こどものころのおはなし
お父さんやお兄ちゃんの顔は、一度しか見たことがなかった。
物心付いた時は、すでにお母さんに手を引かれていたから。
わたしはお母さんに何度も聞いた。
「どうしておとうさんのところにかえらないの?」
お母さんはわたしに何度も言った。
「――――」
意味がわからなかった。
だからわたしは、お母さんの声がわからなかった。
今だって思い出せない。お母さんの声は、一日のうちに忘れてしまうから。
だからいつも、お母さんとは会話が成立しない。
「おかあさん、おなかすいたよ」
「――――」
「おかあさん、そのほんはなぁに? なにをよんでるの?」
「――――」
「おかあさん、チャオとあそんでいい?」
「――――」
返事がない。ただの人形のようだ。
わたしはただひたすらに自分のお人形さんと話す少女のようだった。
だから、わたしの遊び相手は一匹のチャオだった。
暗い路地裏に面した窓からは光が差し込まず、そんな薄暗い部屋でチャオはぼーっと過ぎ行く時間に身を任せていた。
そのチャオが灰色なのは、そんな薄暗い部屋にいるせいだと思っていた。
部屋には、手頃な遊び道具が何もなかった。
お母さんにそのことを話すと、トランプを渡してくれた。
だからわたしは、いつもチャオとトランプで遊んでいた。
ババ抜き。神経衰弱。大富豪。ブラックジャンク。ダウト。
わたしと、チャオと、ふたりっきりで。
それがわたしの日常だった。
わたしが灰色のチャオと初めて会ったのは、お母さんと二人で暮らし始めて間も無い頃だ。
チャオはお母さんと半年ほど一緒に生活していたころがあるらしく、その影響でお母さんにどこか似ていた。
チャオは、心を映す鏡。
鏡に映ったのは、壁に背を預けて眠ってばかりいる姿。
その時のチャオが、とても幸せそうな顔をして。
一度勝手に起こしてしまった時は、とても悲しそうなして。
それ以来、チャオが寝ている時は決して邪魔をしないように心がけた。
やがて、わたしはお母さんにも同じように接するようになった。
わたしは誰とも話さなくなった。
そんな静かで長い生活は、ある日喧騒にめちゃくちゃにされた。
二人の知らない男の人が、真っ黒な服を着て押しかけてきた。
お母さんはわたしとチャオを見つからないように隠して、その男の人達と話していた。
「もう逃がさないぞ、人類の敵め」
人類の敵? 何を言っているんだろう。お母さんは、何もしていないのに。
「お前は人間でありながら、人間をこの世から消すつもりだな」
この世から消す? 何を言っているんだろう。お母さんは、何もする気がないのに。
「このままお前を生かしておけば、やがて我々はチャオに呑まれる。ここでその危険な思想を断ち切ってやる」
危険な思想? 何を言っているんだろう。お母さんは、何も考えてないのに。
嘘ばっかり。
「――!――……」
お母さんの声らしきものが、だんだんと消えていった。
聞き慣れた静寂の音が、微かに舞い戻る。
危険を顧みず、わたしとチャオは隠れていた場所から出てきた。
するとあっさり、男の人達と顔を合わせた。
「誰だ、お前は?」
わたしは何も答えなかった。
足元に広がる血が気になっていたから。
お母さんのお腹に、ナイフが刺さっていた。
「この女の子供か。残念だったな、この女は殺した」
殺した? 何を言っているんだろう。お母さんは、ただ人形みたいに動いていないだけなのに。
嘘ばっかり。
「そのチャオが、この女の玩具か」
男の人の興味は、わたしから後ろにいる灰色のチャオに移った。
「この場で処分してしまおう。ついでにこの子供もな」
「悪く思うなよ。悪いのは、お前の母親なんだからな」
悪いのは、私のお母さん? 何を言っているんだろう。お母さんは、良いことも悪いこともしていないのに。
嘘ばっかり。
「――?――――!――!!」
空気が揺れた。
お母さんが起き上がった。
「何だ! まだこんな体力が!?」
「やめろ! 何をする!」
お母さんはお腹のナイフを躊躇なく抜いた。
血が溢れる。お母さんは呻きながら、ナイフを構えて男の人へとぶつかった。
男の人のうち一人が、呆気なく倒れた。
「こ、この、バケモノが……」
バケモノ? 何を言っているんだろう。お母さんは、ただの人形なのに。
お母さんは残った力を振り絞って、頑張って男の人からナイフを抜いた。それをまた構えて、腰の抜けたもう一人の男の人へとぶつかる。
もう一人の男の人も、呆気なく倒れた。
お母さんは、もう一度ナイフを抜こうと力を込める。だけど、抜けなかった。
それを眺めていたわたしは、かける言葉が見つからなかった。何も考えることができず、ただその場で突っ立っていることしかできなかった。
やがてお母さんは、ナイフを抜くことを諦めた。
その目は、わたしを捉えた。
「――――!――!!」
お母さんは、わたしに襲い掛かった。
体に無遠慮かつ衝動的に痛みが駆け巡る。
痛い。
痛い。
痛い。
「おかあさん、いたいよ! やめてよ! おかあさん!」
「――!――!」
会話は成立しない。
誰か、助けて。
わたしの目線は、灰色のチャオへと移る。
うまく喋れない。だから、視線で訴えた。
助けて。助けて。たすけて。
それでも、灰色のチャオは突っ立ったまま動かなかった。
どれくらい痛みを味わっただろうか。
気が付けば、わたしを血塗れにしたお母さんは、今度こそ人形に成った。
痛くて、痛くて、しばらく起き上がれなかったわたしは、言い表せない感情に支配されていた。
全部、この人達のせいだ。
この人達がお母さんの中のスイッチを勝手に押した。だから勝手に暴れ出した。
全部、この人達のせいなんだ。
再認識するように。言い聞かせるように。何度も確認するように。
わたしは起き上がった。
男の人に刺さっていたナイフを、お母さんの代わりに抜き取った。
――――
それからわたしは、外の世界を歩くようになった。
お母さんを暴走させた男の人達の仲間を探し、お母さんがやったのと同じように刺し殺す。それが新しいわたしの日常となった。
お金はその人達から奪えばいい。住む場所も拘らなければいい。殺人だってバレなければいい。
そうやって日々を過ごし続けた。
灰色のチャオと一緒に。
チャオは、心を映す鏡。
だから、鏡に映るわたしの姿は悪者だ。
そうなるはずだった。
それなのに、鏡に映った姿は天使のようだった。
まだ成長しきってはいないけど、確かに小さな天使に見えた。
嘘だ。
わたしは人を何人も殺している。そんなわたしが、天使なはずがない。
そう言い聞かせても、天使のような灰色のチャオはわたしに微かな微笑みを返すばかり。
わたしは、自分がわからなくなった。
そんなある日。
とうとうわたしの新しい日常の終着点を告げに、男の子が現れた。
男の子は鉄パイプを持っていた。
わたしを殴る気なんだろうか。あまり実感が湧かないながらも、そう思った。
男の子の顔に、見覚えがある気がする。
でも、いくら考えても思いつかない。誰なのかわからない。会ったことはあるはずなのに、そんな顔は見たことがない。
悩む。悩む。悩み抜いて、答えが出た。
「お兄ちゃん?」
懐かしさが込み上げてきた。
お兄ちゃん。ずっと会っていなかったお兄ちゃんだ。わたしの家族だ。お母さんだけじゃない。わたしの家族は、まだいたんだ。わたしに会いに来てくれたんだ。
「お兄ちゃん」
ナイフを持ったまま、わたしはお兄ちゃんへ近寄った。
会いに来てくれた。
ずっと会いたかった。
わたしのお兄ちゃんが。
わたしを殴った。
視界が赤に塗れる。痛みが遠ざかる。思考も遠ざかる。
どうして?
わたしはお兄ちゃんを見上げた。
「――――」
聞こえないよ。
見えないよ。
お兄ちゃんの声が。
お兄ちゃんの顔が。
お兄ちゃんが、わたしを殴った。殴ったんだ。わたしの頭を。
そんなの、嘘だ。
その言葉を否定するように、わたしはもう一度頭を殴られた。
闇の中へと、叩き落とされた。
わたしの日常は、そこで終わってしまった。