10. 思い出

 それからの数日間、千晶は毎日チャオガーデンにやってきては、私たちに近況を報告してくれました。そうこうしているうちにずいぶん打ち解けてきて、互いに下の名前で呼び合うぐらいになっていたのですが、それはさておき。目下の心配事は、就活でした。

「ガーデンに来ている暇があるぐらいなら、ちゃんと準備をしてくださいよ」
 私が何度忠告しようとも、千晶の行動は変わりませんでした。彼女がいうには、自分なりにきちんと対策を練っているのだそうです。本当に大丈夫でしょうか? 高卒で実務経験なしという千晶の経歴は、客観的に見ればかなり不利です。

 おととい、私は小柴さんにアドバイスを求めてはどうかと提案しました。小柴さんは四年生だそうなので、もしかすると知人に就活をしている人がいたり、あるいはすでに内定(内々定?)をもらっていたりするかもしれません。

 千晶も私の意見に賛同してくれました。そして、昨日には、小柴さんに聞いてきたことを、私たちに教えてくれました。
「私の場合、アピールのポイントは二つあるんだって」
 いいながら、千晶は指を二本伸ばしました。
「一つは、描きためてたスケッチについて積極的にアピールするってこと。実績が少なくても、そういう日々の積み重ねの方が案外評価されるよって、先輩いってた」
 先輩、というところで、二本の指がくっついたり離れたりしました。
「それともう一つは、大学を中退してまでこの事務所に入ろうとした決意。一見ネガティブに取られかねない要素だけど、うまくやればその印象をひっくり返せるかもしれない」
 千晶は拳を握りしめます。
「やってやる。絶対に、やらなくちゃ」
 決意を固める千晶を、私はフィルターを通したような目で見ていました。

 ……千晶には、突発的に行動してしまうくせがあると思うんです。良くいえば感性に従順であり、悪くいえば予測不可能です。そう、あのとき——大学を辞めてしまったときのような自体が再び起こるのではないかという疑いが、私の内心をかき乱しました。
 かといって、それを直接口に出すことははばかられました。せっかくこうして信頼関係を形作ろうとしているのに、うかつな一言でそれを壊してしまったら、バカみたいだと思いました。

 ガーデンのプール際に立って水面をのぞくと、自分の顔が反射して見えます。いつも、千晶がやってくる午後四時頃の前になると、私はこうして、自分自身にいいかけました。必要以上にネガティブになってはいけない。最小限の言葉を選ばなければいけない。
 知らない人が見たら、考えすぎだと思われるかもしれません。でも、千晶が落ちてしまったら、きっと私はひどく落胆するでしょう。千晶がふわふわしている分、私がしっかりしなければいけません。私はおそらく、千晶にとって、数少ない依存できる相手なのです。

 チャオガーデンは、今朝から少しざわついていました。なんでも、ソニックがGUNの指名手配にリストアップされたことが、話題になっているようです。

 いつものように新聞を取りに行きます。受付ボーイさんもまた、興奮気味に一面の話題に触れました。
「これはビッグニュースですよ!」
「そうですか?」
 私がぴりぴりしているのが、語調から伝わってしまったのでしょうか。受付ボーイさんは私の顔を不思議そうにのぞき込みました。
「どうかされたんですか?」
「いえ、別に」
 私は言葉を濁しましたが、理由はもちろん、知っていました。今日は、千晶の試験日でした。

 ガーデンに戻って、エミーチャオと合流して、二人で帰りを待ちました。さすがのエミーチャオも、このときばかりは口数が少なかったように思います……
 ……いや、そうじゃない。最近ずっと、エミーチャオはあまりしゃべっていませんでした。ここ数日間の千晶との会話はすらすらと思い出せるのに、エミーチャオの言葉となると、不思議なぐらい出てきません。千晶と話しているとき、彼女も同席していたはずなのに……

 不安が生み出した小さな亀裂に、疑惑がするりと入り込んできました。発見が、私の内面をふくらませて、頭を支配していました。エミーチャオが寡黙にしていた理由がわからないのは、もちろんですが、同時に、私がなぜそんな基本的なことに気付かなかったのかも、自分のことなのに、まったくわからなかったのです。
 私は隣に座ったエミーチャオの顔を、ちらちらと横目で眺めました。ヤシの木の葉が投げる影が、彼女の顔を覆っていて、何を考えているのか、何を思っているのかまったくわかりませんでした。

「大丈夫……ですよね」
 私は不安を振り払うように、エミーチャオに助けを求めるように、言葉を発しました。
「……何がちゃおか?」
 安心感が胃袋を浸しました。よかった。エミーチャオと私の間で、会話が絶たれてしまったわけではない。今までためこんできた言葉が、口をついてこぼれ出ました。
「不安なんです。千晶が落ちたらどうなぐさめていいのかわからないし、それに…… 私は何度も彼女を信じようとしたけれど、やっぱりどこかで、信じられないんです。こんな私でいいんだろうかって、それが、一番不安なんです」

 エミーチャオは、淡々とした表情で、私の話を聞いていました。いつもならすぐに快活な返ってくるようなところなのに、エミーチャオは、何かを考え込むかのように私を見つめるだけでした。この時間がまた、私たちの間に見えない境界を作り始めているような気がしました。

「……君は千晶ちゃんに、心を注ぎすぎてるんだと思うちゃお」
 ぼそりと、遅れた返事が返ってきました。
「これは私の想像かもしれないけど……他人の問題を他人のものとして捉えてないから、自分と他人とを同一視してしまっているから、そんな不安にさいなまれてるちゃお」
「同一視……?」
 私の言葉を、エミーチャオは、手で制しました。心を釘付けにされるような、鋭い視線でした。

「二年ぐらい前に、君が学校に行きたがってたときのこと、覚えてるちゃお?」
 私の呼吸が止まりました。時間も、色も、生の鼓動も、すべてが停止したようになって、私は、私の中へ吸い込まれるように消えていきました。
 覚えているか? その答えは、自明でした。しかし——いや、正直になれば、私は知っています。エミーチャオが言おうとしていることを、私は、すべて知っています。

 あのときです。私が諦めたのは。
 明示した訳じゃないけれど、私はたしかに、自分の中にあった何かを捨てました。
 義務感。正義感。エゴイズム。
 チャオガーデンのチャオとして、身の丈にあった行動をしなければいけないという、現実。

 知識は時として毒になります。あのときの私が、まさに、その毒に冒されたような状態にあったのだと、今振り返ってみると、そうとしか思えません。毎日のように図書館に通っていた頃でした。そこにしばしば現れる学生と、そのパートナーのチャオたちが、うらやましくてたまらなかった頃でした。

 昔、チャオたちは努力して、社会に認めてもらおうとして、その結果今のようにチャオと人間の共存が図られるようになったのだと、私は本を読んで知りました。だから、私のつまらない主張も、努力次第で通るのではないかという夢のような物語を、思い描いてしまいました。ガーデンのチャオに教育を。言葉だけはかっこいいけれど、誰も望んでいない主張が、支持されるはずがありませんでした。

 言葉はレトリックです。私の個人的な感情、きちんとした学校に通って、経済的に充実して、図書館で楽しそうに談笑していた集団に追いつきたいという望みを、無理矢理社会的な枠組みに、はめ込むことができます。

 結局、どれくらい、あの運動に私は時間と労力を費やしたんでしたっけ。私がその構造に気付くまで、どれだけ無駄なことをしたんでしたっけ。
 個人的な欲求を満たすだけなら、友人Pのようなアプローチのほうが明らかに賢かったと、今になって思います。でも、私がそれに気付いたときにはもう、遅すぎました。

 私の失敗の原点は、すべて、あの時代にあるのです。もしも、普通のチャオらしくしていたら、学校に行くために大仰なことをしていなかったら、プライドを、羨望を、言葉を燃やしていたならば、私は今頃、生死の狭間で苦しんでいなかったのかもしれません。なにもかも、幸せな生活を送れていたのかもしれません。
 乾いた「はい」が、私の口から出てくるのに、かなりの時間を要しました。

 そして、エミーチャオが言おうとしていること。わかります。私は、今でも、バカなのです。脱皮できないのです。あのときのガーデンを出て、学校に行きたがっていた気持ちを、忘れられないのです。
「私には、君は自分と千晶ちゃんを同一視して、同じように、広い世界へと飛び出そうとしているという境遇を重ねているように見えるちゃお」
 エミーチャオの言葉が、鉛のように私の胃袋をつかんで、海へ引きずりこみました。
「私の勘違いかもしれないけど……そうだとしたら、先に行くには、どうすればいいちゃおか? 私は、君たちを応援したい。応援したいちゃおけど……」

 私はそのとき——なぜか、ごく自然に——エミーチャオの声が、ぐんぐんと迫ってくるのを感じました。本当は、エミーチャオも、自分の思いつきを否定してもらいたがっている。私の心の根をつかんだばかりに、恐怖にとらわれて、そこから離れたがっている……
 本当に、そうなのかは、わかりませんでしたが、でも、なぜか私には、彼女の声のトーンから、あるいは無数の彼女との蓄積から、無意識的に、そういう声を拾い上げていました。脳が融解したようにどろりと鼻をついて、熱を伴って、私たちを溶かし合いました。
「大丈夫です。私はもう、あの頃とは違います」
 そういう言葉が、望まれているような、そんな気がしてしまったのです。都合のいいだけの、中身のない言葉かもしれませんが、でも……

 エミーチャオの顔に、安堵の色が広がりました。
「そう……ちゃおよね」
「大丈夫です」
 どうしようかと、迷いました。でも、それは自分の内面の問題だから、エミーチャオに触れられて、始めて、客観的な視点を手に入れられたような気がしました。だから、私は自分に向けても、そう、いったのでした。

 いざというときに、自分と千晶とを切り離して考えられれば、不安から逃れられる。そんな処世術が、いいのか悪いのか、私にはよくわかりませんでしたが、とりあえず、今は客観的なアドバイスとして、胸の奥にしまっておくことにしました。
 今は、千晶が、大変だから。もうすぐ、彼女が帰ってくるはずだから、だから、今だけは、そういう対処をさせて欲しい。

 逃げじゃない。逃げじゃない。私はいい聞かせました。今を後悔しないための、前向きな選択をするために、私は——

このページについて
掲載日
2009年12月23日
ページ番号
17 / 23
この作品について
タイトル
チャオガーデン
作者
チャピル
初回掲載
2009年7月19日
最終掲載
2009年12月23日
連載期間
約5ヵ月7日