No.5
空気が重い。
この沈黙の主成分は一体なんだろうか。
予想だにしなかった事に対する驚きか。
早いうちに手を打っておくべきだったという後悔か。
これからどうすべきかわからぬ故の悩みか。
いずれにせよ、所長室の一同は今日の空色のように暗かった。
「どこに行っちゃったんでしょうね」
リムさんが心当たりが欲しいと言わんばかりに所長室の面々を見回すが、誰もが力なく首を振る。
「あのままずっと引きこもってるかと思ったんだけどなぁ」
冷蔵庫からコーラを取り出しながらヤイバがボソッと呟き、来客用のソファに腰を降ろした。その隣で、さっきからヒカルは俯いたままだ。この中では、一番心配してるんだろう。
「なぁミキ、あいつがどこ行ったかわかったりしないか?」
「わからない。私は電子面での能力はさほど有していない。カズマも見付からないように携帯機器は持ち合わせていないはず」
「だけどそれは理性が残ってる時の判断だろ? あいつは今ラリパラだぞ?」
ヤイバがそこまで言った時、パウも口を開いた。
「そうだよ、カズマはラリパラだ。それがそもそも、どうして部屋にこもらずにどこかへ消えたんだ?」
「ラリパラだからどっか行っちまったんじゃないのか? 頭が逝っちまってんならタミフルよろしく走り出さん事もないだろ」
「……それは、ないと思う」
所長の提示したそれらしい可能性を否定したのは、ヒカルの弱々しい言葉だ。
「あいつ、一人にしてって言ってた。誰にも会いたくないんなら、そもそも部屋から出てこなければいい」
「……じゃあ、なんでカズマはいなくなっちゃったんだ?」
みんなの疑問を、ヤイバが改めて口にした。再び沈黙が訪れる。
「逃げたんじゃ、ないんですか」
それを破ったのは、静かで、重くて、幼い声だった。
「……ハルミちゃん?」
また、この顔だ。何かを考え込んでいる顔。その視線はぶれているわけではないが、何も捉えてはいない。口だけが、別人のように動いている。
「ラリパラ患者の共通点は、悪夢を見ている事なんですよね?」
「ん、ああ。そうだったな」
「その悪夢はつまり、その人本人のトラウマなどの負の面です。きっと、それのせいなんじゃないでしょうか」
「どういう意味だい?」
「何か、過去のトラウマがあって……それに関係するものから逃げている、とか」
「何から逃げてるっていうんだ?」
所長の疑問の声に驚いたのは、多分一同の中では私だけだった。気のせいか、その声が異様に鋭く感じたのだ。
「それは、わからないですけど……」
そこで再び会話が止まる。
今、私達の手元にある情報は限りなく少ない。状況は絶望的だ。猫の手も借りたいくらいだが、頼んだって水泳はしてくれない。つまりこの件において、どこの誰もが手を打てない。
「ま、悩んだって仕方ない。ヒカル、ヤイバ」
「なんすかー」
「リムと一緒にカズマを探してくれ。ダメ元でも構わない」
「わかりました。ゼロさんはどうするんですか?」
リムさんの問い掛けに、所長は言葉を詰まらせた。地味に珍しい光景だ。
「……まぁ、ゆっくり妙案でも捻り出すさ」
挙句、頼りない言葉でリムさん達を送り出した。
――――
ステーションスクエアに残った私は、所長とハルミちゃんと一緒にカズマの手掛かりを掴む為に今一度マンションへと向かった。
所長は管理人さんと顔を合わせるや否や、二言三言話しただけであっさりと玄関口の自動ドアを開けてもらった。
「お仕事頑張っておくれよ」
管理人のお爺さんは、にこやかな顔で通してくれた。小説事務所の事は当然知っているのだろうが、この丁寧な応対ぶりと言ったら。
「最初っからこうするんだった……」
というか、とんだデジャブだ。いつの間に私には時間と労力をかけて昇降する事に定評ができてしまったのか。エレベーターに好かれてないのかな。
ハルミちゃんが管理人への挨拶もそこそこに、何故かエレベーターのボタンを丁寧に二回押して待つ。特に待たせる事もなくさっさと降りてきたエレベーターに、ハルミちゃんが実に満足気な顔で乗り込んだ。よくわからない行動に首を傾げながら私も後に続き、所長は特に気にせずに18のボタンを押した。
その時の私は、玄関口の自動ドアを蹴りたくてしょうがない衝動を抑えていた。
そういうわけで、家宅捜査。
知り合いの人の家を無断で漁るというのだからあまり良い気分ではなかったのだが、私が真っ先に開いた冷蔵庫の中身を見て、その気持ちはあっさりと廃棄処分された。
レトルトや冷凍食品、飲み物缶その他。それらがキッチリと整理されていた。
それぞれ、約1ダースずつ。
これに肝を抜かれた私は速やかに台所周辺へ移動、食器類の数を調査。綺麗に1ダースだった。
驚きを隠せぬままふらふらとお手洗い付近へ移動すると、買った状態のままのトイレットペーパー1ダースが棚の上で組み体操をしているのに遭遇。慌てて逃げた先の洗濯機で、1ダースの洗剤達が私を出迎えた。
「大丈夫か、お前?」
何故か多大なるダメージを受けてリビングのテーブルに突っ伏す私の肩を、所長はぽんぽんと叩いた。
「なにこの1ダースハウス……」
明らか家から出る気ねーだろ。こんなのが失踪なんかするかよ。そう思って顔を上げたら、目の前にカロリーメイトが1ダースあった。メイプル味。
「自分でFPの回復しない味だって言ってたのに、結局買ってるんだ」
何の話だよ。もう少し一般人にわかる事を話してくれないかなハルミちゃん。
「というより、チャオには必要ないよね。トイレットペーパーとか、洗剤とか」
生命体としては異例だが、チャオは排泄行為を行わない。食べた物は手早く栄養に変換され、そして腹の中で完璧に分解、消失する。だからチャオが一人暮らしすると、トイレはお客さんぐらいしか使わないからトイレットペーパーはこんなに必要ない。
洗剤に関しては必要性が分かれる。近年じゃチャオもファッションに軽く力を入れてるからだ。しかし、カズマがそんな様を見せた事は一回も無いから、こっちも必要ない。
「習慣だったんじゃねーの?」
所長が何気無くそう言う。よく理解できない私は言葉を反復した。
「習慣?」
「ほら、人間だった頃の」
「……あぁ」
そういえば、小説事務所に迎えられた最初の日にカミングアウトを受けていた。なんの有り難みもなさそうに語られた、魔法使いの所長達のお話と、人間だったカズマ達のお話を、ほんの少しだけ。当時としてはあまりにも軽々しく話されたうえに、内容が内容だったからさほど気にしなかったものだ。
だが、私は前者が真実である事を知っている。所長は風に乗って誰よりも早く動くし、パウも地上を容易く焼き尽くすし、リムさんだって水であらゆるものを包み込む。
しかし、私は後者が真実であるか否かを知らない。前者が真実だったのだから後者も真実なのかもしれないし、逆もまた然り。信じる理由は無いが、疑う理由も無い。はっきりしたところで、私は何も変わらないだろうからだ。
――だが。
今回は、これを知る事によって何か変わるのかもしれない。
ラリパラ。過去のトラウマ。人間だった頃のカズマ達。
これらが無関係であるとは思えない。
でも、それは一体なんなのだろうか? それらは今、ただのパーツでしかない。我武者羅に組み立てたって、なんにもならない。
何かが足りないのかもしれない。
何かが要らないのかもしれない。
それが一体なんなのか、全容を表す解説書を持たない今ではわからない。
そこまで考えて、あぁ、また詩人みたいになってるよと思い、首を振った。
チャオにも血液型がある。私はAB型なのだが、昔の学校の友人に見せられた血液型の本に「時々思考がメルヘンへ旅立つ」だのなんだの書いてあったのを見て言葉を失ったものだ。血液型で性格を判断するのは好きじゃないが、その内容は否定しない。最近思考の放浪っぷりに拍車が掛かってきたぐらいだし。
見ると、所長もハルミちゃんも頬杖を突いていたりカロリーメイトを勝手に食べていたりしている。私もうんざりして、天井を仰いだ。
ここのところ、ずっとこんな調子だ。やる気が出ない。空はずっと灰色のままだし、世間の様子も面白くない。今回の事件も、その追い撃ちみたいなものだ。
ひょっとしたら、やっぱり私もラリパラなのかもしれない。毎日のように見る夢は、内容と継続性なら狂ってると言ってもいい。おかげで私の毎日のモチベーションは駄々下がりだ。発狂しないだけマシだけど。
そのうち、雨が降る。それがこの下らないもの全てを綺麗に洗い流してくれる事を、私は願いたい。
――ん。
「雨?」
悩める私の頭脳に、一つの「絵」が浮かび上がった。
夢の光景のようだ。その時まではその絵に支配され、目が覚める頃には記憶にすら残っていない。だけど、この絵は記憶から消えるには印象的過ぎる。
だけど、そんな事が有り得るのか? そんなはずはない。そう思っても、私の頭脳は可能性を手放したくなくて、出来得る限りの水平思考へと走り出す。
ラリパラ。理性が崩れるまでの期間。
手元に説明書はない。だから、この二つのパーツを配置するにあたっての距離感がわからない。でも、今はそれでも構わない。曖昧な境界線で踊る、私の仮説。その反復横跳びのラインは正しいのか? でも、跳ばなければ意味はない。
症状と夢は、密接な関係にある。それは一体なんだ? 夢を見るから発狂するんじゃない。見たくないものを見せられるから発狂するんだ。そこに理性が関与する余地はどこまである? これは個人差のような波の揺れを捉えるような難しさがある。でも、これをクリアしないと真実に向けて航海はできない。
そして、原因。
今、私の目の前にあるのはブラックボックスに違いない。でも、私はその中身を知っているかのような錯覚を覚えている。これが確信という奴なのか、それとも妄信という紛い物なのか。それを知るために、私はシャーロックごっこを頭の中で展開する。不可能を消した先に残ったものが、如何に信じ難いものであっても答えだ。それでも私は、不可能の消去を完全に行えない。ダメだ、やっぱり情報が少な過ぎる。
どうする。
この際、正しさなんて二の次でいい。せめてこの可能性を、誰かに無視させないような手掛かりはないのか? 私のように、この可能性を考慮せずにはいられないようにする為には、どうすればいい?
「おい、どうした?」
椅子から飛び降りて颯爽と走り出した私を、所長が呼び止める。それを無視して、私はカズマの部屋へと急いだ。
三度入るこの部屋の姿は、やはり変化はない。だから私は、それを疑問に思わなかった。でも、彼の人物像を考えてみればおかしいと思う可能性も、無いとは言い切れないんじゃないか? この考えを、もしかしたらヤイバならわかってくれるかもしれない。
ああ、そうだとも。
「私達の問題児が天気予報なんて見るわけがない!」
「はあ?」
私の後を追って部屋に足を踏み入れた所長は、私の確信の声を聞いて素っ頓狂な声を出した。無理もない。私だって何も知らずに聞いたら同じ反応をする。
何故カズマは攻略サイトの山を形成したブラウザの中に、一つだけ天気予報を入れていた? 年がら年中ゲームしてるような、1ダースハウスを形成するような奴が、なんで天気を気にした?
カズマはやる事は馬鹿でも、頭の良さは否定し切れない。どうしてなのかは知らないが、カズマは気付いたんだ。ラリパラは何が運んでくるのかを。
パソコンに繋がれたマウスを握る。それに反応して光り出すディスプレイを食い入るように見つめた。天気予報だ。二日後あたりに、降水確率はようやく100%を迎える。雨が降るのは、明日か明後日。
それはいい。私はページの端の項目から、雨雲の動きという項目をクリックした。色付いた雲が、私達の街の上に被さっている。雲の動きや移動の効率から、カズマの行き先を考える。この雲はどこに行く? どこに逃げればやり過ごせる?
「――南東だ!」
「南東?」
「所長、カズマは南東の方角にいるはずです!」
「おい、ちょっと待て。わかるように説明しろ。天気予報眺めながらそんな事言われたって――」
「ラリパラになる原因がわかったんです。ラリパラは、雨雲が運んでくるんです!」
確信に満ちた私の声に、所長とその後ろについてきたハルミちゃんも驚きの表情を作っていた。
でも、私自身もこの可能性を信じ切れていない。それでもこうしてカズマを見つけないと大変な事になる気がする。ラリパラ患者が見るもの。自分の汚点。過去のトラウマ。そしてカズマは、一人で消えた。もしこのままカズマを放っておけば……。
何か、取り返しのつかない事が起きる気がする。
「どういう経緯かわからないですけど、カズマはラリパラの原因を掴む事に成功したんです。だから、天気予報のページを開いていたんです。理性の働いてる間に雨雲の動きを知って、雨の降らない方角へ逃げた」
「逃げたって、どうして」
「きっと、ハルミちゃんの言っていた事と関係があるのかもしれません。逃げなくちゃいけない理由……それがラリパラと関係しているとしか」
言いながら、ハルミちゃんの顔を見てみた。なんというか、掴みどころのない表情をしている。私の言葉に、一体どんな感情を抱いているのか。私にはわからない。
「でも、もしそうなら早くカズマを見つけないといけません!」
「……わかった」
やった。と思った途端、息の塊が私の口から転がり出た。半ば焦燥感を煽るようにして、無理矢理意見を通したようなものだ。
所長はカズマの部屋に置かれた子機電話を手に取り、誰かへと連絡を取った。
「あー、小説事務所。依頼の件で連絡がある。依頼主を……ああ、お前か。ラリパラの手掛かりを掴んだ。雨雲だ。気象庁の協力を要請しろ。あとはコップに雨水でも入れて成分分析でもしてな。……あ? 終わってない? じゃあ誰かに任せたらどうだ。反感を買うのはお前の役目だ。じゃあな」
荒々しく電話を切って、所長は子機電話をベッドへ放り投げた。
「あいつら、まだクソ真面目に食い物の検査をしてやがった。暢気なもんだよ」
「はあ……」
「リム達への連絡は、お前がしとけ。お前のカチューシャは、今はリム達に繋がる」
頷いて、私はカチューシャの横にある小さなスイッチを押した。