一章
一章
四歳のころ、近所の友達の疋田くんや間戸くんと公民館で遊んでいた。何をしていたかはよく憶えていないが、子供らしく遊具で遊んでいたように思う。
彼らは五歳になると幼稚園に通い始めた。だが、ぼくは体が弱かったため、検査入院という名目でとある大学付属病院に入院した。検査結果には何の異常も出なかった。だから、あまりこの入院には意味がなかった。でも小さい頃のぼくは入院して母親と離れることがとても寂しくて、病院ではずっと泣いていたことをよく憶えている。
六歳になる年、ようやくぼくは幼稚園に通うことができた。間戸くんと、足の速い「チーター」と仲良く遊んでいた。担任の井口由香先生は体が弱かったぼくにとても優しくしてくれて、家まで送ってくれた。父はそのお礼ということで、井口先生を家に招待して、夕飯を御馳走していた。
幼稚園では、体の弱さを克服するためにサッカークラブに入っていた。練習の方針は「ボールを持ったらシュート」だった。今にして思えば、できる限り多くの子供がボールに触れるように、という配慮だったのではないかと思う。みんなが活躍できるようにしておかなければ保護者からたくさんのクレームが来るから、そういう方針になったのだろう。だけどぼくからしてみたら、シュートしてばっかりのサッカーは、あまり楽しくなかった。
七歳になる年の春、ぼくたちは小学校に進学した。幼稚園で仲良くしていた間戸くんとは、別々の小学校に通うことになった。それから何年かはどちらかの家に泊まって一緒に遊ぶことが続いたけれど、いつの間にか間戸くんとは疎遠になってしまった。
小学一年生、ぼくは新しい友達の長谷部くんや福田くん、ほか数人の友達と校庭で鬼ごっこをしたり、ドッヂボールをして遊んでいた。当時は遊具に関する規制がまだ緩かったので、大きな滑り台やジャングルジムを使って遊んでいた。虫で遊ぶことには目がなくて、アリを牛乳の中に沈めたりしていた。中庭に落ちていた葉っぱを使って、石の上で削って、お茶もどきを作っていたこともあった。長谷部くんの家にも遊びに行ったことがある。彼の家にはドリームキャストがあった。ぼくたちは外で遊ぶタイプだったけれど、ゲームももちろん好きだった。ほとんどが任天堂のゲームで、スマブラとかマリオパーティで遊ぶことが多かった。
ところが彼らとの友情は長くは続かなかった。三年生になると同時に長谷部くんは転校して、それまで仲の良かった友達とも別のクラスになった。ぼくは友達の輪から外れて、一人だけ別のクラスになったのだ。
でも、疋田くんとの交流は続いていた。疋田くんとは家族ぐるみの付き合いだった。だけど、ぼくが疋田くんの持つゲーム機を壊してから、交流が減って行った。本当はぼくが壊したわけではない。壊したのはぼくの弟だった。けれど父はぼくがやったのだと決めつけてしまったので、ぼくは悪者になった。最もそういう事件がなくても疋田くんとの仲は疎遠になりつつあった。別のクラスであったことだけが理由じゃない。ぼくはとにかくゲームが強かった。それは当たり前の話で、ぼくは負けることが嫌いだから、とことん練習した。だけど、みんなぼくがいると勝てないからあんまり楽しそうじゃなくて、だからいずれにしても、そのうち破綻していたのだと思う。
そのころから父に野球を教わった。ぼくが何かおかしなことをすると、父はすぐに怒鳴って、殴る。その基準は、今だからわかることだけど、「父の気分」だ。最もらしい理屈は付けるけれど、父は気分が悪いと怒鳴る。感情の処理を、周りに当たり散らすことでしか解決できない。だけど当時、小学生のぼくにとっては、父親は絶対だった。父の「正しさ」に合わせて努力をした。
野球で失敗すると、父は「やりたくないならやめろ!」と言った。やりたくなかったからやめることにした。ぼくがゲームをしていると、父は「遊んでばかりいるな!」と言った。遊ぶことをやめたけれど、そうしたら今度は「もっと遊べ!」と言われた。家のことを手伝えば、「完璧にできないなら手を出すな!」と言った。それからは何一つ手をつけなくなった。とにかく、父は自分の思い通りにならないと気が済まない人間だった。そんな父親だから、母親との関係が悪くなるのも時間の問題で、事実そうなりつつあった。
それでも家族仲はまだ良好なほうで、旅行にも行った。海とスキーを交互に行っていただけだったが、それなりに楽しんでいた。ぼくはスキーで何度も転んだ。そのたびに父に怒鳴られたが、持ち前の諦めの悪さで克服し、それなりに滑れるようになったのだった。
ぼくは三年生になってから友達がいなかったので、知識をたくさんつけた。カードゲームの知識、新しい遊びの知識、勉強、その他諸々。そうすることで、友達との「関係」を作ろうとしていたのだ。カードのルールとか、レアカードの値打ちとか、今度出る新しいポケモンだとか、そういう「新しい話」を元手に、誰かと繋がっていたかった。転校生が来るまで、そういうことを続けていた。
転校生の阿尾くんは、ぼくとすぐに親しくなった。お互いに他の友達がいなかったからだ。ぼくたちにはお金がなかったけれど、悪知恵はあった。コンビニの目の前にあるガシャポンにはヨーヨーがあって、それが欲しかったぼくたちは、店員さんに「100円玉入れたけれど、出てきません!」と泣きついて、まんまとヨーヨーを手に入れたりした。そのころには別のクラスで遊んでいた友達とも仲良くできて、公民館でカードゲームをしたり、プチサバイバルゲームのようなことをしていた。
それも長くは続かなかった。四年生にあがると、阿尾くんとは別のクラスになって、ぼくはまた一人になった。夫婦喧嘩の数も増えてきて、ぼくは父の怒鳴り声が聞こえるたびに耳を塞いで布団の中に閉じこもっていた。父はこのころ、機嫌が悪いことが多かった。ゲームのセーブデータが消えていたことをぼくのせいにされたこともある。友達から「カードがなくなった!」という電話が来たとき、ぼくのせいにされたこともある。父の中では「ぼくのせい」にしておけば、それで清算がついたのだ。
一番ひどいエピソードは、今でも鮮明に思い出すことができる。公民館での任意参加「お泊りイベント」があって、ぼくは参加したかったけど言い出せないままでいた。参加したかった理由は、疋田くんが参加していたからだ。だけど、当時のクラスメイトである丹羽くんの親が、どうやら「ろっどって子が、疋田くんは参加しないって言っていたから、うちの子も参加させなかった」とぼくの母に伝えて、ぼくは嘘吐き呼ばわりされたのだった。父はぼくを罵倒し、ひたすら殴りつけた。もうこのころには、父と母がまともな人ではないことは分かっていたし、自分の役回りがどれくらい損なのかも分かっていた。だから、ぼくは自衛手段として、「嘘を吐くこと」を身につけた。
ぼくと仲の良かった阿尾くんの双子の姉、阿尾えりかさんは、疋田くんのことが好きだった。でも、二人とも喧嘩っ早い性格だったので、喧嘩が絶えなかった。その二人の仲を取り持つため、ぼくはえりかさんに「疋田くんが謝りたがっていた」というような話をした。なんでそんなことをしたのかと言うと、えりかさんのことが好きだったからだと思う。友達は決して多くはなかったけれど、父や母に何も言われないために、「友達と遊んで来た」といつも報告していた。クラスでは体の良いいじられ役としての地位を確立しつつあった。だけど、先生にはぼくの嘘が通用しなかった。宿題を忘れるたびに、嘘を吐いて言い訳していたけれど、怒られた。それはぼくが悪いけれども、テストの点数が良いからって、カンニングを疑うのはどうかと思った。
四年生の一番の思い出は、阪本さんだ。仲の良い女友達の阪本さんは、何かとぼくを心配していた。ぼくは中二病全盛期だったため、年中黒いコートを着ていたのだけれど、そんな些細なところまで阪本さんは母親のようにぼくのことを心配してくれた。「暑いから脱ぎなさい」だとか、「給食ちゃんと食べなさい」だとか(当時から好き嫌いは多かったのだ)。そういう心遣いがぼくはあんまり嫌いじゃなかった。
五年生、ぼくは家庭の都合で転校することになった。「ぼくが嘘吐き呼ばわりされたことで、近所づきあいがやりづらくなった」というのが、主な理由だ。子供心に、ああ、父と母はぼくの味方ではないのだと、ようやく気付くことができた。
転校した先では、ぼくは「嘘の自分」を作り上げることにした。常識知らずだけれど、勉強と運動はできる。物知りで、何かと役に立つ。そんなキャラクター設定だ。だけどぼくは小学生にしては勉強と運動ができすぎたので、別のクラスの「ガキ大将」グループからは目の敵にされた。スポーツ大会では、何かとぼくに張り合ってきて、なおのこと鬱陶しかった。林間学校――プチ修学旅行のようなものだ――では、「ぼくが女子風呂を覗いた」というような噂を広められた。女友達の菅さんがぼくを信じてくれたことが、ぼくの中では唯一の救いになっていた。父と母の夫婦喧嘩は絶えなかったけれど、ぼくは学校では少ないながらも良い友達に囲まれて、楽しく過ごしていたのだった。
六年生までは。
六年生当時のことは、正直、あまり思い出したくない。憶えている時系列もてんでばらばらだから、具体的にいつのことだったかはもう思い出せない。当時、新聞記事にもなっていたから、たぶん調べれば分かるのだけれど、とある事件が起こったのだ。被害者は名前も知らない別のクラスの女の子で、加害者は中学か高校の生徒だったように思う。同じ学年の生徒の兄だった気がする。ぼくは止めようとしたけど、怖くて近づけなかった。それでも何とか止めてはみたけど、凄まれて、殴られて、怖くて何もできなかった。ぼくにとっては一番嫌な記憶だ。ぼくはそれまで「できる自分」がとても大好きだった。だからゲームが得意で友達と疎遠になっても、父と母から道具扱いされても、友達とは別々のクラスになっても、苦し紛れにやって来れたのだ。だけど「できない自分」であることを自覚してしまった。
それを機に、ぼくの「自分を作る病気」は悪化した。
「男子は女子とは話をしない!」というルールを、比較的権力の強い男子グループが作っていたことが印象に残っている。ぼくは完全に無視して、先生に告げ口したのだ。誰が告げ口したか、という問題には、権力の強い男子、二、三人の名前をあげて、広めておいた。彼らが「悪」だったからだ。ぼくは先生にとって、「真面目で使い勝手のいい生徒」を作った。
父と母には、「学校ではうまくやっている」ような顔をして、「善良な息子」を作った。
祖父母からは「孝行な孫」を作った。そうすることでお小遣いがもらえたからだ。
弟にとっては「物知りな憧れの兄」を作った。
クラスメイトにとっては「役に立つやつ」を作った。
その上で、ぼくが見てきた「困っている人」には手助けをした。本当はひどく臆病でせこい人間なのに、自分をごまかすことだけは上手だったから、自分を作ることも難なく成功してしまった。人助けをすることに夢中になっていたぼくは、何かのアニメに影響されて、正義のヒーローを名乗ることにしたのだった。
そしてぼくは、友達、荒谷くんのおすすめで、ソニックアドベンチャー2バトルと出会う。
二章へ続く