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第七話 ~ハッピーバレンタイン~
二月十三日(土)
先程から、カトレアの様子が変である。
ぼーっとしていて話しかけても反応が無かったり、かと思いきや、落ち着き無くそわそわしだしたり……。
時刻は、まもなく午後八時を迎える。僕は今、晩御飯を食べ終わり、ソファに座ってテレビを見ている。
その左隣に、ちょこんとカトレアが座り込んでいる。傍から見るとなんら変哲のない、いつもどおりの光景だ。
でも、僕にはわかる。カトレアの様子は、いつもどおりではない、ということが。
横目でカトレアを見る。
今も隣にいるカトレアは、俯き加減で視線は中空をさまよっていてそわそわしてて……。何か考え込んでいるような、そんな感じに見える。
夕方からずっとこんな調子なものだから、僕はカトレアの様子が気になって、今、流れてるバラエティ番組の内容などちっとも頭に入ってこない。
晩御飯の前に、何か悩み事でもあるのか、と尋ねたのだけれど。
「わ、ワカバには関係ない! 死ね! バナナの皮踏んづけて死ね!」
と、怒られてしまったので、食事中も、そして今も、何も聞かない様にしている。聞かれたくないこともあるだろうし、無理に聞きだそうとするのはよくないと思ったからだ。
しかし、カトレアがこんな調子だと、僕の調子も狂う。
何か嫌な事でもあったのか、今日寝る前にでももう一度聞いてみようかな。聞くとしたら、どんな風に聞けば怒らずに話してくれるかな。
そのような事を考えながらカトレアを横目で眺めていると……大変、珍しい光景が飛び込んできた。
——カトレアのポヨが、ハートの形になっているのだ。
珍しい。大変珍しい。どのぐらい珍しいかと言うと、せかせかと働き回っているナマケモノぐらい。
呆気に取られたけど、これは大変喜ばしい光景だ。
カトレアの様子を見て、僕は……そう、元気が無いように感じていた。
悩み事があるんじゃないかとか、嫌な事があったんじゃないかとか、ネガティブなことばかり考えていたけれど。
杞憂だったのかな。そうだといいな。
布団の中ででも聞こうと思ったけれど、その予定を早めてしまおう。質問の内容も、少しばかり変更して。
「カトレア。何かいいことでもあった?」
何か嫌な事でもあったのか、などと聞こうとしていた先程までと打って変わり、とても晴れやかな気分だ。声のトーンにも、それが表れていたと思う。
しかしカトレアは、僕の問いかけに対して無反応だった。と、いうより、全然聞こえていないように思える。
「カトレア?」
再度の呼びかけにも反応はない。ハートのポヨを浮かべて、手をもじもじさせて……僕の声などまるで聞こえていないようだ。
「おーい、カトレアー?」
「!」
腰を浮かせてほんの少しカトレアとの距離を縮めて、右の手のひらをカトレアの顔の前で上下に振りながら呼びかける。
すると、カトレアのポヨは形状を感嘆符へと変化させ、それと同時にカトレアの身体がぴくんと跳ね上がった。
目を真ん丸にさせて、僕の顔を見上げるカトレア。びっくりさせてしまったけれど、ようやく気づいてくれたみたい。
「何かいいことでもあった?」
「え?」
改めてそう聞いてみた。聞かれた本人は『何のことだかわからない』といった感じで、ポヨがそれを代弁する様に形を変えた。
「さっき、ポヨがハートになってたから」
そう付け加えると、しばし黙り込んだ後、カトレアの表情がこわばっていった。
そして『ぁ……』とか『ぅ……』とか、蚊の鳴くような声で呻きながら、視線を床に落として手をもじもじ。
俯いたカトレアの横顔は勿論その身体と同じで、美しい輝きを含んだ鮮やかな桃色なのだけれど、その頬にうっすらと赤みが差しているように見える。
もしかして、熱でもあるのかな。
なんだか、また急に心配になってきた。とりあえず熱の有無だけでも確認しようと、カトレアを抱き寄せようとした、その時。
「わ、ワカバには関係ない! 死ね! こんにゃく踏んづけて死ね!」
カトレアは座り込んだ状態からすっくと立ち上がると、ソファをトランポリン代わりにしてぴょんっ、とジャンプ。
ヒコウタイプ特有の大きな羽を羽ばたかせて、ぱたぱたと飛んで行ってしまった。リビングを出て行って、向かう先は、二階にある僕の部屋らしい。
……どうやら、また怒らせてしまったようだ。
ポヨがハートになってるのを見たときは、今回は穏便に事が進むと思ったのだけれど。
カトレアの背中を見送った後、スタッフロールに突入していたバラエティ番組を最後まで見ることなく、リモコンを手にとってテレビを消して席を立つ。
その足で二階に上がろうとして、階段の前まで思いとどまった。ついでに、カトレアにココアを持っていってあげようと思ったからだ。
反転して台所へ向かい、牛乳を取り出そうとした所で僕は——。
——冷蔵庫の扉へかけた手を止めた。
今日の夕方に、カトレアと交わした約束を思い出したからだ。
『明日まで僕は冷蔵庫を開けてはいけない』という約束を。
………
……
…
——時を遡る事、七時間前。
「わーかーばー、あーけーてー」
よく晴れた日曜のお昼過ぎ。高く透き通るような声が若葉の家の玄関前で響いた。
その声はリビングでくつろいでいた若葉の耳にも届き、客人の訪問と正体を知らせると同時に、若葉を呆れさせた。何度言っても無駄なんだろうな、と。
フードの着いた緑のトレーナーにベージュのズボンという格好で、若葉は玄関まで客人を出迎えに行った。
若葉が扉を開けるとそこには、膝丈まである真紅のコートを着た一人の少女が立っていた。
「おっす、ワカちゃん」
花のような笑顔を浮かべて元気よく挨拶する少女。先程、若葉を呆れさせた声の主、若葉の幼馴染みの早苗である。
そして、もう一人。
「ワカバ殿、どうもこんにちわ」
首元に巻いた深緑のマフラーを揺らしながら独特な口調で挨拶をしたのは、早苗が胸の前で抱きかかえている、小豆色をしたダークハシリタイプのチャオ。早苗が育てているチャオ、あずきである。
若葉は扉を右手で支えて、早苗とあずきを迎え入れる。
「いらっしゃい、上がって」
「あれ。ワカちゃん、いつもみたいに『大声出さないでよ』って言わないんだ」
「言ってもやめないくせに。その呼び方も」
「おっす、カトちゃん。元気?」
「ん」
早苗とあずきが通されたリビングでは、きらきらと輝く桃色をしたニュートラルヒコウタイプのチャオが、ソファにちょこんと座っていた。
早苗の挨拶に、とても短い一言で返したチャオ。若葉が育てているチャオ、カトレアである。
早苗は抱きかかえていたあずきを床に降ろし、赤いコートを脱いだ。白のセーターに赤いチェックのスカート、黒のタイツという格好になって、カトレアの隣に座る。
「……なんでお前までいる」
カトレアが、ひどく不機嫌そうに言い放つ。
早苗の足元にいる、あずきに対して。
「サナエ殿の行く所、僕は常にお供します。それが愛しのカトレアさんのいらっしゃる場所となれば、なおさら。地獄の果てだろうと馳せ参じてみせます」
マフラーを外した後、右手を胸に当て、姫を迎えに来た王子のようにお辞儀をするあずき。小さな身体を使って、懸命に愛と忠誠心をアピールしている。
しかし、カトレアにとってはどうでもいことらしく、頭上でぐるぐると渦巻くポヨがそれを表している。
「でも、カトレアが早苗に用があるなんて、珍しいね」
扉の施錠や、早苗が脱ぎ散らかした靴の整理などで時間を取られた若葉が、ほんの少し遅れてリビングにやってきた。
今、若葉が言ったように、今回早苗とあずきが訪ねてきたのは、カトレアの強い要望によるものである。カトレアが『早苗を呼んで欲しい』と、若葉に頼んだのだ。
もっとも、来て欲しかったのは早苗だけのようであるということは、先程のカトレアの態度が表しているが。
今までそんな事は無かったので、ほんの少し戸惑いはしたものの、それを断る理由などどこにもない。若葉はそれを快諾し、早苗を家に呼んだ。
「……サナエ、耳貸せ」
「ん、なあに」
早苗自身も、自分が呼ばれた理由がわかっていないが、むしろそれを楽しみにしている感がある。
早苗は隣のカトレアを抱き上げて、自分の顔に近づける。そして、カトレアの声を聞き逃さないように、文字通り耳を傾けた。
こうなると、話の内容が気になりだすのは若葉とあずきである。
目の前の二人は、明らかに内緒話をしていて、内緒話とは、他の人に聞かれたくないからするものである。
それでも好奇心を抑えられず、若葉とあずきはちょこちょこと近づきながら聞き耳を立てる。
当然、カトレアがそれに気づかぬはずがない。
「あっち行けー!」
突如あがった、きんきんとした甲高い叫び声に、若葉とあずきの、身体と心臓が跳ね上がる。そして、あずきの頭上には感嘆符が形成されるのだが、それはあずきだけでなく、若葉の心境も表しているといっていいだろう。
「そうそう、女の子同士の話なんだから、男の子はあっちへ行ってなさい」
左手でカトレアを抱いたまま、犬でも追い払うかのように、右手をひらひらさせる早苗。この展開を面白がっていると言う事は、けらけらと笑っている様から容易に見て取れる。
当然のことながら、チャオには性別がない。だから、女の子同士も男の子同士もないのだが、そのチャオの雰囲気が性別を連想させるのだろう。今回なら、カトレアは女の子、あずきは男の子、という具合に。
追い払われた若葉とあずきは、仕方なく女女性陣から少し離れた場所に座って待機。早苗とカトレアは内緒話を再開する。
待っている間も若葉とあずきは、
「何を話しているんだろうね」
「皆目見当がつきません」
二人が何を話しているのか、気になって仕方が無いようだった。
「……だから、その……手伝って欲しい」
「ふむふむ、なるほど」
「……だめ?」
「もちろん、全然オッケーだよっ」
「……ん」
早苗とカトレアの話し合いが終了したようである。
カトレアを抱いたまま、早苗は顔だけ若葉とあずきのほうへ向けて、
「ワカちゃん。カトちゃんのことちょっと借りるね」
そう言った。
「へ?」
気の抜けた声を上げたのは若葉だ。
全く予想していなかった、というのと『カトレアを借りる』という言葉の意味を瞬時に理解できなかったというのが声に表れていた。
「これからカトちゃんと一緒に、あたしの家に行ってくるから。悪いんだけど、あず君のことよろしくっ」
「いや、ちょっと待ってよ」
「夕方には戻るからっ」
先程の話し合いが大いに関係しているのだろうとは思っても、話し合いの内容を知らない若葉にとっては突然すぎる展開だった。
そんな若葉の説明要求にも応じず、右脇にカトレアを抱え、左手で先程脱いだコートを掴むと、慌ただしく廊下へ向かう早苗。
その勢いには、早苗のこの行動の原因であると思われるカトレア本人も面食らったようで、目を真ん丸くしている。
廊下へ出て、玄関へ向かう……前に、くるりと振り返り、一言。
「ワカちゃんとあず君は、絶対に来ちゃダメだからねっ!」
早苗の指令に追従するように、カトレアは早苗の腕の中で、うんうんと首を縦に振る。そして、若葉とあずきを睨みつける。
心の中で、早苗と全く同じことを言っているのだろう。
しっかり釘を刺された若葉とあずきはたじろぐ事しか出来ず、それを見届けた早苗とカトレアは今度こそ玄関へ向かい、若葉の家から出て行くのであった。
取り残された二人は。
「うーん……なんなんだろうね」
「うーん……なんなんでしょうね」
困惑する事しか出来なかった。
「二人は出て行っちゃったし、どうしようか」
「こっそり覗きに行ってみますか?」
「二人が何をしているのかは興味あるけど、やめておこう。後が怖いし。……そうだな、ちょっと買いたいものがあるんだけど、付き合ってくれる?」
「お供させていただきます」
「よし、それじゃ僕達も出かけよう」
そうと決まると、若葉は二階の自室へ上着と財布を取りに行き、あずきは先ほど外したマフラーを再び首元に巻いて、それぞれ外出の準備を整え始めた。