8. 誕生日
六月十一日(日)
私は階段を上っています。コンクリート製の無骨な階段が、まっすぐに続いています。その先は闇に溶け込んでいて、見えません。私は階段をただただ上っていきます。なぜそうしているのか、自分にもわかりません。背中から見えない何かが押し迫っている感じがして、かといって、焦って階段を駆け上がってしまえば、奥に続く闇に飲みこまれてしまうようにも思えて、だから私はずっと一定のペースで、階段を上っていかなければならないのです。
不意に、視界に変化が現れました。それまで一直線に続いていた階段が、右にぐにゃりと曲がっているではありませんか。私はすぐに、それがただの曲がり角ではないことに気付きました。ずっとまっすぐだと思っていた階段が、そこから先は螺旋階段に変わっているのです。
私は備え付けの手すりに手をかけて、螺旋階段を上り始めました。階段の形が変わっても、無限に続いているのは同じみたいです。ぐるぐると回り続けていると、なんだか延々と同じ場所を行き来しているんじゃないかというような、そんな気分にさせられます。
延々と回ります。まるで巨大なドリルで地球に大きな穴を開けて、そこに螺旋階段を作ったんじゃないかというぐらい、私は延々と回り続けました。いつまで経っても出口は見えてきません。私はどうしてこんなに回っているんでしょうか。まるでミキサーにでもかけられているかのようです。延々と回っていたせいか、どうにも視界がぐらついてきます。本当にこれはミキサーなんじゃないでしょうか。こうして螺旋階段をぐるぐると回っているうちに、私の体はぐちゃぐちゃのドロドロになってしまうんじゃないでしょうか……
起きてみると、目の前にエミーチャオがいました。
「ハッピバースデイ」
そういって、私の頭から両手を離します。ああ。私はようやく理解しました。あの恐ろしいミキサーの夢は、このエミーチャオが、私の頭を両側からぐりぐりしていたから見てしまった夢なのです。私が今ものすごく気分が悪いのも、すべてこのチャオのせいです。
「誕生日くらいゆっくり寝かせてください」
「誕生日なんだからもっとフィーバーしなくちゃ」
「そろそろ歳を取るのも嬉しくなくなってきました」
「私は毎年フィーバーしてるちゃおよ?」
そういう元気は私にはありません。五歳にもなると、もう老人って感じです。
聞けば、私の友人Pがチャオガーデンに遊びに来ているそうです。友人Pです。あの玉の輿の、ぶりっ子戦略を用いて、女の子のいる家庭に引き取られていった、あの友人Pです。もう名前を伏せるのが面倒臭くなってきたので、明かしますと、ポプリです。
名前からしてぶりっ子っぽいと思ってしまうのは、私だけでしょうか。
「やあ」
私がポプリを見つけると、ポプリも私に向かって手を振り返してくれました。
「ひさしぶりですね」
「だねー」
ポプリは私と同期のヒーローオヨギチャオです。最後に会ったのは半年ぐらい前なのですが、今日の彼女は、その時とはまた、ずいぶん印象が違って見えます。このタイプ特有の頭の羽のようなものが、今日は目元まで下がってきていて、髪飾りみたいなものもつけています。さすが玉の輿。おしゃれも自由自在というわけです。
そして、普段はこんなふうに狐をかぶっていますが、実際は相当な毒舌家なんです。私の前に来ると、すぐに本性を現します。
「五歳にもなってチャオガーデンにまだ居座っているとは、相当暇なんだな」
ほら、さっそく来ました。
「私はわざわざ引き取り活動をしてまで、引き取られたいとは思わないんです」
「しかしあんたもそろそろ年が年だろうに」
「死んでしまいますかね」
「だろうなあ。引き取られなかったんだもの」
ポプリは大きく伸びをしながら、他人ごとのようにいいました。
「そういう運命なんでしょう」
「努力を怠ってきた結果なんじゃないの?」
なかなか懐の痛いところをついてきます。しかしね、あなたのようにぶりっ子戦略を使うことは、私のプライドが許してくれないのですよ。
「せめて黙っていれば、もうちょっとかわいらしく見えそうなものなのになあ」
……たしかに、私のような口調で話すチャオは、チャオとして見られていないのかもしれないと、時々思います。いくらチャオと人間の関係が平等になりつつあるとはいえ、ペットとしてのチャオに求められているのは、何よりもまず、かわいらしさだということなのかもしれません。
「死んだら死んだで、それまでです」
「それまでっていったってさあ……」
めずらしく、ポプリの言葉が止まりました。
「もしかして、私が死んだら悲しみますか?」
「いいや、全然悲しくない」
なんという天邪鬼。
「あんたが死んだら、私は家中にあるあんたからもらったものとか、手紙とかを全部焼き払うね」
「それで枯れ木に灰をまくんですか」
「そう。そしたらなぜか桜の花が咲くんだよね。あちこちに。それで市長さんとかに感激されて、褒美をもらえるんだけど、隣の家の意地悪じじいが灰をまいたところ、花が咲くどころか市長の目に灰が入ってめっさ怒られて……ってそんなわけがあるかー!」
「ハッピーエンドまっしぐらだったのに」
「あんたの灰にそんな不思議な力があるはずない」
完全否定されてしまいました。私も何かいい返そうとしたんですが、ところが、ポプリが本当に思い詰めているようなので、出かけた言葉を引っ込めて、ポプリを待ちました。
「あのさ……これは冗談じゃなくて、真面目に聞きたいんだけど……」
毒舌家に似合わない、おぼつかない言葉たちが、彼女の口からこぼれ落ちました。
「本当に自分が死んでも構わないと思ってる?」
そう、聞かれました。私としては首尾一貫して同じことをいい続けてきたつもりなんですが……もしかしてまたこれを確認したいがために、わざわざチャオガーデンまでやってきたんでしょうか。
「構わないというか、しかたがないっていう感じです」
私がそう答えると、ポプリは重たい溜息と共に、目を逸らしました。
「そうやってあんたがいうのを聞くと、こっちとしてはちょっと不安になるんだよ。もしかして自暴自棄になってるんじゃないか、とかさ」
意外な言葉でした。まさかポプリがそんなふうに思っているとは、周りのみんなにそんなことを心配されているとは、思ってもみませんでしたから。
「そんなことはないですよ。ただ私がいいたいのは、人生は諸行無常、いつ誰が亡くなろうとおかしくはないってことです」
「でもあんたが死んだらガーデンのみんなは悲しむじゃないか」
「そうかもしれないけど、割り切って受け入れてくださいとしかいえませんよ。誰かが亡くなったにせよ、引き取られていったにせよ、結局受け入れなくちゃいけないのは一緒でしょ?」
「うーん」
ポプリは何かいいたげでした。どこかとらえどころのない表情で、その「何か」を模索しているようでしたが、しかし、しばらくして、諦めたかのようにつぶやきました。
「知識の前提が違うのかなあ」
知識の前提、ポプリのいわんとしていることは、よくわかりました。
私は、小さい頃から本を読んだり、人の行動を観察したりするのが好きでした。それに対してポプリたちは、チャオ同士で楽しく遊んだり、引き取り活動に精を出したり。このチャオガーデンの中で、私の行動は奇怪に見えたのかもしれません。
諸行無常とか、四諦とかいうのは、仏教の考え方です。でも、ポプリはきっと、そんな言葉を知らないんでしょう。生への執着が苦しみであるという考え方を、知っているか知らないかの違いです。
その後、ポプリはガーデンのいろんなところを回っては、私と一緒に知り合いのチャオを冷やかしてみたり、懐かしい落書きを見つけたりして、時間をつぶしました。
そのうちに一つ、個人的に気になることが出てきたので、聞いておきます。
「ところで誕生日プレゼントはないんですか?」
「もうプレゼントって歳じゃないだろ」
まあ、最初から期待してなかったんですけど。
ふう。
ポプリが帰ってから、改めて考え直しました。本当に、私はこのまま死んでしまっていいのでしょうか。本当に、私は無常論を信仰しているのでしょうか。
プールサイドに腰掛けて、水面を蹴ると、波紋が円弧状に広がっていきます。天窓から見える空がやんわりと色づき始めていて、それを反射したプールも、奇妙な色味に染まっていました。水面に映った私にとっても同じでした。
自分が死ぬという未来が、実感を伴って感じられないのは事実でした。けれども、それによって、ポプリやガーデンのみんなが悲しむといわれると、私の心は揺らぎます。できることなら、本当は死にたくない。だけど、今更どうしようもないんです。いくら愛情を注いでもらっても、五歳になった今からでは、遅すぎます。
努力をしてこなかったわけじゃない。ただ、人がチャオに求めるものの枠は、思っていたよりも狭いものでした。いくら私がガーデンの困っている人に手をさしのべても、誰も私を引き取りの対象として見てくれませんでした。ちょっと意地を張って、ぶりっ子戦略は嫌だなんてことをいっているうちに、いつのまにか、あとには引けない一線を、越えてしまっていたようです。
私はみんなに安心してもらいたかった。仏教がどうとかいうのは、そんな中から出てきた嘘でした。たとえ嘘でも、いい続けることによってみんなの、そして自分自身の不安を紛らわせるんじゃないかと思ったからでした。コドモチャオたちのいざこざに首を突っ込んだり、利用案内を書いてみたりしていたのは、一人でも多くの人の記憶に残りたいと思ったからでした。でも、それは結局、矛盾しています。私は自分自身を騙しきれなかったんです。
私はこの事実を、ポプリにさえ明かすことができませんでした。むしろポプリだからこそ、明かせなかったのです。私はこの混沌とした心の状態を隠し通さなければいけません。この私の、最も醜い心の部分を……