15. 出会い
私は何もかもをなくしました。そこにあるのは虚無と私。だから、私の他には虚無があるわけです。虚無があるというのはつまり何もないということなのか、それとも虚無があるのだから何かがあるといっても差し支えないのか。物事には複数の表現があります。その中から的確な表現を探し出すのが、一つの楽しみなのです。しかし、たった今、虚無は破られました。だから、私はもう一度的確な表現を考え直さなければいけません。ええと、これは、光ですか?
視界が真っ白になると、まるで頭が真っ白になったかのように錯覚します。だから、私は目を閉じました。目を閉じていても、あたりが明るいのはわかります。グレーです。自分がだんだんとグレーになじんでいくのを確認してから、もう一度目を開きました。目の前にあるのは、ヤシの実です。どこにでもあるようなヤシの実。世界で最も安い食事、ヤシの実。そのとき、私はふと、ものすごくおなかがすいていることに気付きました。唾液で空腹を知るなんて、お前はパブロフの犬か。そんなふうに自分でツッコミを入れながら、私はかぶりつきました。おいしい。別にどうってことないヤシの実なのですが、すごく懐かしい味がします。こういうのをおふくろの味っていうんですか? 微妙に違うような気がしましたが、いずれにせよ、我が家を感じさせる味です。そう、我が家。私はチャオガーデンに戻ってきたんです。
ぱたりと、ノートが閉じられました。
「満足したちゃおか?」
「うん。とっても」
私は思いっきり伸びをしながら答えました。ずっと文章を書いていると、肩が凝りますからね。
最後の方はあまりにも美化しすぎてしまったように思われます。でも、これでいいんです。だって物語のクライマックスが
“周囲が真っ暗になった、これでタマゴに包まれたことがわかったので、転生するんだなと思った。妙におなかがすいている。タマゴから出たら、早く木の実を食べたい。”
なんて文章だったら、悲しすぎるじゃないですか。……もっとも、転生できたという事実に、変わりはありませんけれど。
文章を書くには自分をさらけ出さないといけないと、よくいわれます。でも、それだけではありません。自分で文章に起こしてみて、改めて自分に気付くことがありました。私は体だけでなくて、心も変わったのだと。自分を取り巻く見えない情緒に気付くだけで、こんなにも世界が変わるものなのだと。だから、文字通りの意味で、転生は私にとっての「第二の誕生」なのです。
「どうするつもりなんですか?」
私は千晶に声をかけました。目の前には、二つの道がありました。一つは千晶に引き取られる道で、もう一つは、このままチャオガーデンに住み続ける道です。私が転生してしまったがゆえに、千晶にとっては、私を飼うための重要な動機が欠けてしまったように思われました。
「どうしたい?」
千晶も疑問で返しました。私にはもう、何もありません。一度死という束縛から解放されると、自分が何のために動けばいいのか、わからなくなってしまいました。
せめて千晶やエミーチャオが喜ぶようなことができればと思うのですが……
「私は、千晶がいいと思うなら、そうしますけど」
「あーもう、めんどくさいちゃおね」
私たちの問答を見ていたエミーチャオが、あきれたようにいいました。
「そんなにお互いが気になるなら、さっさと同棲しちゃえばいいちゃおに」
かなり問題のあるいい方ですね……
「まーまー、細かいことは気にしなーい」
エミーチャオが笑いながら私たちの背中を押すので、しかたなく立ち上がります。千晶の身長がみるみるうちに高くなって、私は彼女を、思い切り仰ぎ見ました。
「本当に、私なんかを引き取りたいんですか?」
「引き取ってもらいたかったんじゃないの?」
「だから、どうして、それを……」
「自分で書いてたじゃん。飼い主からの愛情をいっぱい受けて育つのは、チャオにとって嬉しいことだって」
そういえば、パンフレットの原稿には、そんなことを書いていたような気がします。でも、それだけで私がそう思っていると決めつけるのは、過大解釈なのでは?
エミーチャオが、あきれたようにいいました。
「だいたいねー、気付いてないと思う方がおかしいちゃおよ」
「誰だって道半ばでは死にたくないもんね」
私は愕然としました。まさかエミーチャオにも知られていたとは。しかし、それ以上に私を驚かせたのは、千晶がさも当たり前であるかのように、私を道半ばだと形容したことでした。
私の道って何でしたっけ? そもそも私は、これまで道を歩いてきたのでしょうか。
頭に槍が何本も突き刺さったかのようでした。階段の夢がフラッシュバックしました。私は何を求めて、ここまで生きてきたのか。知能とか、体の構造とか、そういうものじゃない。もっと別の何かが、私の心を支配していました。
千晶が私の心を理解するのに、どんな魔法を使ったのか。疑問が解けました。それは魔法でもなんでもない。チャオと人間とが、共通に心の中に抱く、とっても原始的なものです。生物学的な違いはどこにでもあります。けれどもそれを乗り越えて、どこの誰でも、お互いに理解し合うことができます。それは生物だから。生きていくためには、それが必要だから。そして、チャオと人間は、その意味で、互いに通じ合える生き物でした。
「この子はね、千晶と一緒にいれば、次に進めると思うちゃおよ」
エミーチャオが、ゆっくりと千晶に語りかけています。
「千晶ちゃんは、すごくこの子に似てると思うちゃお。似た者同士、二人で歩けば、きっと新しい世界が見えてくるような、そんな気がするちゃお」
わかるようなわからないような、不思議な話をしました。
「だからね、一緒にいてあげてほしいちゃお」
千晶がうなずきました。
「行こうか」
私の体が、ひょいと抱え上げられました。傷がうずきました。
待ってください。ここでチャオガーデンを離れたら、私は大切なものを失ってしまう。それは客観的にみればそれほど重要ではないかもしれないけど、私にとっては、大切なものなんです。それが私のかつての生き甲斐であり、今でもそうです。私は手を振って別れを告げるそのチャオを見ました。
もしも彼女が、私のためを思って、自分の感情を隠しているとしたら。すなわち、もしも私が二人の友人に対してしていたのと同じように、エミーチャオが、自分の心の底にある寂しさを、あえて表に出さまいとしているとしたら。
今、私がチャオガーデンを離れたら、エミーチャオの旧友は、完全にいなくなってしまいます。でも、エミーチャオはそれを許して、笑顔で私たちを見送ってくれている。私はどうするべきなんですか。私のケースがエミーチャオのケースと重ねあわせられるなら、私の解決が、エミーチャオの解決への糸口になるかもしれません。でも、どうやって?
エレベーターの扉が、仰々しく閉められました。これからは私がチャオガーデンでエミーチャオと寝食を共にすることも、もうないでしょう。エミーチャオの善意を無駄にしないためにも、私はしっかり前を見て、私の道を歩かなければいけません。
でも、少し遠回りさせてください。恩返しをしたいんです。私がエミーチャオに教わったのは、どんなときでも行動力と、ちょっとした遊び心を忘れないということでした。だから、実践させてもらいますよ?
エミーチャオが週刊チャオを見て、驚く姿が目に浮かびます。
もっとも、それがあんなにうまくいくことになろうとは、この時はまだ、思っても見なかったのですが……