Escape from the Girl 1
少年は鬼ごっこが苦手だった。
だって、鬼をやっても、逃げる側になっても、いつもある女の子に追いかけられていた。
「シオちゃん、遅すぎだよ」
疲れ果てて歩いている少年に、少女は笑いかける。
五年生のある昼休みだった。
クラスで鬼ごっこをしていた。
少年は鬼で、少女は逃げる側だった。
「僕が遅いんじゃなくて、アキラが速すぎるの」
「どっちでもいいけど、速くならないと一生鬼のままだよ」
「そんなあ」
少年はしょげた。
疲れ果てていて、言い返すことも、突然に全力で走って少女を捕らえることも、できない。
少女はそんな少年を笑った。
そしてその後に言った。
「じゃあ私がシオちゃんを速く走れるようにしてあげる!」
それからだった。
少女はいつも少年のすぐ近くで、少年よりも速く走った。
だから鬼ごっこにはいい思い出がない。
だけど、速く走れるようにするという言葉は、全てが全て悪夢の響きを持っていたわけじゃなかった。
もしアキラ――羽山晃よりも速く走れるようになって、誰にも追われずに好きなように走れたら。
そういう自由が手に入ったらいいな、と滝田詩音は思った。
WITH~チャオレース・ウィズ・ヒューマン~
第一話 Escape from the Girl
高校一年生、滝田詩音は帰宅部だった。
つまり部活に入っていなくて、放課後は家に帰るだけの人間。
だけど彼は足が速い。
体育の時間にそれを知った野球部のクラスメイト、松浦が話しかけてくる。
「なあ、滝田、お前部活やってないんだろ? なら野球部入ろうぜ。一緒に甲子園目指そうぜ」
「嫌だよ。俺、野球興味ないし」
詩音は、家に持ち帰る教材と机の中に入れっぱなしにしておく物の選別をしながら答える。
と言っても、ほとんど持ち帰りはしない。
宿題をするのに必要な物だけ持って帰る。
荷物はなるべく軽い方がいい。
そういうわけで、僅かな教科書とクリアファイルを学校指定の鞄に放り込んで、ジッパーを閉める。
「でもお前、足めっちゃ速いじゃん。陸上部の羽山晃から勧誘されてるのに断ってるって聞いたぞ。なら野球しかないだろ。野球も脚力が物を言うんだぜ」
「だからね、俺はそういうので走る気はないの」
「はあ?」
「俺は自由に走りたいんだ。走りたい時に走って、走りたくない時には走らない。部活に入ったら、そういうふうにはできないだろ?」
「まあ、そうだな。団体行動は大事だ」
「だから嫌だ」
詩音は鞄を背負った。
この学校の鞄はリュックとしても使えるように設計されているのだ。
丁度そのタイミングで、教室のドアがスパーンという快音と共に開けられた。
開けたのは同じ学年の少女だった。
松浦がその顔を見て、
「あ、羽山晃」
と言った。
「それじゃあ俺は帰るから。また明日」
詩音は松浦に小声で告げると、開けられた方とは違う方のドアにそっと向かった。
教室内を見渡す晃が詩音を見つける。
「シオちゃん、まだいた」
と指差した。
同時に詩音は走り出した。
「今日こそ捕まえる!」
晃が追いかける。
単純な走力は晃の方が上だ。
しかし階段で詩音は晃を離す。
単純に走りながら降りるのが上手い。
さらに階段の中程で飛び降りることで、素早く降りていた。
晃は律儀に一段ずつ下っている。
最初から平らな道で捕まえるつもりだから、余計なことはしない。
一方詩音にとってはこの階段を始めとした、校内で稼いだリードが貴重だ。
下駄箱でさっと靴を履き替える。
晃はここで履き替えずに捕まえてもよさそうだが、自身も靴をしっかりと履き替える。
それが彼女なりのスポーツマンシップであるらしい。
ここでも手際よく履き替えた詩音がややリードを広げる。
校内はリードを広げる場所に満ちている。 最後はショートカットだ。
校門から出ず、下駄箱から敷地と公道を隔てるフェンスに真っ直ぐ走る。
ぶつかる勢いでフェンスに飛びかかり、手と足をフェンスに押し付けた瞬間、もう一度跳ぶようにしてフェンスの上に手をかける。 こうして詩音は、ものの数秒でフェンスを越えた。
着地して、また走る。
「おおうっ」
ランニングしていた黒いジャージ姿の男が、突然目の前に振ってきた学生に驚いた。
後方の校門から出てきた晃が、
「待てえ!」
と大声を出していた。
黒いジャージの男は、ふっと笑うと詩音に併走する。
「あの子に追いかけられてるのか」
見知らぬ男に話しかけられて当惑した詩音は、喋って体力をロスするのも嫌だから、うなずいて返答する。
男はちらちらと後ろを振り返って、
「彼女の方が速いみたいだな。このままだと追いつかれる。どうする?」
と言った。
そんなこと、わかっています。
詩音は心の内で答えるだけだ。
だけどただ追いつかれるのを待つだけじゃない。
逃げ切るためのルートが詩音の頭の中にはあった。