No.9

 土砂降りの雨の中、私の気分はとても良いものではなかった。
 事務所にやってきて、受付にリムさんがいないのもなんかやだった。
 二階への階段を歩くのも、雨で多少濡れた体がいやがった。
 そして所長室から聞こえる誰かの声で、扉を開けたくなくなった。
「誰だよ」
 聞き覚えはあるけど、事務所の人の声じゃないよな。
 そんな部外者の声が所長室でハキハキと喋るもんだから、私はドアノブにかけた手を捻るのを少しだけ躊躇った。しかし、これも仕事だからしょうがない。
「……仕事かぁ」
 なんだか実感が湧かない言葉のように、私は仕事という単語を口にして吟味した。
 そういえばこれって仕事だったんだよな。内輪の問題ばかりを直視し過ぎて、GUNの人から依頼を受けていた事をすっかり忘れてしまっていた。
 お仕事。つまり私はこれでも働いている。つまり私は、今はこれでごはんを食べている。
 ごはんを。めしを。しょくじを。おまんまを。
 うわ、実感ねーなー。今さらだけど。あろうことか私、無償の有給休暇も過去に貪ったし。それが仕事してない感を加速させる。まだお給料貰ってないと思うけど。
 そういや給料日っていつなのかな。お金ってどれくらい貰えるんだろう。アホみたいに金が有り余ってる事務所だし、期待していいのかな。
「いや、今関係ないし」
 朝からスケートでもするように滑りまくる思考が、自分でも鬱陶しくなってきた。ラリパラっていう都合の良い逃げ口上もある影響かな――と考えたところで、これが素晴らしい妙案だと言う事に気付いた。
 そういうわけで、朝から続いた思考は全てラリパラを建前にした妄想です、まる。いやぁ、私って天才だな。
「……やめよ」
 もうどうでもよくなってきた。ラリパラだのなんだの、いい加減馬鹿馬鹿しい。理性が大脳で働きたがらないのなら、小脳にでも左遷しときゃいいのだ。そうすりゃ直感と仲良くしてくれるだろう。全てはケースバイケースなのであった、と結論付けた。はいはい妄想おしまい。
「お邪魔しま」
「そうです、これは一種の医療テロだったのです!」
 やっぱ開けるんじゃなかった。
 扉という防音設備を無くし、遮蔽物がなくなった事で私の耳にやかましい声が届く。その主は、一体全体何があったのかやけにハイテンションなGUNのお偉いさんだった。すでに聞くつもりがなさそうにしている所長と、さほど気にしてなさそうなパウ、それと聞いてるのかわからないミキが傍聴人。いつものSP二人は引き連れていないご様子。
 入ってきた私に気付いたパウが、多少苦味のある笑顔で軽く手を振ってくる。所長も自分の席で頬杖を付きながら、視線だけこっちに寄越す。まるで「どうにかしろ」と言っているように聞こえる。私はそれらに肩を竦めて溜め息で返す。一応、なんとかしてみますって意味だ。
「あの、何かわかったんですか?」
 そういうわけで、まずは声をかけてみる。このまま一人で喋らせても、学級崩壊よろしく誰も内容を聞かないで期末試験で醜態を晒し、クラス全員で補習大会だ。想像するだけで目頭が痛くなる。
「おお、あなたですか。とうとうわかったんですよ、この事件の真相が! 聞きたいですか?」
「尺が無いんで、10秒程度でお願いします」
「いいですか、この雨! この雨の成分を調べた結果、興奮作用を始めとする様々な成分が含まれているという事がわかりました。つまりこれはとある場所からある方法で大量にばら撒かれ、雨雲に含ませる事で世界規模の人間を襲う卑劣なテロだったのですよ!」
 よくできました、と溜め息を吐いた。ヤイバみたいに「な、なんだってー!?」とか言って驚いてみせればよかったんだろうが、残念ながら私はこの人ほどテンションあがってない。
「つまり、私達の仮説は当たってたってわけですか?」
 ある意味、私があてずっぽうで作り上げた仮説だが、なんとなく複数形を付けておいた。この人の頭の中じゃ、自分が発見したみたいな事になってるんだろう。少なくとも今は。
「その通りです! これは驚くべき発見ですよ!」
「へいへいわかりました。ところでちょっとしゃがんでくれませんか?」
「すぐに総力を結集して、犯人を探し出さなければなりません! その時はあなた方の力も是非」
「まあそれはその時次第で。ところでさっさとしゃがんでくれませんか?」
「こうしてはおられません。わたくしめも今すぐ帰らなければ――」

「しゃがめっつってんだろうが!」

 事務所がしんと静まり返り、外の土砂降りが空気を彩った。
 所長が頬杖を外して、パウが目を丸くして、ミキが顔を上げて、何事かと私の事を見ていた。その視線が気になって仕方なかったが、目の前でぽかんと口を開いている阿呆の前なのでなるべく気にしないフリ。
 私の勢いの言葉に気圧されたお偉いさんが、言われた通りフローリングの床で正座をした。その頭が多少ふらついて、私の予想を確信めいたものに変える。
 言葉も無しに、堂々と急接近して胸を触る。人間の女性相手なら立派なセクハラになろう行為を行う私を、お偉いさんやパウが驚きの目で見ていたが、これもなるべく無視。これのせいなのかはイマイチ謎だが、この人の胸の鼓動は限界でも求めるように加速していた。
「ちょっと深呼吸していただけませんか?」
「は、はぁ……」
 先ほどの盲目的なハイテンションはどこへやら、疑問の言葉もなしに素直に言う事を聞いてくれた。私の言う通りに深呼吸を数回行い、そして急に来客用のテーブルに手をつく。
「く、はぁっ、なん……うぅむ」
 こめかみを押さえ、定まらぬであろう視界を正すように首を振る。その様子を見た他の面々が不思議そうに私を見た。曰く「なんぞこれ」と。私は息切れを起こしているお偉いさんの方を見ながら、全員に聞かせるように話した。
「目に見えて発狂した人達が世界のあちこちで見つかって、それで気付かなかったんでしょう」
 急接近していた距離を離し、そして告げた。
「あなたもラリパラです」
「わ、わたくしが?」
「ユリ、どういう事なの?」
 パウが代表して説明を求めてきた。私はなるべくかいつまんだ言葉に換えて口を開く。
「興奮作用を始めとする様々な成分、でしたっけ。それがばら撒かれたのなら、その効果は絶対に思ったほど大きくはないはず。世界規模の空気感染ともなれば、効果は薄まりますからね。つまり数多く発見された発狂者は偶然なんですよ」
「偶然? どういうこったそりゃ」
 わかりやすい疑問を提示した所長に、数多の憶測を含んだ私の考えを話す事にした。どこかでつまづいたりしないか内心不安になりながら。
「確かにこれを行った犯人やその組織の目的は、全世界の人を発狂させる事だったと思います。でもこの方法は前例もないし、注ぎ込む資金に見合わない結果が返ってくると思ったに違いありません。つまりこれは予想を越えた成功なんです」
 予想を越えた成功。このフレーズを口にして、この前の事をチラと思い出しながら解説を続ける。いつの間にか私の立ち位置は、来客用ソファとテーブルの近くから所長室の扉の前に移動していた。
「その原因として挙げられるのが、継続して見る同じ内容の夢です」
「夢? 悪夢の事か?」
「正確には夢そのものですけど。おそらく犯人が作り上げた雨水の成分が、偶然にも夢に影響したと考え……うん、そうとしか考えられません」
「ユリにもわからないの?」
 パウの質問に、私は苦笑いで返すしかなかった。全部憶測だし。
「夢のメカニズムはいわゆる脳のデフラグで、人の脳の中にある断片的な情報を無理矢理繋いだものだと言われています。このラリパラの雨は、それを固定概念化された情報として確立させたんでしょう。つまり同じような筋書きの番組を何度も見るような感じです」
 言いながら、こていがいねんかされたじょーほーという我ながらかっこいい言葉に自分で惚れていた。私ったら今調子に乗ってるな、ははは。
「これが高い確率で悪夢として固定され、雨の影響で判断能力を失った整理のつかない頭の人が毎日見れば、当然発狂します。これが偶然にも、計画の成功を後押ししたんです」
「夢を固定させる……?」
 珍しい事に、ミキが興味深そうな真顔で私を見てくるので、これにも苦笑いで返しておいた。こうでも言っておかないと、他にはオカルトじみた理屈しか残らなくなるじゃないか。そういうのは人を納得させる材料としては事足りない。
「これが予定外の発狂者を世界規模に生み出し……そして、当初の成功をも後押しした」
「当初の、とは、なんですか?」
「あなたみたいな人の事ですよ」
 意識してやんわりとした語気にしたが、それでも厳しい言葉として響いたのであろう。お偉いさんの目が見開かれる。
「犯人の考えていた成功は、こんな感じに周囲が見えなくなる程度の、判断能力の欠如だったんです。それも目に見えた成功は得られないだろうとわかって実行に移した計画なんでしょうが……きっと判断能力を失った人の数は、明らかに多いはずです」
 言いながら、私の中でも整理がついてきた。憶測やハッタリも形を成せば立派に論の一つと成り得るものだなぁとしみじみ。
「偶然に夢を固定させた雨、偶然に悪夢を見せられ続けた発狂者、偶然にできた発狂者を見て、自分が正常であると認識した『本物のラリパラ患者』……」
 ……そして、偶然できあがった推論。
「それが、この事件の本質です」
 一夜城レベルの推理劇を、見栄の良いように締めた。
 再び、外の土砂降りが空気を支配する。その間のみんなの反応は実にバラバラだった。目の前で息を整え終わったお偉いさんが驚きの顔で私を見つめ、所長は椅子を回して窓の外へ顔を向けていて、パウが唯一私の推論を吟味するように腕を組んで唸っていた。え、ミキ? なんか言う事あんのかよ。
「さて、わかったらさっさと事を終わらせましょう。ほら、いつまでも座ってないで」
「は、わたくし、ですか?」
「そうそう。今すぐ総力でも結集して犯人探しでもしてください」
「と言われましても、どうやって」
「世界規模で薬品をばら撒いたのなら、そういった薬品関係の場所を洗えばいいんです。きっと莫大な資金が動いたはずですから、尻尾を掴めば後は簡単でしょ?」
「はぁ」
「ほら、行った行った」
 沈黙がなかなか痛かったので、わざと忙しそうにお偉いさんの背中を押した。廊下の向こうで階段を下りる前に、私に向けて頭を下げてから帰っていった。
 今思えば、一人で来てくれて助かった。もしSPのお二人さんが付いてきていたら、私の立場が少し危うくなっていたかもしれない。社会的に。
「さてと。所長、業務連絡です」
「あぁ?」
 まるで聞き慣れない言葉でも聞いたかのように、椅子をくるっと回してこっちに向き直って首を傾げた。あんた本当に所長だよな?
「カズマはまだ見つかってないみたいです。その代わりにハルミちゃんを発見したとか」
「ハルミちゃんが?」
 代わりに驚いたのはパウだった。
「すぐに追ったみたいですけど……それから連絡がありませんね」
「なら、今連絡したらどうだ?」
 それもそうだのうという顔で、カチューシャの横のボタンをポチった。
「もしもーし」
 呼びかけてみても、やはり最初に帰ってくるのは土砂降りのノイズだけ。こうやって聞いているとあまり耳に優しくないサウンドだ。まるで本物のノイズの――よう、で。
「あれ」
 思わずカチューシャを外して、窓の外から漏れ聞こえる土砂降りに耳を傾けた。音質の違う雨音の違いを、頭の中でじっくりと吟味しながら聞き入る。
「どうした?」
 投げかけられる疑問の声にも答えず、もう一度カチューシャを装着する。いわゆるおしゃれあいてむの故障を疑うってなんだろうと思いながら、横のボタンをポチポチ押してみる。が、帰ってくるのは異様に音質の悪い土砂降り、というよりも砂嵐。
「繋がんないです」
「なに? 故障したの?」
 事務所の誇るメカニック・パウが、私のカチューシャをひょいと取って躊躇無く取り付け、砂嵐の音に聞き入る。そしてすぐに思い当たったのかさっさと返してきた。
「電波障害っぽいけど……全く応答しないところを見ると、向こうの端末の故障かもしれないね」
「少なくとも、向こうで何かあったんだろ」
 嫌だなぁ面倒くせぇなぁという表情をこれっぽっちも隠さず、所長が頭を掻きながら渋々と立ち上がった。それに釣られるかのように後ろでもガタッと音がしたので、私は驚いて後ろを振り返ると部屋の隅の椅子で置物業をしているミキが立ち上がっていた。異常事態感増し増し。
「ユリ、あいつらがどこにいるか大体わかるか?」
「え、ええ。まあ」
「わかった、さっさと現場に行くぞ」
 イマイチ整理とか準備とかできてない私を、パウが手を引っ張って連れて行った。

このページについて
掲載日
2011年1月24日
ページ番号
10 / 20
この作品について
タイトル
小説事務所 「開かずの心で笑う君」
作者
冬木野(冬きゅん,カズ,ソニカズ)
初回掲載
2011年1月16日
最終掲載
2011年2月8日
連載期間
約24日