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恐らく、暇だったのだろう。彼はふと、つまらぬ考えを浮かべた。
その日はいつもより時間が経つのが早かった。
定時が来ると、彼は几帳面にまとめておいた自分の荷物を持ち、颯爽と社を出た。
落日の山吹色の光に照らされながら、息を白く吐き、手首の時計に目をやる。
華奢な生活とは言えないが、これだけは彼の自慢。スイス製の腕時計だ。
ペアルックとして買ったものだが、今現在、同じものを身に着けているもう一つの"自慢"はいない。

昔から彼は、謙虚な人物であった。
人より抜け出ているその知能は決して人に見せびらかせず、ただひたすらに他人を持ち上げ続ける。
それは決して媚びるためではなく、本心からだ。彼の性格からだ。
それでも、性悪な者は彼を「いやみったらしい」と批判した。
だけれど、彼を愛する人の方が多かった。もう一つの"自慢"もその口である。
彼は人を愛し、人に愛された。

「今日はこの後、なにかあるんですか」
手元に目をやっていると、突然後ろから声をかけられる。
振り返ってみると、予想通りとも言うべきか。
「びっくりさせないでくれよ」
ひょうきんな様子を装い、過去に浸る彼を現実へ引き戻した本人へ言葉を返す。
その本人と言うのは彼の大学の同期で、同じ学部だったせいかちょくちょく顔を合わせる友人だった。
彼女は同期なのだが、彼の誕生日を知ると敬語を使うようになった。
彼が浪人していたというわけでもない。なにかしら勘違いをしているのかもしれないが。
「その時計、大切にされてますよね。学生だった頃からまるで輝きを失ってない」
興味ありげに時計をまじまじと見ながら、溜息を吐くようにそう呟いた。
普段の彼なら大切にしているという趣だけを伝え、他は何も言わないだろう。
彼は何にしても謙虚だ。これはどのくらい価値があるものだよ、とか、余計な事は身を滅ぼすことだと考えている。
「つまらない男」。もう一つの"自慢"は、そう言い残して彼の元を去った。

彼女ともう一つの"自慢"とは直接的な関係はないが、彼は彼女に何回かその事で頼っている。
関係の劣悪、些細な理由で度々起こる彼が心を休められたのは、彼女の元だった。
「この後は何も無いよ」
彼は捨てられる悲しみを二度と味わいたくなかった。
だからこそ、ここは「大切にしてるんだ」と言うべきだった。
自分の投げかけた言葉が通り抜ける感覚を、誰よりも理解しているはずだった。
彼女はうっすらと笑みを浮かべながら彼と向き合う。
「それならこれから一緒に…」
と、彼女が言いかけたところである異変に気がついた。

彼が泣いているのである。

このページについて
掲載号
週刊チャオ第306号
ページ番号
1 / 5
この作品について
タイトル
Once in a Blue Moon
作者
Sachet.A
初回掲載
週刊チャオ第306号