9 ライトカオスチャオ・ウォーカー
内津孝蔵は幼い頃から、チャオが嫌いだった。
誰もがチャオを可愛いと言っていたが、孝蔵にはチャオが可愛いものだと思えなかった。
いつしか、チャオは人にとって代わってしまうのではないだろうか。
そんな疑念が胸に渦をなしていた。
内津孝蔵はチャオが嫌いになった。
だから。
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未来は共同学園の保健室で目を覚ました。
長い間寝ていたのだろう、未来は体が動きづらくなっているのを感じた。同時に、自分の心が冷えているのを感じ取る。
あのとき未来にあった、あたたかいなにかは消えてしまっていた。
もう二度とあの声は聞きたくなかった。
絶望に沈むあの声。
未来に助けを求めるあの声が、未来を寄せ付けない。
しかし、あたたかななにかは未来に、確かに何かを残して行った。未来には分からない。
未来は起き上がって、教室へ向かった。時間が分からなかった。だが、何かに突き動かされている。
教室のドアを開けた。奇異の視線が未来に集まっている。未来は居たたまれず、俯いた。ところが、おかしなものを見た。
庭瀬恵夢がチャオを連れていないのだ。ラインハットがいない。未来は心臓の鼓動が早まるのを感じた。
歩く。
近付く。
彼女は未来を見た。少し目の下に隈が出来ていた。
「ライン、ハットは?」
彼女に何かを伝えなければならない気がしていた。彼女から聞かなければならない言葉があるような気がしていた。
恵夢は俯いた。
周りの声が耳に入って来なかった。未来は自分の心臓の鼓動しか聞こえなかった。
「ラインハットは?」
聞かなければならない。
未来はそんな強迫観念に動かされて、尋ね続ける。恵夢は答えない。聞くまでもなく、未来は分かっていたのかもしれない。ラインハットが、どうなってしまったのかを。
だが、それを受け入れたくなくて、未来は何度も聞いたのだ。
「ラインハットは」
「"チャオ・ウォーカー"の中に、いなくなっちゃった」
未来の現実から、何かが音を立てて崩れて行く。
彼女は自分の内から出る感情を堪えているように見えた。未来はなにか声をかけようとして、誰かに殴り飛ばされる。
正面を向くと、そこには友達の姿があった。
「お前のせいだろうが! なに涼しい顔してんだよ!」
未来は否定しようとした。けれど、すぐにその考えを改める。未来はいつもの表情をしていた。いつもとなにも変わらない表情を。
他人から見れば、それは涼しい顔に見えるかもしれない。
人が真実、共感するには、同じ立場になるしか方法がない。未来の考えていること、思っていること、感じたことは、誰一人として分かってはくれないのだ。
未来が"チャオ・ウォーカー"の内側でどれだけ苦しんでいるかさえ、誰一人として分かってはくれない。
それをはっきりと感じた。
「お前のせい?」
未来は友達の胸ぐらを掴んだ。騒ぎが大きくなる。知ったことではなかった。未来がいなくなれば、この世界は終わってしまうのだから。
「じゃあお前がなんとかすればいいだろ。なに僕に全部押し付けようとしてるんだよ、お前ら!」
突き飛ばす。机がいくつか巻き込まれた。
それは増長もあったのだろう。だが怒りを覚えていたのも事実だった。
「お前たちはいつもそうだ。ずっと他人事だったくせに、自分たちがいざ危なくなると、誰かのせいばっかりにする!」
犠牲になったチャオたちの感情が未来に集まって、暴走する。抑え切れず、こらえ切れず、流れ出る。
「じゃあ、お前たちがなんとかしろよ! してくれよ! 僕にどうしろってんだよ! 僕に、僕にはどうにも出来ないんだよっ!」
仕方がないと受け入れたもの。仕方がないと受け入れられないもの。自分の力不足で、諦めるしかなかったもの。
たくさんあった。未来は数えきれないほどに諦めてきたのだ。レールの上を走って、走っても、自分の望みが叶うわけではない。
自分の望みは、あくまで自分のものである。
誰かが叶えてくれるはずもないのだ。
斎藤朱美が未来から目を逸らした。みんなが未来から目を逸らしていく。
その中で、恵夢だけが未来を見ていた。
未来はなんと声をかけたらよいか分からず、自分の席に戻ることもなく、その場を去った。
仕方がない。
未来は魔法の言葉を唱える。
仕方がない。
未来は魔法の呪文を唱える。
心は折れていた。寂しさに暮れ、悲しさに暮れ、恐ろしさに震えていた。未来には目的地がなかった。だからさまよっている。
庭瀬恵夢はチャオが大好きだった。ラインハットが大好きだった。それを未来が奪ってしまった。
未来は奪ってばかりだ。誰かの希望を。
失ってばかりだ。
"チャオ・ウォーカー"は未来からありとあらゆるものを奪って行く。
未来は自分の体から、心が溶けて行くのを感じた。自分を閉じ込める檻を感じ取った。
絶望に暮れる。
いつしか未来はチャオガーデンにやって来ていた。壁に大きな穴が空いている。風が吹き込んでいた。チャオの姿はない。
チャオガーデンにはだれもいない。
未来一人だ。
チャオガーデンの緑に倒れこむ。
緑に溶け込む。
疲弊する心が、鉛のようである。
もう動けない。
もう戦えない。
その思い込みから逃れられない。
風が吹いた。
吹き抜けて行った。
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道はない。
どこまでも道はなかった。
レールが見えない。
どこへ続くのかも分からない未知。
この先に待つのは、一体どんな絶望なのだろう。
この先に待つのは、一体どんな不幸なのだろう。
今が幸せだから、それを失うのが怖い。
今が不幸せだから、手に入れられないのが辛い。
誰もが幸せでないと分かっていながら、しかし受け入れられない。
仕方がない。
仕方がない。
仕方がない。
言い訳を心に染み付かせる。
一度目は女の人を助けられなかったことだ。
レールは彼女を助けるべき道を作っていた。その通りに進んで、けれど助けられなかった。レールはその上を歩けても、曲げることは出来ない。
だからレールの外側を歩こうと思った。
二度目はチャオが犠牲になることだ。
"チャオ・ウォーカー"は世界を守る兵器で、自分はそのパイロットだった。チャオよりも、人が大事。当たり前のはずで、事実のはずだ。
三度目は今だ。
自分の好きな人が、チャオを失って傷ついているのに、どうすることも出来ない。
仕方がない。
全ては仕方がない。
道がない。
どこまでも道がなかった。
だから、歩くことをやめた。
チャオたちの呪いの声の奔流。
チャオたちの哀しみの感情。
チャオたちの恐怖の心。
それらに紛れて、小さな光が見える。
あたたかな、小さな光だ。
今は、未だ。
それを、手にすることが。
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警報が鳴る。
未来は目を覚ます。
展望のモニターは機能していなかった。だから、穴の空いた壁から地上を見下ろす。
その光景に、未来は恐怖して、後ずさった。
"サイボーグ"の大群。
"サイボーグ"の大群が空を駆け巡っている。
銀色が青空を埋め尽くしていた。
「えー、聞こえますか、国民のみなさん」
展望モニターが起動する。
内津孝蔵の姿が映っている。
「本日は私から言いたいことがあって、この場をお借りしています。しばしのご清聴を」
一拍を置いて、
「みなさまがよくご存知のチャオ。そのチャオの社会進出と共に、我々人間は駆逐され続けています。チャオはみなさんが思うような、美しい生物ではありません!」
いつもの大仰な仕草で、孝蔵は叫ぶ。
未来は圧倒された。同時に恐怖して、安堵した。
自分には関係がない。
内津孝蔵が嫌いなのはチャオであって。
「チャオは人の立場を、権威を揺るがそうとしているのです! これは断じて許せない行為であります! 故に!」
"サイボーグ"の大群の内側。
それは出現する。
"チャオ・ウォーカー"に似た姿。しかし"チャオ・ウォーカー"ではない機械。機械とすら呼べるかどうか分からない液体が、"チャオ・ウォーカー"を象っている。
未来には伝わって来た。
あれはチャオだ。
チャオの塊。
きいいい、という金切り声がして、未来は思わず耳をふさいだ。それでも心に直接伝わる、彼らの意志。
「ドウシテ」「ナンデ」「クライ」「コワイヨ」「タスケテ」「イヤダ」「ナツメ」「イヤダヨ」「ボクハドウナッタノ」「ドコナノ」「ダレカタスケテ」「イヤダ」「モウイヤダ」「コワイ」
恐怖。
孤独。
彼らの感情の奔流を受けて、未来はうずくまる。
"ヒーローチャオ・ウォーカー"が飛翔した。未来はそれを見て驚く。ゼラだ。"ヒーローチャオ・ウォーカー"は"サイボーグ"の大群にレーザーを放つが、液体の"チャオ・ウォーカー"に防がれる。
不思議な力。
エネルギーの塊。
「あれを御覧ください! あれがチャオです! チャオをエネルギー還元し、その心が本質となって具現化した姿! あれこそがチャオなのです!」
"サイボーグ"の群れの中、君臨する液体の悪魔。
"チャオ・ウォーカー"。
未来は感情の奔流に惑わされる。
苦しみの中にいて、苦しみに影響され、未来さえ苦しんでいる。
前が見えない。
認識力が劣っている。
哀しみが、悲しみが、寂しさが、絶望が、恐怖が、未来の心を蝕み包み、覆っていく。
「そしてそれらが今、私の制御下にあります! さあみなさん、選んでください! 人が生きられる世界か! チャオが消えてなくなる世界か! 大丈夫、私は約束を破りません」
普段と変わらない下卑た笑みで、孝蔵は言い放った。
"ヒーローチャオ・ウォーカー"は地上を守りながら戦っている。
GUNの兵器がいくつか見えた。だが迂闊に近づきはしない。"サイボーグ"の強さが身に染みて分かっている彼らだからこそ。
未来は目を逸らした。
どうにも出来ない。
もう二度と"チャオ・ウォーカー"には乗りたくない。
乗っても、誰もかれも、気遣うどころか未来を責めるのだ。
乗るたびに居場所が減っていく。
乗るたびに全てを奪われていく。
「二つに一つです」
未来はチャオが好きではない。
チャオが好きな、あの子が好きなだけだ。
ならば、チャオが消えてなくなっても、未来には何の不都合もない。
不都合もない、はずだった。
なのにどうしてか。
心が拒んでいる。
これは間違っていると。
これは違うんだと。
自分が欲しかったのは。
チャオが叫ぶ。
助けて。
何で。
誰でもいいから。
思いが伝わる。
それは"チャオ・ウォーカー"のパイロットであるがゆえ。
未来は初めて、チャオと共感していることをはっきりと自覚した。
「なんで、だろうな。どうして、お前たちが、犠牲にならなきゃ、いけなかったんだろうなあ」
仕方がない。
仕方がない。
仕方がない。
「仕方がない、のかな」
未来は自分がわからなかった。
自分が何を望んでいるのか、わからなかった。
でも、今を望んでいない。それは確かだった。
心が震えている。
未来は涙を零す。
チャオたちの気持ちを、代わりに受けて。
もう二度と泣けない彼らを思って。
未来は涙を流す。
風が吹いた。
風が吹き抜けた。
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庭瀬恵夢は少年の姿を探していた。
いない。
少年の姿はどこにもなかった。
しかし空を見ると、"ヒーローチャオ・ウォーカー"しかいない。
もう一機。
未来が乗っている方の。
姿はない。
庭瀬恵夢は少年の姿を探している。
どこへ行ってもいない。
きっと傷ついている。
罪悪感にのまれて、苦しくて、立ち止まっている。
庭瀬恵夢は少年の姿を探している。
「あの、庭瀬さん?」
クラスメイトの一人に話しかけられて、立ち止まる。
そのクラスメイトは明るいことで有名な、庭瀬恵夢がコンプレックスを抱いていた相手である。
「……あいつなら、たぶんチャオガーデンにいるよ。さっき行くところ見たから」
「え?」
「あいつ、庭瀬さんのこと……ううん、なんでもない。行ってあげて」
彼女はそう言って背を向けた。
庭瀬恵夢は踵を返して走る。少年の姿を探す。エレベーターの進むのが遅くてたまらない。
チャオガーデンに着く。
少年の後ろ姿が見えた。
庭瀬恵夢は走る。
嗚咽が聞こえた。
庭瀬恵夢は止まる。
立ち止まる。
そのときだ。
庭瀬恵夢は見た。
"チャオ・ウォーカー"――いや、それは"チャオ・ウォーカー"ではない。
庭瀬恵夢は確かに感じる。
それは、あの子の。
どこからか、伝わって来るのはなぜだろうか。
見たことも聞いたこともないあの機体が、あの子のものだと分かってしまうのはなぜだろうか。
庭瀬恵夢は微笑んだ。
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穴の空いた壁から、それは現れる。
光もなく。
音もなく。
はじめ、"チャオ・ウォーカー"だと、未来は思った。
しかし違っている。
"チャオ・ウォーカー"よりも屈強で、どことなく宇宙人的なイメージを抱いたそれと比べると、獰猛である。
腕は細く、両腕に大砲を装備している。
赤い目が未来を捉えた。
背部に取り付けられたエネルギー還元用のバック・パックから無色透明の光が見える。
コクピットハッチが開いた。
「変わらないな、お前も」
ライトカオスチャオがコクピットの脇に立つ。
未来はしばらく異常事態を忘れて、ほうけていた。
涙はいつの間にか止まっていた。
「犠牲となったチャオたちの負の側面だけを感じて、一人で死に行くか。嘆きだけを感じて、逃げ出すか」
未来は悲しみの声が止んでいることに気付いた。
ライトカオスチャオの光のポヨが、いつもよりも輝きを増している。
そう感じた。
「あの日、絶望に沈んだ僕を引き上げたのは君だろう。なぜそんなところで立ち止まっているんだ?」
「でも、だって、苦しくて、辛くて」
「だからといって」
「誰も分かってくれない! 僕は辛いのに、苦しくても仕方がないのに、誰も!」
「本当にそうか?」
「"チャオ・ウォーカー"に乗るのが、怖くて仕方が無いんだよ!」
「では、今もそうか?」
未来は黙りこむ。
怖かった。
悲痛な助けを呼ぶあの叫び声を聞くのが、怖かった。
今はどうだろうか。
それよりも、たいせつななにかが、あたたかいなにかが、未来を。
「自分の欲しい物が分からない。自分のやりたいことに自信が持てない。だって、僕には何の力もないから」
ライトカオスチャオは未来の心を代弁する。
全てを知っているように。
全て分かっていながら。
「だけど、そうだろうか。あの日、僕を助けた君は、少なくとも僕が助けられたと思っている君はそんなふうには見えなかった。だから賭けたんだ。君に」
ライトカオスチャオと向かい合う。
「君は何者か。それは僕が一番よく知っている。欲張りな、自分の欲求にだけは従順な、愚かな人間だよ」
未来は気付く。
「何を望むか、何を願うか」
自分は、何かに頼っていた。何かの力に頼って、自分から歩いたことなど、かつて一度もなかった。
偶然に頼って、他人の優しさに頼って、そうして自分の力を放棄してきたのだ。
「ミライ、選ぶのは君だ。そして君にはその資格と、力がある」
ライトカオスチャオが手を差し伸べる。
その背後に、"ヒーローチャオ・ウォーカー"が見える。
液体の"チャオ・ウォーカー"が見える。
「僕の名前は庭瀬アカイロ。君があの日、小さな病院の屋上で出会った、ひねくれ者のチャオだ」
「あの、とき?」
「さあ、ミライ――僕と一緒に戦ってくれないか」
チャオ・ウォーカー
つづく
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「――の子の名前は?」
「末森、未来くんですね。どうかされましたか?」
「いや、少し気になっただけだよ」
「あなたが人に興味をもつなんて珍しいですね」
「そうかな、いや、そうかもしれない。僕は珍しい思いを抱いているよ」
「そうですか」
「あの子の生体データを取って来てくれ」
「合法的にですか?」
「手段は問わない。多分、いつか役に立つ日が来ると思う」
「分かりました。それにしても、多分、と来ましたか」
「そうだが、何かおかし――」
ビデオテープはそこで途切れている。