No.7

「はぁっ」
 心なしか、私の吐く溜め息に混じる焦りも自覚できるようになってしまった。
 結局、あんな状態のシャドウさんを放ってはおけないと判断した私は、彼をそのまま自宅まで連れて帰ってきてしまった。ベッドに寝かせてしばらくはうわ言ばかりだったが、次第に疲れてしまったらしい。今はぐっすりと眠っている。
 彼を寝室に置いて、私は台所の椅子に腰掛けてコーヒーを飲んでいた。すっかり炭酸に慣れ切った舌が、コーヒーの苦味に拒否反応を示す。それを抑えつけながら、玄関を叩く雨音に聞き入っていた。
 本当に、信用ならない天気予報だ。私がシャドウさんを担いで帰ろうとしてすぐに降り出した雨に、私は陰謀的なものを感じた。
 何はともあれ、これで三人目だ。同好会の友人、カズマ、そしてシャドウさん。心の内を抉られた被害者が、私の知る限りで三人も現れた。ハルミちゃんをいじめて遊んでいた余裕はどこへやら、再び焦燥感が私の心を煽る。
 ……いや、これはそういう感情じゃないのかもしれない。良く似ている気がするけど、根本的な部分で違う感情だ。
「あぁ、くそっ!」
 そしてそれを理解した途端、苛立ちを込めた拳を台所に打ちつけた。
 私は、あまりにも無力なのだ。 こうして被害者が増えていく中で、結局は何もできない。唯一した事といえば、当てずっぽうで所員達を動かした事だけだ。
 もし、私の悪足掻きが空回りに終わったら?
 私はもう、受け入れがたいそのケースを無視できなくなっていた。
 例え私の仮説が当たっていたとして、それは事態の好転を意味するわけでもない。むしろ迫り来る雨雲が本当に人々を悪夢へ誘うのなら、その被害は計り知れないものになる。
 悪夢は、現実となる。
 その時、私はどうすればいい? 治療もできない。みんなを率いて逃げ出す事もできない。或いは私も悪夢に苛まれてしまうのではないか?
 そうなってしまったら、もう何も打つ手は――。

「バカな事を考えるなぁっ!」

 深みにハマりそうになった思考を引っ張り上げる為に、私は自分の頭を目の前の冷蔵庫に打ちつけた。
「ったぁ……」
 しかし、やって後悔した。普通に痛い。涙が出てきた。
「く……はぁ……」
 とにかく落ち着く為に深呼吸をする。そして、やってみて驚くべき事に気付いた。心臓の鼓動が早い。呼吸も荒くなっている。いつの間にこんな状態になっていたんだろう。全然気付かなかった。これは判断能力もなくなってくるわけだ。
「もしかして、やっぱり私もラリパラなのかな……?」
 カズマがラリパラであるとわかったあの日の、事務所のメンバー達との会話を思い出した。
 あの時、私は一度自分を疑っていた。不安の雲が迫っているような、そんな錯覚を覚えて――すぐに振り払った。その時から、いや、もっと前からすでにラリパラだったのかもしれない。
 これはただの鬱病なんかじゃない。自分の悪夢に囚われるのではなく、気付かない間に堕ちてしまう。鬱病なんかより、何十倍も性質が悪い。
 長い間立て続けに見せられた理解不能な夢は、知らない間に私から判断能力を失わせた。深く考えずにマンションのパイプを登ったり、衝動的にアンケートなんて下らない事をしたり、意味もなくハルミちゃんをいじめたり。
 この動悸の早さにしてもそうだ。もし頭でもぶつけてなかったら、私は不安ばかり募らせて心労で倒れてたかもしれない。それに気付かなかったのは、一種の興奮状態にあったからだ。
 ラリパラの本質は、判断能力を失わせる事。自分を見失わせ、気付かない内に精神をズタズタにする事。悪夢はその副作用なんだ。
 これに負けない為には、とにかく自我を保つ事。希望的観測を信じ、バッドケースを前に立ち止まらない事。そうしなければ、背後から忍び寄る魔の手に足を掴まれてしまう。
「はぁ……ふぅ……」
 深呼吸を繰り返す。動悸はなんとか収まってきた。ここまで思考もずいぶんまとまってきたし、もう大丈夫だと思う。
「ふぁあ……」
 と思ったら、今度は欠伸が出てきた。一気に疲れが押し寄せてきたのだろう。興奮状態にあってここまで気付かなかったに違いない。
 立ち上がるのも面倒なので、この場で寝る事にした。ベッドはシャドウさんに貸してしまった事だし。
 もし悪夢でも見てしまったらどうしようか、という懸念が一瞬だけ通り過ぎた。が、そんな事を気にしたら眠れなくなって、余計疲れが溜まってしまう。幻覚でも見てしまう前に寝るに限る。

――寝ないと死ぬよ。ネズミだったら二十日程度でね。

 パウのそんな言葉を思い出して、少しだけ笑いが込み上げ――玄関を叩く雨音を子守唄に、私は眠りについた。


――――


 そして、私の目を覚ましたのも雨音だった。
「……ん」
 目が覚めた時と全く変わらない光景だった。真っ暗な台所だ。眠る前はすでに暗闇に目が慣れていたから、電気をつけていなかったらしい。
「ふぁあ……良く寝た」
 我ながらベタなセリフで体を起こした。ずいぶんと寝心地が悪くなかったからだろうか。床で眠っていたにも関わらず、寝起きはまるで悪くなかったからか。
「あれ?」
 少しずつ目が覚めていき、いざ立ち上がろうとした時にとある事に気付く。
 そういえば、夢を見ていない。


「お邪魔しまーす……」
 ゆっくりと寝室の扉を開け、なるべく足音を立てずに部屋に入った。自分の部屋なのに、わざわざ遠慮しながら入らないといけないとは。
 シャドウさんは、まだ眠っていた。特に寝苦しそうでもなく、問題はなさそうだ。それを尻目に、床に放置してあったノートパソコンを開いた。普通の時計はなんとなく信用できないから、私は普段から時間を確認する時はパソコンを使っている。
「あれま」
 午前6時ジャスト。立派な早朝だ。事務所に入ってからの生活では久々の早起きになる。珍しい事もあるもんだ。
「どーしよっかな」
 かといって、三文の得があるわけでもなし。
 別に事務所に早朝出勤したって構いやしないのだが、どうせ行ったってこの時間じゃ誰もいない。所長不在は閉店と同義なので、私一人で事務所にいたってなんの意味もない。無駄な移動をしない分、家にいる方が合理的というものだ。
 かといって、私は家で暇を潰す手段を持っているわけでもない。基本的に家でやることはご飯を食べる事と寝る事くらい。最近は読書やネットサーフィンもしないでもないが、退屈だと感じる事が前提だからあまり……という感じ。
 となると。
「……いつになったら起きるんだろ」
 人様のベッドで寝息を立てるシャドウさんに視線が行く。まぁ、私が寝かせたんだけども。
 やる事があると言うのなら、それはこの人の世話なんだろう。だが起きているならまだしも、寝ている人の面倒を見るのはお断り願いたい。何故って、起きるまで退屈そうに待つ必要があるからだ。それまで暇潰しにやる事もないというのは苦痛である。起こそうにも一応病人なわけで。
 そういうわけで、私は暇だった。
「うーん」
 これで何度同じような事を考えたかはわからないが、昨日あれだけ冷静さを失っていた私はどこへいってしまったのか。寝起きのテンションかどうかはわからないが、我ながらずいぶんと落ち着いている、というか日常的だ。
 不思議なものである。今までの悲観的な思考は欠片も考慮に値せず、酷いと思うくらい楽観的になっている。今なら目の前で人が死んでも淡々とお経を唱えられるかも――いや、流石にそれはないけど。まぁそれくらい気が楽になっている。ラリパラの時とのギャップなんだろうか。というか私は本当にラリパラだったのか、そうではなかったのか。
「まぁ、特に問題はなさそうだけどなぁ」
 一応、姿見で自分の姿に異常がないかとかも確認してみる。おかしなところもないし、体の調子が悪いわけでもない。曰く「死亡フラグ」なんてものが立ってない保証がない点以外は、問題がないと考えていいだろう。
「はぁ」
 しかし、暇である。外は大雨、街はラリパラ(?)、繰り出す先には人影在らず。こういう時に自分は面白みの無い人物だという事が身に染みてわかる。

 悩み抜いた挙句、とりあえず家にいたら暇で死にそうだと言う事がわかったのでふらふらと出掛ける事にした。一応、シャドウさんに冷蔵庫の中の食糧に手を出す権限と外出許可の旨を記した置手紙を残しておいて。

このページについて
掲載日
2011年1月18日
ページ番号
8 / 20
この作品について
タイトル
小説事務所 「開かずの心で笑う君」
作者
冬木野(冬きゅん,カズ,ソニカズ)
初回掲載
2011年1月16日
最終掲載
2011年2月8日
連載期間
約24日