第五話 ページ2
——三年前。
当時、小学校に上がったばかりの若葉が、初めてチャオの卵を手にしたのは、桜の舞い散る暖かな季節のことだった。
若葉は大いに喜んだ。卵を手にしてから、三日三晩その手に抱いて離さないほどに。
もっぱらその間(あいだ)は、生まれてくるチャオの名前ばかり考えていた。
「何にしようかな」
リビングにて、生まれてくるチャオの名前を思案中の若葉。カーペットの上で胡坐を掻いて、その上にチャオの卵を抱(いだ)いている。
どんな名前をつけていいものか皆目見当の付かない若葉は、母親に助言を求めた。
すると、母親は助言を与えた。愛らしい花の名前がいいのではないか、と。
そして、アイスココアの入ったコップをテーブルに置き、一冊の植物図鑑を若葉に手渡したのだ。
これで花の名前を調べろ、ということなのだろう。
ひとまず卵をどかして、若葉は手渡された植物図鑑のページをめくる。漠然と、自分がいい名前だと思える単語を探しながら。
ぺらりぺらりとページをめくりながら、若葉は右手でテーブルの上のコップを掴む。
中身を半分ほど口に流し込んでから、再びテーブルに戻そうとした若葉。
しかしその際、集中力の大半を植物図鑑に注いでいたため、自分の手とテーブルとの距離感を図るのに失敗してしまう。
故(ゆえ)に、若葉はコップの中身を植物図鑑にぶちまけた。
「うわっ、うわっ」
図鑑の上を滑るように濡らしていくココア。
端まで行き着き、行き場の無くなった液体は、若葉の洋服にも容赦なく降りかかる。
母親に叱られる自身の姿が、容易に想像できた若葉であった。
とにかく、事態の沈静化に努めるべく、ティッシュを手に取ろうとする若葉。
その時若葉は、、ココアに濡れた図鑑のページの、ある単語に目を引かれた。
隣に掲載されてる花の写真は、無残にも茶色く変色してしまっているが、それでも鮮やかなピンク色をした美しい花だということは分かった。
若葉は、この花に不思議な魔力を感じ、魅了された気がしてならなかった。
「決めた! チャオの名前!」
——この後(あと)生まれてきたチャオは、めでたくこの花の名前を冠することなった。
生まれたのは、ツヤツヤに光り輝く、鮮やかなピンク色のチャオだった。
…
桜舞い散る暖かな季節に始まった、カトレアと共に過ごす若葉の新たな生活は、順調に時を重ね、太陽の輝く灼熱の季節を迎えることになる。
カトレアは、若葉に、それはとてもよく懐いた。
若葉が家に居るときは、カトレアはいつも、さながらカルガモの親子のように若葉にくっついて回る。
今も仲良く、リビングで扇風機の風に吹かれてお昼寝中である。
その穏やかな眠りに終止符を打たんと、呼び鈴の音と大きな女の子の声が若葉とカトレアの耳を劈いた。
「わーかーばー、あーけーてー」
若葉にとっては、聞き覚えのある声であり、カトレアにとっては、初めて聞く声であった。
とろとろと、半覚醒状態であるが故に、鈍重な動きで起き上がろうと若葉をよそに、母親がさっさと玄関を開け放ち、来客を迎え入れた。
数秒後には、来客はリビングまで入り込んでいた。
「ワカちゃんっ。チャオ育ててるんだって? 何で黙ってたのっ」
開口一番、そう捲くし立てたのは若葉の幼馴染、早苗であった。そして若葉の目の前にしゃがみこむ。
「あ、この子がワカちゃんのチャオかっ。抱っこしていい?」
「いいよ。カトレア、っていうんだ」
「じゃあ、カトちゃんだっ」
早苗は若葉からカトレアを渡されるとすっと立ち上がり、カトレアを高く掲げあげて、赤いワンピースの裾を翻し、くるくるとメリーゴーランドの如く回り始めた。
カトレアはその単純な遊戯を気に入ったようで、早苗の手の中できゃっきゃとはしゃいでいる。頭の上で、ハートの形をしたポヨが跳ねて揺れた。
「あのねっ。私も今度チャオ育てるんだっ」
メリーゴーランドを中止した早苗は、若葉の隣に座り込み、唐突にそう切り出した。
「それでね、今名前を考えているんだけど、どんなのがいいかなぁ?」
「それを相談しに来たの?」
「うんっ」
早苗は、破顔一笑して言った。
くしゃっとした、向日葵のような笑顔からは、まだ名前も決まらぬチャオへの相当な期待が滲み出ている。
「ね、ね。ワカちゃんは、この子の名前決めるときどうしたの?」
懐(ふところ)に抱いたカトレアの頭を優しく撫でながら、早苗は若葉に訊いた。
カトレアが早苗のスキンシップに心地よさを感じているのが、拡大と縮小を繰り返すハートのポヨから見て取れる。
「カトレアはねぇ、えっと……。お花の名前がいいんじゃないかって、お母さんが言ったんだ。だから、カトレアっていうお花の名前にしたの」
「へぇっ」
名前を決めあぐねている際に、たまたまココアを零した図鑑のページに載っていた花の名前をとった……とは、なんとなく言いづらかった若葉であった。
若葉が、早苗も花の名前からとってはどうか等(など)と話していると、若葉の母親が、透明な器に入ったかき氷を二つ、両手に携えてやって来た。
片方は、小豆がたっぷり乗ったもの。もう一つは、メロンシロップがたっぷりかかったもの。
どうぞ、と差し出されたかき氷を、礼を述べながら早苗が受け取る。迷わず、小豆の乗ったほうを。
若葉はメロンシロップがかかったほうを受け取った。
夏場に早苗が遊びに来たときは、かき氷を振舞うのが通例であり、早苗と若葉の好みは完全に把握している若葉の母親だった。
「いただきまーすっ」
銀色のスプーンで、上に乗った小豆ごと氷を掬い上げて、心底嬉しそうに頬張る早苗。少し遅れて、若葉も緑色の氷山にスプーンを突き刺した。
「しゃりしゃり、うーんどんな名前にしようかなー、もぐもぐ」
カトレアを膝の上に乗せたまま、茶色の氷山を切り崩していく早苗。
ふと、その手の動きが止まった。
「……むむっ」
そして始まる、早苗とかき氷のにらめっこ。
「むむむむむっ」
否(いな)、早苗と、氷の上に陣取る小豆とのにらめっこ。
若葉はその様子を、スプーンを咥えて見守っていた。一体、どうしたのであろう、と
「決めた!」
突然、大声を張り上げる早苗。
驚いたのは若葉だけではないようで、早苗の膝の上でカトレアも、ポヨをエクスクラメーションマークに変化させていた。
「決めたっ。決めたよ名前っ。あたしのチャオの名前っ」
「なんていう名前?」
「——まだ内緒っ」
——数日後、再び早苗は若葉の家にやって来た。細い両腕で、小豆色のチャオを抱いていた。
早苗は数日前と同じく、くしゃっとした、向日葵のような笑顔でこう言った。
「じゃーんっ。この子があたしのチャオだよっ。名前はねぇ——」