14. カタストロフィ
私たちは意気揚々としながらチャオガーデンに戻りました。この時がとても楽しかった。街を歩くいろいろな人の顔や、ビルや、商店の光がすべて笑顔であるかのように思われて、私もたぶん笑っていたんでしょうね。街の人たちもみんな笑顔に包まれていました。
でも、そのときの私はあまりにも嬉しかったので、私を前々からちくちくと蝕んでいたあの事実から、目を背けていたのかもしれません。
気がつくと、私はガーデンの床の上にへたり込んでいました。どうしてこうなったのか、すぐにはわかりませんでした。そばにいた千晶にとっても、それは同じだったようで、
「どうしたの」
と、私の顔を覗き込みながら聞いてきます。
私は「わからない」と答えようとしたのですが、口が動きません。そればかりか体のどの部位も、まるで金縛りにあったかのように、全然満足に動かせないのです。最初は疲労からくる目眩かなにかかと思ったのですが、すぐに違うと気付きました。これはそう、もっと潜在的な、ずっと昔から私の臓腑をうごめいていた、癌のようなものでした。
私は以前、一次進化したときも、似たような感覚だったことを思い出しました。あのときは進化でしたから、ちょっと大人になれるような気がして、わくわくしながらこの金縛りが解けるのを待ったものです。でも、今は違います。これは恐怖です。以前はあんなにも楽しみだった金縛りが、今では恐怖の象徴でしかないなんて、信じたくない皮肉でした。まもなく灰色のマユが、私を包みました。
意識ははっきりとしていました。けれども私の視界は徐々に暗くなり、周りの音はだんだんと小さくなっていきました。さっきから千晶がずっと「どうしたの」を連呼していて、そろそろ気付かないのかなと思っていると、ようやく気付いたみたいです。気付いたら、今度はおろおろし始めました。本当にしょうがない人です。誰かがこの人の側にいるべきです、と思って見ていると、偶然通りかかったらしいエミーチャオが、しゃがみこんだ千晶の頭をなでて、「とりあえず落ち着くちゃお」というようなことをいい始めました。エミーチャオがいれば何とかなるでしょう。私の出る幕はもうありません。私はやすらかに目を閉じました。
自分でも意外なほどに、死の運命を淡々と受け入れることができていました。最後にいい思い出を作れてむしろ幸運だったかなと、そんなふうに思うところもあります。強いて悔いを挙げるとするならば、最後に千晶や、エミーチャオや、ポプリや、そのほかガーデンのみんなに何か一言、遺言のような言葉を残したかったんですが、この手足の動かない状況では、それを果たせそうにありません。心の中で念じることしかできなさそうです。ありがとう、そして、さようなら、と。
「……死ぬなっ」
えっ……?
マユの向こう側で、千晶が何かを叫んでいました。
「せっかく働いても、ふうりんが死んじゃったら、意味ないじゃんか!」
「一緒に暮らそうと思ってたのに!」
……一緒に暮らす? 私と? 千晶が? そのために働くって?
一瞬、千晶が何をいっているのかわかりませんでした。彼女があんなにも働きたがっていた理由、それはたしかに謎でしたが、私はそれを、デザイナーになりたいという昔からの夢であるとか、あるいは単調な大学生活からの逃走欲求であるというように理解していました。それだけではなかったんですか? 私と暮らすために、仕事をするって? たしかに「多くの目的があるほど意志を強くする事ができる」と、私は以前述べましたが、それにしても、私と共に暮らすって、一体なぜ、そんな目標を持ったんですか?
仮にそれが理由の一つだったとしても、疑問が残ります。どうして、数あるチャオの中でも、私を選んだんですか。たしかに、チャオガーデンにいるチャオの中では、千晶は私と一番長い時間話していましたし、就職の面倒を見てあげたり、相談に乗ってあげたりしたのも私です。しかし、たったそれだけで、大学を辞めてまで、私と一緒に暮らしたいなどと思うでしょうか?
まさかとは思いますが、私を助けようとした? 何年もチャオガーデンに居残っていて、誰からも引き取られそうにもないこの、私を?
それもおかしなことです。私はたとえ自分が死んだとしても、時間というのはそういうものなんだ、諸行無常なんだということを、ずっとずっといい続けてきました。それを聞いていた誰が、私を助け出そうとしてくれるでしょうか。誰が私の本当の恐怖を知っていたでしょうか? 死ぬことが怖かった。でも、それを隠し続けてずっと生きてきた。私の心の最も醜いこの部分を、誰が、いつ、知ることがあったといえる? 千晶が? 本当に?
デザイナーは、決して自分を表現してはいけないと、彼女はいっていました。クライアントの要望をよく聞いて、人が本当に欲しているものを理解してあげて、その目的を果たすためにデザインがあるのだと。
私にはようやく、千晶が何をやろうとしていたかがわかりました。もしも彼女が無事に就職していたら、私は、彼女によって目的を果たしてもらえる、最初のクライアントになるはずだったんです。
私は弱いチャオです。それでも、その弱さを他人に見せつけまいと、必死に取り繕って生きてきました。必死に見栄を張って、心の最も醜い部分をひた隠しにし続けてきました。でも、やっぱりダメだったんです。私は自分の心に正面から向き合っていなかったんです。
千晶は違います。たしかに表面的には弱い人のように見えますが、芯の部分はしっかりしています。だから、人の本当の望みが見えるんです。
私は階段を上っています。まっすぐに続く、長い長い階段です。けれども、そろそろ終わりが見えてきました。階段の最後には小さな踊り場が設けられていて、そこには古めかしい扉が、まるで昔から私の来訪を待っていたかのようにたたずんでいます。闇から逃げる私の旅も、ついにこれで終わりのようです。私の足は引き寄せられるように、その扉へと向かっていきました。あの扉の向こうへ行けば、この苦しみから解放されると信じて。
私にはエミーチャオがいました。千晶がいました。ポプリもいました。ここに来てようやく、自分がどれだけみんなから愛されていたかがわかりました。エミーチャオが私に隠していたのは、つまりこのことだったんです。仮に私が、千晶が私を引き取ろうとしているという事実を知ってしまえば、私の喜びは半減してしまいます。それでは、千晶の仕事は果たされたとはいえません。私の潜在的な願いが叶えられたとはいえません。大きな喜びを生むのは得てしてショッキングな事実でもあります。小さな喜びでは、私の暗く沈んだ心は転生へと向かない。
エミーチャオには、私という友達以上に、大切にしていたものがありました。それはつまり、「私の幸せ」です。エミーチャオは、たとえ友達を一人失ってでも、私に幸せを与えようとしてくれました。
私は彼らに貸しがあります。私が生きていないと、エミーチャオは寂しがります。千晶は自分の仕事の意義を見失ってしまいます。ポプリは本当の自分をさらけ出せる相手を失ってしまいます。私を求める場所があって、人がいる。それが私にとって何よりの喜びであり、苦しみでした。
だから、私はもう少し、この苦しみに付き合ってみたいと思います。思えばどうしてこれまでそうしてこなかったんだろうと、不思議に思われるくらい簡単なことでした。私の足は、階段の最後の段に達します。次の瞬間、背後の闇がすっと近づいて、今足を離した段を飲み込みました。私は振り向きました。目の前には、広大で圧倒的な闇が迫ってきています。私は一歩踏み出しました。闇が、少し揺らいだかのように見えました。踊り場の淵。目の前には闇が広がっています。いや、これは本当に闇なのでしょうか。闇はすべてを覆い隠します。本当の闇とは、そこに何もないのと同じことなのです。私はさらにもう一歩踏み出しました。つまり、踊り場から落ちた。そういうことでした。私は闇をどんどん落ちていきます。頭上に浮かんだ踊り場が、ぐんぐん小さくなっていきます。
やがて、私は完全に闇に包まれました。