前を並べられた事に、若葉はほんの少しの気恥ずかしさを感じずにいられなかった。
そんな気恥ずかしさから逃れるように、若葉は話題を逸らす。
「あずき君はどうなの、バレンタインデーの予定は」
「ふむ、それなんですがね」
一呼吸置いて、あずきは話し始めた。
「ご存知の通り、僕達チャオには、性別がありません。ですから、バレンタインデーに何をすればいいのか戸惑うチャオも多いようですね」
「そうなんだ」
「僕もその例外ではなくてですね。バレンタインデーといわれましても、カトレアさんからのチョコレートを待つべきか、カトレアさんにチョコレートを贈るべきか、迷っているのですよ」
どっちにしても、カトレアありきなのは変わらないようだ。
「いっそ、チョコの渡し合いでもしたらどうかな」
「渡し合い、ですか」
逆バレンタイン、なるものが流行しているならば、今までの形式に囚われず、チョコを渡し合ってしまっても構わないのではないか、と若葉は考えたのだ。
特に、性別の分かれていないチャオならなおさら、その辺りを柔軟に考えられるのではないか、と。
それを聞いたあずきはしばらくの間考え込んでいたが、やがてポヨを感嘆符に変化させながら、こう言った。
「いいですね、素晴らしいアイデアです! 僕達チャオに性別はありませんが、逆に言えば、贈る側にも受け取る側にもなれる、と。それを両方行ってしまえば、よりカトレアさんと親密になれる、と」
「うん、まあ、そうかな」
それを実践して、カトレアと仲良くなれるかどうかは保証しない……というか、難しいんじゃないかな。カトレアの性格からして。
そう言おうとして、思い止まった若葉。背中から伝わる、バレンタインへの期待感に、水を差したくはなかったから。
もっとも、それを言われた所で、あっさり諦めるようなことはないだろうけれど。あずき君の性格からして。
「ワカバ殿のおかげで明日のバレンタインデーが楽しみになってきました。お互い、頑張りましょう」
「別に、僕は頑張らないよ」
そういって、くすり、と笑い合った。
あずきは、期待に満ち溢れた笑顔で。若葉は、若干の苦みを含んだ笑顔で——。
——その頃、早苗とカトレアは。
「……で、溶かしたチョコを型に入れます。熱いから気をつけてね」
「ん」
ボウルに入った、とろとろに溶けたチョコレートを、ハートの型に入れていくという作業をしていた。
へらを使って少しずつ入れていくのだが、人間のように指がないチャオでは、へらを上手く持つ事が出来ない。
だから、早苗がカトレアの後ろに回って、へらとカトレアの手を一緒に掴み、一緒に手を動かして作業をしている。
零さぬように注意しながら、手のひらほどの大きさのハートの型に、チョコレートを入れ終わった。
「よし、後はこれを冷やして、と」
そういって早苗は、チョコレートの入ったハートの型を冷蔵庫へ入れた。
「じゃ、テレビでも見て待ってよっか」
「ん」
余ったチョコレートの入ったボウルにラップをかけて、早苗とカトレアはリビングへ移動した。
ソファに座り、テーブルの上に置いてある一口サイズのお菓子が適当に放り込まれたプラスチックの容器を、自分とカトレアのほうへ引き寄せながらテレビを点ける。
早苗が点いたばかりのテレビのチャンネルを適当に回している時、カトレアがぽつりと呟いた。
「サナエは、誰かにあげる?」
「あたしは、特に予定はないかな」
やや言葉足らずなカトレアの質問であったが、早苗はすぐに『バレンタインデーに、誰かにチョコを渡すのか』と言う意味だと理解し、答えた。
もっとも、今はそのバレンタインチョコの完成を待っている最中なのだから、連想するのは容易だったかもしれないが。
「一応、ワカちゃんには毎年あげてるんだけどね」
「え!」
ぽよん、とポヨを感嘆符に変化させ、飛び上がらんばかりの勢いで驚くカトレア。
目を真ん丸くさせて、困惑の眼差しを早苗に向けてくる。よほど、早苗の発言が予想外なものだったのだろう。
早苗としては『毎年義理チョコをあげている』という趣旨の発言だったのだけれど、そうとわからず注がれるカトレアの困惑の視線は、早苗の悪戯心を刺激した。
「そうだなあ、今年は少し気合入れたやつあげようかな。材料もまだ余ってるし」
そう言って、早苗はちらりとキッチンへ視線を送る。正確に言えば、先程ラップをかけたボウルの中身に、だ。
「ぁ……ぅ……」
その様子を、なんともいえない表情で見つめるカトレア。困っているような、怒っているような。いずれにしろ、あまり愉快な気分ではなさそうだ。
何か言いたげだが何も言えずに押し黙っている様子が、なんともいじらしく感じる早苗であった。
まあ、あまりやりすぎて嫌われてしまうのも嫌だから、この辺にしておこう。早苗はそう判断し、カトレアの誤解を解くための言葉を付け加える。
もう少しいじめていたいな、という名残惜しさを感じながら。
「義理チョコでも、手作りだったらいつもより嬉しいもんね、きっと」
「義理、チョコ?」
「うん。まあ、年に一回の挨拶みたいなものだよ」
それを聞いて幾分安堵したのか、ほっとしたような表情を見せるカトレア。
ただその表情も、早苗の一言により、すぐに怒気に溢れる事になる。
「だから、心配しなくていいよ、カトちゃん」
「べ、別に心配なんかしてない!」
「やったね、綺麗に出来たよっ」
「……ん」
冷蔵庫からハートの型を取り出す。その中には手のひらほどの大きさの、ハート型のチョコレートが入っている。
ハートの型からチョコレートを取り出し、クッキングシートの上に置く。
その出来映えを見て、早苗は小さく拳を握り、カトレアは小さく頷いた。
喜びを表す表情も仕草も無いけれど、少なからず満足感を得られているだろう。出来上がったチョコレートをまじまじと見つめるカトレアを見て、早苗はそう思った。
「さて、最後の仕上げに取り掛かろうか」
「え?」
早苗の一言に対する気持ちを言葉とポヨで表して、流し台の隣で早苗を見上げる。まだ、完成ではないのか、と。
「今からチョコレートに、メッセージを書きたいと思います」
「え?」
三秒前と、全く同じリアクションである。
事態を飲み込めないカトレアを尻目に、早苗は一体何時の間に用意したのか、生クリームの入ったコルネを取り出す。
「今からこれを使ってカトちゃんに、ワカちゃんに対するメッセージを書いてもらいます」
「はあ!?」
早苗の一言に対する気持ちを、やはり言葉とポヨで表す。ちなみに、ポヨは感嘆符だった。
「そんな事する必要ないだろ! これをワカバに渡すだけでいいだろ!」
小さな手をチョコレートに向けながら、早苗の提案を却下するカトレア。
カトレアとしては、現段階でバレンタインチョコは完成を迎えた、としたい所だったが。
早苗が、それを許さなかった。
「ダメだよ!」
「!」
調理中もずっと笑顔を絶やさなかった早苗が、この日初めて眉を吊り上げた。
「一番大事なのは、気持ちだよ! 気持ちを込めてないチョコレートを貰ったって、ワカちゃんちっとも嬉しくないよ」
「う……」
右手の人差し指を突き立て、カトレアの目の前に突きつける。そして、たじろぐその顔を、ぐい、と覗き込む。
叱りつけられたカトレアは、覗き込んでくる早苗の顔を直視する事が出来ず、ばつが悪そうに俯いて押し黙る。
ぐるぐるとポヨが渦巻き、手をもじもじさせて視線を足元に落とすしか出来ないカトレアは、ほんの数秒の時間さえも息苦しく辛いものに感じた。
その様子を見て、ふっ、と息を吐いたのは早苗だ。
「ワカちゃんに、喜んでもらいたいでしょ?」
「……うん」
絞り出された声を聞き、早苗は顔をほころばせる。
突きつけていた右手で、そのままカトレアの頭をくしゃくしゃと撫でる。『もう怒っていない』という早苗の意思表示だったのだけれど、それはそれで、カトレアにとってはばつが悪そうだった。
「で、なに書けばいいの」
「カトちゃんの今の気持ちを書けばいいんだよ」
チョコレートの目の前で生クリームの入ったコルネを両手に持ったものの、そこから先に進めないカトレア。
やはりチャオの手では難しいので、カトレアの手ごと包み込むようにして、早苗が後ろからフォローに回る。
「例えば『大好き』とか」
「そんなこと書かない!」
頭だけ後ろに向けながら、背後にいる早苗に対してきゃんきゃんと喚く。
自分の手の中で喚くカトレアを見て、白い歯を覗かせて、にしし、と悪戯っぽく笑う早苗。
早苗としては、カトレアをからかう事にまんまと成功した格好である。
もっとも、間違った事を言ったつもりは無いけれど。
「そうだなあ、ワカちゃんにあげるチョコレートだからね。シンプルに『ワカバへ』っていうのはどう?」
「……ん」
納得したようである。
自分で提案しておいてあれだけど、無難な結果で少しつまらないな。
まあ『大好き』であれだけの拒絶反応を見せたのだから『愛してる』なんて死んでも書かないだろうけど。
そんな早苗の胸の内など知る由もなく、カトレアはハート型のチョコレートの左側、中央よりやや上の部分に、コルネの先端をロックオン。
失敗してはいけない、と思っているんだろう。コルネを構えるカトレアの緊張が、腕を伝って早苗に届く。
早苗は、その緊張を解きほぐす事と、先程の約束をきちんと覚えているかどうかの確認の意味を込めて、こう言った。
「しっかり、気持ちを込めて書こうね」
「……ん」
小さく頷いた後、ゆっくりと生クリームを絞り始めた。黒いチョコレートの上に、白い線で文字を書いていく。
ほんの少し手を震えさせながら、真剣な眼差しで、頭に思い描く人物の名前を書き込んでいく。
「気持ち……気持ち……」
気づいているのかいないのか、ぶつぶつと呟きながら作業を進めていくカトレアのポヨはいつの間にか、自身が熱い視線を送るチョコレートと同じ形になっていた。
「——完成っ。やったね」
「……ん」
カトレアのバレンタインチョコは、今度こそ完成を迎えたようである。
ハートの形をした黒いチョコレート。その上部に横書きで、少し震えた白い文字で『ワカバへ』と書いてある。
ついでに、ハートの縁をなぞるように、生クリームをあしらっておいた。
先程冷蔵庫から取り出した時と同じように、出来上がったチョコレートをまじまじと見つめるカトレア。
「あとは、これを可愛く包んであげようか。カトちゃん、二階のあたしの部屋から、はさみ持ってきてくれるかな。机の上にあるから」
「ん」
早苗のお願いを短い返事で了承し、流し台から、ぴょん、と飛び降りると、とことこと歩いていくカトレア。
視界からカトレアがいなくなったのを確認し、早苗は。
「さて、と」
まだ生クリームが残っているコルネを見ると、白い歯を覗かせて、にしし、と悪戯っぽく笑った。
「ん」
「おっ、ありがとカトちゃん」
はさみを持って二階から降りてきたカトレアは、自分の作ったチョコレートに、ちょっとした異変が起きているのに気づいた。
先程までチョコレートが置いてあった場所にチョコレートの姿は無く、代わりに白くて四角い箱が置いてあったのである。
恐らく、自分がはさみを取りに行っている間にチョコレートをしまってくれたのだろう、とカトレアは思った。
「さ、これを今から可愛く包むよっ」
「ん」
そう言って、ラッピングに必要な包装紙やリボンを取り出す早苗。
白い箱をピンクの包装紙で包み、その上から赤いリボンを巻く。
二人で協力し数分後には、チョコレートの入った箱は可愛らしく装飾されていた。
どこに出しても恥ずかしくない、立派なバレンタインチョコレートである。
「バレンタインデー、楽しみだね」
「……ん」
カトレアは、早苗からチョコレートの入った箱を手渡されると、それを大事そうに握り締めた。
「おかえり」
「おかえりなさい」
例の如く、早苗が呼び鈴を鳴らす前に自分の声で若葉を呼び寄せると、扉の向こうでぱたぱたと音を立てながら、若葉とあずきが出迎えに来た。
『夕方には帰る』との宣言通り、日が傾き空が赤く染まり始めた頃に、早苗とカトレアは若葉の家に帰ってきた。
「二人で、何をしていたのさ」
「ひ、み、つ。あず君、そろそろ帰ろうか」
早苗の家で二人がが何をしていたのか、興味津々といった感じの若葉を軽くあしらって、抱いていたカトレアを降ろし、代わりに若葉の足元からあずきを拾い上げる。
地に降り立ったカトレアは、それとなく若葉の後ろに隠れる。
自分が、若葉の視界に入らぬように。自分が、チョコレートを手に持っていることを知られてしまわぬように。
「じゃあ、またね」
「サナエ」
早苗がそそくさと帰ろうとした時、カトレアがそれを呼び止めた。
早苗は一度外に向けた身体を反転させ、カトレアの次の言葉を待つ。
「……ありがと」
「どういたしまして」
何のことに対してのありがとうなのか瞬時に理解した早苗は、笑顔で返した。
何のことに対してのありがとうなのか全くわからぬ若葉とあずきは、頭に疑問符を浮かべた。あずきの場合は、文字通り。
頭上でぽよぽよと疑問符を揺らすあずきを抱きかかえて、早苗は帰っていった。
…
「さて、と。ねえカトレア、二人で何をしていたのさ」
遠ざかっていく早苗の後姿を見送り、扉を閉めて鍵をかける。そして、扉に背を向けながら、若葉はすぐ後ろにいるであろうカトレアへ向けてそう切り出した。
早苗から聞き出せないのであれば、カトレアから聞き出そう、という魂胆である。
しかし、すぐ後ろにいるだろうと思い振り返った若葉の前に、カトレアはいなかった。
どこに行ったのかと思い、リビングへ向かい、きょろきょろと辺りを見回す若葉。すぐにカトレアを見つける事が出来た。
カトレアは、台所にいた。
小さな身体で、えっちらおっちらと冷蔵庫上部へよじ登っている。そして冷蔵庫を開け、手に持った何かを奥の方へ押し込んでいるように見える。が、若葉のいる位置からではよく見えない。
「カトレア、何しているの?」
カトレアに届くように、少しばかり大きな声量でカトレアに呼びかける若葉。
すると、ポヨを感嘆符にしながら振り向き、慌てて冷蔵庫の扉を、ばたん、と音を立てながら勢いよく閉める。小さな身体で器用なものだ、と若葉は思った。
冷蔵庫から、ぴょん、と飛び降りると、ぱたぱたと若葉に向かって走ってくる。
若葉が、一体何をしていたのかと問う間もなく、カトレアは声を上げる。
「み、見た!?」
「何を?」
今カトレアがなにをしていのか、全く見当がつかない若葉は、そう答えるしかなかった。
質問の内容からして、自分に見られたら困るような事でもしていたのだろうか、と推測する若葉。
気になるといえば、早苗の家で二人が何をしていたのかも気になる。教えてくれる見込みは限りなく少ないだろうけど、とりあえず聞くだけ聞いてみよう。
そう思い、再度『今日は二人で何をしていたのか』と言う質問をぶつけようとしたが、またもカトレアの言葉によって、若葉に質問する時間は与えられなかった。
「ワカバ! 今日は絶対に冷蔵庫を開けるなよ!」
僕がチャオだったら、頭の上に疑問符が何個も浮かんでいただろうな。そんな事を考える若葉。
『冷蔵庫を開けるな』とは、一体どういうことなのだろうか。
「冷蔵庫を開けるなって、なんで?」
「なんでも!」
「喉が渇いたときは?」
「わたしが飲み物取ってやる!」
「開けちゃダメなのは、僕だけ?」
「ワカバだけ!」
「でも……」
「……おねがい……」
いかんせん『冷蔵庫を開けるな』などという命令は聞いたことが無かったから、若葉はその真意を図ろうとして、つい色々聞き返してしまった。
その内にカトレアは高圧的な態度を崩して『冷蔵庫を開けるな』という命令は、いつの間にかお願いになっていた。
しゅん、と俯いて、上目遣いで若葉の顔色を伺うカトレア。
理由はわからないけれど、そのお願いを断る理由は、どこにもない。
若葉は、しおらしくなったカトレアに、囁く様な口調で言った。
「わかった。開けない。僕が冷蔵庫を開けそうになったら注意してね」
「……ん」
若葉の答えに、カトレアは納得したようである。
「さっき、丸い木の実買ってきたんだけど、食べる?」
「ん」
短く返事をすると、カトレアはとことこと歩いていく。
羽を使ってジャンプすると、ソファに、ぽすん、と座り込んだ。
若葉は台所へ向かい、あずきと買い物に行ってきたときに買ってきた丸い木の実を取り出す。
ふと、リビングへ視線を向けると、カトレアがソファの背もたれの上から、大きな目だけを覗かせて若葉を見ていた。
若葉と目が合った瞬間、ひょいと頭を下げて隠す。
いくら僕が普段ぼーっとしていると言っても、さすがに一分も立たないうちに約束を忘れたりはしないよ。
若葉は心の中で苦笑しながら、丸い木の実をカトレアの元へ持っていった。
…
……
………
反転して台所へ向かい、牛乳を取り出そうとした所で僕は——。
——冷蔵庫の扉へかけた手を止めた。
今日の夕方に、カトレアと交わした約束を思い出したからだ。
『明日まで僕は冷蔵庫を開けてはいけない』という約束を。
今なら、カトレアはいない。黙って開けてしまっても、きっとばれないだろう。でも。
「開けるわけにはいかないよね」
当然、カトレアとの約束を破るわけにはいかない。何を隠しているのかは、気になるところではあるけれど。
仕方なくココアの持参を諦め、手ぶらで自室へ向かう。僕の部屋ではきっと、カトレアがすねているはずだ。
部屋に入ったら、どのように声をかけようか。久しぶりに、お風呂にでも誘おうかな。
そんな事を考えながら、僕は階段を上がっていった。