2. 無常論

 五月八日(月)

 私はガーデンできょろきょろしている、一人の若い女性を見つけました。赤いだぼっとしたパーカーの上に、クリーム色の大きなショルダーバッグを提げています。平日の昼間にこんな人が来るのは珍しいことです。だから、おそらく暇な大学生かなにかではないかと、私は推測しました。

「こんにちは」
 私が足元から見上げて声をかけると、その人はたいへん驚いたようでした。見ず知らずのノーマルチャオに話しかけられて驚いたのか、それとも、ノーマルチャオがこんな口調で話していることに驚いたのか、わかりませんが、この手の反応になれきった私は、気にせず続けます。
「何かお探しですか?」
「あー、いや……」
 その女子大生らしき方は、何か言おうとしましたが、言葉に詰まって、代わりにショルダーバッグから、荷物を取り出し始めました。出てきたのは、私の背丈ほどもありそうな、大きなスケッチブックでした。

「あの……ガーデンのスケッチを描きに来たんだけど、どこかいい場所ない……でしょうか?」
「わざわざ丁寧語で合わせてもらわなくてもいいですよ」
「はい」
 その答え方が妙におかしくて、私は思わず、口元を緩めました。

「大学生の方ですか?」
 いいながら、一緒にあたりを見回します。
「うん」
「じゃあ、これも課題かなにかで?」
「いや、これは……ほとんど趣味かな。建物を描いて回ってるの」
 私は考えます。建物を描いて回っている、ということは、どちらかというと写実よりですよね。右手に見える高台が一見よさそうですが、ヤシの木が構図の真ん中に入ってくるので、ごまかしがきかないと難しそうです。とすると、やはり……

「この場所からが一番じゃないでしょうか」
「やっぱりそうかなあ」
 どうやらただ単に、自信がないだけの人だったようです。こういうときは、決断を後押しするに限ります。
「ここがいいですよ、絶対」
「他に思いつくところはない?」
「ありません」
 私がいい切っても、女子大生さんは、まだどこか心残りのある様子で、腕を組んだり、眉間にしわを寄せたりしています。
 けれども、やがて決心に至ったのか、
「そうか。そうかもね」
深くうなずいて、私に「ありがとう」といってくれました。


 彼女と別れてから、私はいつものように、プールサイドをそぞろに歩き出しました。このチャオガーデンの中でも、特別何かあるわけでもないこの場所が、私は昔から好きでした。大きく息を吸い込んで、湿潤な空気で心を満たしました。

 チャオガーデンに最初のチャオが収められてから、十八年もの月日が流れました。当時は行政によって厳重に保護されていた彼らでしたが、その後、チャオの飼育が一般にも解禁されると、その個体数は爆発的に増加し始めました。チャオのための新しい産業が発達し、独自の社会構造を構築していきました。

 私は先日、ステーションスクエア・タイムズで読んだ記事の内容を思い出しました。——チャオの雇用人口、一割を超える——
 社会は進んでいます。ステーションスクエアは、チャオとの共生を掲げた街として、先進的な取り組みをしていると聞きます。チャオガーデンは、そういった情勢の中で、中心を担える立場にいるはずです。しかし……

 ガーデンの反対側からきゃあきゃあと、コドモチャオたちの騒ぐ声が聞こえてきます。昔はエミーチャオなどに誘われて、ああいう輪の中に身を置いていた時期もあったのですが、最近はどうもいけません。やる気がついていかなくなったというか、何というか。彼らと自分とは相容れない存在であるという思いが、日に日に強くなっていって、いつの間にか、距離を置くようになっていたのでした。

「なんでー?」
「そうちゃおよー! おかしいちゃおよー!」
「うるさいな。今日はそういう気分じゃないんだ」
「そういう気分ちゃおよー」
 ……一体、何の話なんでしょうか。私は水面につま先をかすらせながら、しかし、注意は完全にそちらへと傾いていました。

「だーかーら、俺がいなくたっていいじゃん。今日だけだから」
「ケーマくん、なんかおかしいちゃおよー」
「そうだそうだー」
 体をひねって、声のする方向を目で探します。チャオガーデンの中でも、ひときわ大きなヤシの木の根本に、五人ほどのチャオたちが輪になっていました。ほとんどがコドモチャオですが、中に一人だけ、目に付く紫色の体があります。唯一のダークヒコウチャオ……たしか、ケーマくんとかいいましたっけ。

 ケーマくんは、ふてくされた様子で芝生の上に寝転んで、コドモチャオたちに背を向けていました。その態度があまりにも頑固なので、コドモチャオの方も、だんだん飽きを感じ始めたようです。なんだかそわそわとして、私には聞こえないくらいの小さな声で相談していましたが、最後には、ケーマくんと遊ぶことを諦めたのでしょうか。ガーデンの別の方面に駆けていってしまいました。
 私はそろりと、水面から足を抜きました。

 ケーマくんは目を閉じています。私の存在に気付いているのか、いないのか…… 近づいて、彼の表情を探ります。
「わかりますよ、なんとなく」
「あ?」
 まぶたを半分ほど開いた、疑り深そうな目が私を見つめてきました。それはそうでしょう。私は彼とほとんど話したことがないんですから、いきなり話しかけられて、奇妙に思われたかもしれません。

 でも、近頃の私の習性としては、こうせずにはいられませんでした。ガーデンで困っている人やチャオを見かけては、解決の手助けをする。たまに何の解決にもならないこともありますけど、それでもほとんどの場合は、前向きな結果が得られるのです。それに——

「なんだか、懐かしい感じがしましてね」
 私はぼんやりと、宙をつかむように話しかけました。
「さっき話してたのを、つい聞いてしまったんです。そうしたら、なんだか、別の人の話とは思えなくって。コドモチャオと遊ぶのが面倒になった経験って、よくわかるんです。あの、ジェネレーションギャップっていうんですか?」
「ああ」
 ケーマくんは、深く沈んだ声と共に、言葉をはき出しました。
「ジェネレーションギャップ、ってなに?」
「そこからですか……」

 私はなるべくかみ砕いて、ジェネレーションギャップについて説明しました。ケーマくんは、私の話をしんみりと聞いてくれていましたが、やがて、説明が終わると、首を横に振りました。
「ちょっと違うかな、うん」
 あれ? そうなんですか?

「あいつらの中で一番年上だったから、それでもリーダーみたいなことをやってきたけど、何だかな…… ずっとこのままじゃいけない気がして」
 ケーマくんは、ぽつりぽつりと語り出しました。
「なんだろう、わからない…… 今までは宝物をみんなで分け合うのが当たり前だと思ってたのに、不意に独り占めするアイディアが、自分のところに舞い降りてきたというか……」
 言葉を濁しながら、ふと、気が紛れたかのように、視線を上に投げました。私もつられて見上げます。そこには天窓があって、自由な空が広がっていましたが、天窓を支える桁がなければ、もっと美しく見えるはずなのにと、私は思いました。

「Pっていうチャオの噂、聞いたことあるか?」
 唐突に、友人Pの名前が出てきました。
「すごいよな、なんか。引き取り活動を発明して、生き残るために一生懸命だったから、あんな伝説的なぶりっ子ができたと思うんだ」
 一体、誰が友人Pを伝説に仕立て上げたんでしょう……心当たりがあるのは、エミーチャオだけでした。

「俺も、引き取り活動を始めてみようかと思って」
「ケーマくんがですか?」
 思わず問い返してしまいました。ダークヒコウチャオが頬を赤らめながら、人々に迫っていく様子が脳裏によぎりました。
「なんだよ」
 私は口元を覆って笑いを隠しながら、言葉を探します。
「……ケーマくんは、そこまで切羽詰まってないと思いますよ」
「そうかな?」
 私はうなずきます。
「友人Pはあのとき三歳でしたけど、ケーマくんは、たしか一歳でしたよね? まだ時間はありますよ」
 時間はある、という言葉に、彼は顔をしかめました。

「焦ってやっちゃうと後悔すると思います。仲間たちともたっぷり遊んで、そのあとでちゃんと説明して、わかってもらってから始めても、遅くない」
 仏教では、世の中は無常であるという考えを飲み込まない限り、苦から解かれることはないといわれています。こういう場面で宗教が助けになるかどうかはわかりませんが、私はよく、このいい回しを使っていました。

 すべてが自分の思い通りになるわけではないから、状況の変化に合わせて、その都度、できることを考えるべきです。それは、私にとっても同じです。以前からぼんやりと思い描いていたプロットが、急に縁取りを帯びてきて、目の前に現れました。

「よーし、じゃあ、来週から引き取り活動するか!」
「ほんとにやるんですか……」
「当たり前だろ」
 迷いなくいいきるケーマくんを前に、私は、溜息をつきました。

このページについて
掲載日
2009年12月23日
ページ番号
8 / 23
この作品について
タイトル
チャオガーデン
作者
チャピル
初回掲載
2009年7月19日
最終掲載
2009年12月23日
連載期間
約5ヵ月7日