第五話 ページ3
季節は廻り廻って、二年目の夏を迎えた。若葉が、カトレアと過ごすようになってから、である。
小学二年生となった若葉は、夏休みという、子供時代最大級のイベントを存分に謳歌していた。
なんと言っても、遊びたい盛りである。遊びに誘い誘われ、子供の本分の全うに勤しむ毎日だった。
しかし、その事態に不満を抱く者が居た。
カトレアである。
若葉が友人と遊びに興じる時間と、若葉が自分にかまってくれる時間が見事に反比例していることに対し、カトレアは、それはとても不機嫌だった。無論、増加の一途を辿っているのは前者である。
きっと、若葉にとっては疾風の如き早さであっただろう。カレンダーには、次々と黒のマジックで斜線が加えられた。
そして若葉は、失念していたのであろう。宿題という命題を。
長期休暇の前半に遊戯の時間を集中させたツケは当然押し寄せてくる。八月中旬から下旬にかけての若葉は、悩ましげに机に向かう姿が多く見受けられた。
故に、カトレアはこの夏休み、若葉とあまり遊べなかった。
言葉を話すことの出来ないカトレアは、ただただ、頭上に渦巻きを浮かべるしか出来なかった。
そのようなことでは不満の発散には到底至らず、やるせなさは確実に蓄積されていった。
そして、夏休みも残り数日となったある日。
積もり積もった、カトレアのもやもやした気持ちが、ちょっとした事件を引き起こす事になる。
カトレアの心の空模様を表すように、その日は朝から灰色の雲が上空に浮かんでいた。
家には、若葉とカトレアしかいなかった。
若葉は、お昼を済ませたあと、二階の自室に篭ってしまった。恐らく、宿題の山を切り崩す作業に夢中なのだ。
カトレアとしては、またも若葉と遊ぶ機会を得られなかった格好だ。
「チャオ……」
誰も居ないリビングで、一つため息をついたカトレア。頭の上では当然、ポヨがカトレアの心情を表している。
ぽつんと取り残されたカトレアは、自分以外の生き物が全て世界から消え失せてしまったかのような感覚を覚えた。
静寂の中に放り込まれた今の状況は、寂しがり屋のカトレアにとっては耐え難いものであった。
周りを見ても、居て欲しい人は何処にもいない。
リビングを出て、階段を上ればそこに居るのに。カトレアにとっては、それが途方もない距離に思えて仕方が無かった。
その内、重苦しい静寂が振り払われる出来事が起きた。空から、大きな雨粒が降って来たのだ。
たった一粒の水滴を皮切りに、数分と経たぬ内に窓の外は豪雨となった。
ざあざあと、激しい雨音は容赦なくカトレアの頭に響く。
若葉と共に聞いたときは、心地よささえ感じたこの音。けれども、一人きりで聞いたこの音の、なんと寂しい事だろうと、カトレアは思った。
カトレアは背中に生えた小さな羽をぱたぱた動かし、手持ち無沙汰に部屋の中をぷよぷよと飛び回り始める。ただただじっとしていると、寂しさに押し潰されてしまいそうだったから。
リビングの中を右往左している内、カトレアは、棚の上の「ある物」を落としてしまう。棚の前を通り過ぎるとき、羽ばたき続けていた背中の羽が当たってしまったのだ。
しかし、カトレアがその事実に気づくことは無かった。
羽が当たったと言っても、僅かに掠っただけであるし、「ある物」の落下の際に生じた小さな衝突音は、雨音でかき消されてしまったからだ。
落下物に気づかなかったことが後(のち)に悲劇に繋がるとも知らず、カトレアは中空を彷徨い続ける。
ふいに、部屋の隅っこ、棚の陰で忘れられたように佇む、サッカーボールに目を引かれた。少し土が付いて、汚れている。
こんなところにサッカーボールが転がっている理由を、カトレアは思い出していた。
若葉が、宿題に追い掛け回される状態になる前。外で遊んできた若葉が、習得したリフティングを見て欲しいと、リビングで披露したのだ。
やめなさいという母親の静止も聞かず。
結果、ボールはあちらこちら跳び回り、若葉は母親にこっぴどく叱られる事となった。
その後母親がサッカーボールを取り上げていたが、それからずっとここに放置されていたのだろう。
カトレアは、心に積もっていく寂しさが、怒りにも似た気持ちに移り変わっていくのを感じた。
怒りなら、発散する手立ては無くもない。例えば、物に当たるなど。
「チャオ!」
今思えば、突然降り出した豪雨は、カトレアの我慢の決壊を表していたのかもしれない。カトレアは、サッカーボールをおもむろに持ち上げて、壁に向かって叩き付けた。
叩きつけられたボールは、バウンドしながらカトレアの横を通り過ぎる。——カトレアは、背後で、ぐしゃり、という音がしたのを聞いた。
振り向いた先に見た光景は、ぐしゃりと押しつぶされ床に伏せている、若葉の手作り貯金箱であった。自由研究の課題として、数日前に若葉が完成させたのをカトレアは見ていた。
転々とするボールの行方に目もくれず、カトレアは貯金箱を拾い上げる。
牛乳パックのボディはぐにゃりと歪(いびつ)な形に変形し、土で汚れ、突き刺してあった二本の割り箸も、ふらふらな状態になっている。
「……チャオ……」
カトレアは、さーっと血が音を立てて引いていくのを感じた。
その音すら飲み込まんと、雨の勢いははより一層激しさを増してきた。
カトレアは、自分が潰してしまった貯金箱を目の前にして、何をすればいいのか悩んだ。
そして最善の行動として、直すという選択肢を取った。今のカトレアには、それが精一杯の誠意の表現だ。
まずは、汚れてしまった部分を綺麗にする。カトレアは小さな自分の手で、土の付いた部分を擦る。
今度は、土の付いた手で、凹んで歪んでしまった形を整えようとする。けれども、チャオの手ではなかなかうまく行かない。
悪戦苦闘しているうちに、歪みはさらに強くなってしまい、折りたたみ椅子のようになってしまった。
カトレアは、泣きたくなるのを何とかこらえて、先に割り箸部分の修復に取り掛かることにする。
ガムテープを引っ張り出してきて、べたべたと貼り付けて、ばんざいの様な格好になるように割り箸を固定する。
この時、カトレアには気づく余地は無かったが、若葉が作成した「硬貨を入れると割り箸が跳ね上がるギミック」は完全に封鎖される運びとなった。
あとは、この歪みさえ正すことが出来れば。カトレアはそう思っていた。
もっとも、まだ微妙に残っている土や、張られていなかったはずのガムテープなど、若葉が見たら一目で何かあったことに気づくだろうが、そこまで考えている余裕などカトレアには無かった。
——足音が二階から下ってきたのは、その時だった。
う~ん、という唸り声が聞こえる。両手を突き上げて体を伸ばしながら、若葉がリビングに姿を現した。
難攻不落と思われた宿題という名の強敵を、とうとう打ち滅ぼすことに成功したのである。
若葉は、カトレアに気が付き、視線を送る。カトレアは、その視線に釘付けにされたように固まってしまった。
カトレアにとっては、皮肉な結果としか言いようが無かった。
一番会いたかった人に、一番会いたくないタイミングで会ってしまったのだから。
「あ……」
案の定、若葉は気づいた。自分が作った貯金箱に、異変が起きたことに。
そして、それを両手でしっかり握り、こちらを見つめて硬直しているカトレア。十中八九、カトレアが起因だと若葉は思った。
「それ、カトレアがやったの?」
悲しいような、怒っているような、ともかく、普段の若葉からは想像出来ない声色で発せられた言葉に、カトレアは恐怖した。
若葉に対し恐怖を覚えたのではなく、若葉に嫌われたと確信できる事態に、恐怖を覚えたのだ。
カトレアは、貯金箱を握り締めたまま、何もすることが出来なかった。
若葉も何も言わず、ただじっとカトレアを見つめていた。
このとき若葉は、やはり貯金箱作成に費やした努力を無に帰された事に対し落胆を覚えていたのだ。
夏休みの課題を全て片付け、喜びを覚えていた時のことだけに、ショックは大きかった。
無論、若葉も、カトレアが悪意を持ってやったと決め付けているわけではないのである。今にも世界から消え入ってしまいそうなカトレアの表情を見れば、何か理由があったのだと容易に想像できる。
けれども今の若葉には、カトレアを気遣う余裕は無かった。
どちらにしろカトレアが原因なのは間違いなさそうで、何もアクションを起こさないカトレアの態度が、若葉の心にほんの少しだけ、カトレアに対する非難の念を生み出した。
二人で静寂の空間を彷徨い始めてから、数分後のことだった。
カトレアに、異変が起きたのは。