チャオワールド (7)
翌朝、目を覚ましたアオコは、シーツに種が落ちているのを見つけた。
ハートの木の種だった。
昨日はスピアが持ち帰ってきたハートの実を食べて行為に及んだ。
まるで二人が交わった結果生まれた卵みたいだ、とアオコは思った。
ちょうどシーツの真ん中に種はあった。
ハートの実の効き目は凄かった。
半分ずつしか食べていないのに、錠剤とは比べものにならなかった。
私は完全にスピアと溶け合っていた。
アオコにはまだ昨夜の多幸感が残っていた。
スピアの全てを受け入れて、互いの肉体を共有した。
今の私はスピアの暴力性を手に入れた。
文明が作ったかりそめの平和に頼らずに、肉を狩って生き抜くことのできる才覚だ。
それを私も得た。
その証拠に、昨日はあんなに牛の肉を食べたというのに、私の体は少しも具合が悪くなっていない。
むしろ力がみなぎっている。
そしてスピアにも、私からなにか与えられたはずだ。
たとえば、私がチャオになれるとスピアは言っていたから、私と交わったスピアだってチャオになれるに違いない。
スピアはチャオに渇仰していたから、これ以上ないプレゼントになっただろう。
とてもとても残念なことに、そんな愛しいスピアがいない。
もう仕事に出かけてしまったのだ。
最高の気分で迎えられた朝の、肉食動物の私が始まった記念すべき瞬間だというのに。
だけどスピアは落ち込むことなく、前向きに起き上がった。
出かけよう。
スピアとおそろいのジーンズ(骨董市でたまたまセット売りにされていたのだ。サイズも一緒だったから、アオコには少し大きかった)を履き、スピアの稼いできた硬貨をいくつか掴み、ポケットに入れる。
せっかくだから、このハートの木の種を植えよう。
こんなアパートから抜けて、ガーデンで暮らす日が私たちにも来る。
それだったら、もうここをガーデンに変えてしまおう。
アオコはプランターに植えていたプチトマトを引き抜いて、捨てた。
とはいえ、プランターでは木には狭すぎる。
アオコはプランターの土の上に種を一旦乗せる。
そしてプランターを抱えて、アオコはアパートを出た。
道路はアスファルトで舗装されているが、昔の人間が遺したものに過ぎず、遥かな年月を経た今では劣化して割れているところもあった。
アオコはとびきり割れの大きいところをアパートの周辺で探した。
それは案外すぐに見つかって、道の脇にアスファルトの下の土が露出している部分があった。
空豆のような形のスペースで、おおよそ二十五平米はありそうだった。
その幸運に、アオコは一層気分を良くした。
土を少し掘ってから種を植え、そこにプランターの土を被せた。
探し物なんて、探し始めた時点で見つかっているも同然なのね。
軽くなったプランターを振りながら歩く。
次は市場に行こう。
アオコの目的は、自らの意思で肉を食べに行くことであった。
自身の変化を再確認するためだ。
それに、もっと肉を食べれば、もっとスピアに近付けると思った。
アオコは途中の広い道でプランターを放り捨てた。
プランターは空中で一回転する。
落ちると、ばこんと大きな音を立てて、そして少しだけ跳ねた。
市場に行くと、焼いた肉を販売している屋台の周りに列が出来ていた。
行列なんて珍しい、と思って並んでみるが、少しも動く様子がない。
「なんかあったの?」
近くにいた男に聞いてみると、男は随分前からここにいるのか、疲れのある声で、
「解体担当がいなくなったんだとさ」
と言った。
「他に肉を解体できるやつがいなくて、それで料理が進まないんだ。あんたは誰か、知り合いに肉を切れるやつ、知らないか?」
「それなら私がやってみようかな」
さばけるのか、と男はとても驚いた顔をする。
そうじゃないけどね。
アオコは首を振り、笑った。
「でも、やってみたら、意外とできるかもしれないでしょ?」
謙虚に言ったが、できると確信していた。
スピアは生きた人を殺している。
それに比べたら、死んでいる動物の肉をさばくなんて、少しも特別なことじゃない。
だからできるはずだとアオコは思った。
おおい、この子が肉を切ってくれるとさ。
男が大声を出して、列をかき分ける。
アオコは好奇の視線を受けながら、非暴力的な人たちの作った道を進む。
「あんた、やってくれるのかい?」
店主の女が、すがるような顔をして言ってくる。
「本当にできるのか、わからないですけど。やってみます」
自信満々の笑みをアオコは店主に見せた。
屋台の後ろには折りたたみの机があって、そこが調理台だった。
その調理台にも乗せられずに、死んだ豚が横たわっていた。
畜殺者不足のせいで解体にまで手が回らず、殺しただけの状態で出荷されてくるのだ。
もう死んでしまっているものを解体するのであればできるという人間はいるからだ。
この屋台にもそういう人間がいて、解体をしていたはずなのだが、姿をくらましてしまったようだ。
アオコは刃の長い包丁を持たされる。
まずそれで腹を割いてみる。
最初は力任せに切ろうとするが、押し引きの動作でこするように刃を当てると切れていくことがわかると、時間はかかるが着々と事が進む。
そして内臓が取り出されると、おおっ、と歓声が上がる。
店主はその内臓を鍋の中の調味液に浸す。
数秒つけた後に鉄板で焼く。
店主の肉の扱いは大雑把だ。
この店主には肉の部位や、それによる味や扱いの違いの知識はなかった。
とにかく食べられそうなところは焼く。
少しでも多くの量の肉を焼いて売れば、それだけ儲けが増えると思っているのだった。
加えて、よく焼けば食あたりなどは起こらないだろうという考えていて、焼き過ぎなくらいに焼くのだった。
一方でアオコは夢中で解体をする。
開いた腹の中に顔を入れそうなくらいに近付けていた。
解体のための刃物は、他にもいくつかあった。
鉈のようなブッチャーナイフ。
腹を割いた時の包丁よりかは短いが、鋭く尖った包丁。
解体にはあまり向いていなそうなナイフも数本あった。
それらを感覚的に使い分けていく。
分厚い肉を叩きながら切り分ける。
肉を削ぎながら骨を剥がす。
取り出した肉の塊が次々に焼かれていく。
かつての人類はもっと器用にやっていたのだろうけれども、私も初めてやったにしては、なかなか上手くできている。
それは才能とかいうことじゃなくて、おそらく人間が古くより持ち合わせている機能として、動物の肉を扱うことができるからなのだろう。
そんなふうにアオコは思った。
そして、そんな思い方をすると、多くの人がこの作業を忌避しているのが途端に不思議になった。
食べていないのに、肉を切っているだけで満腹中枢を刺激される感じがあった。
その一方で、血の赤色をした肉を目の前にしていると、腹が減ってくるようにも感じられた。
満腹感と空腹感をアオコに同時に与えているものの正体は、冷静な興奮だった。
思考力を奪うことはなく、だけどもアオコの背を力強く押しているような興奮だ。
それがアオコの行動を肯定していた。
もっと動物を殺して食べたいという衝動が自分に備わっていたことを、アオコは生まれて初めて知った。