第四話 寝床
昔々、この地上には神様がいました。
危機に気づいていた神の子によって、神の子たちはまた集められました。
事態が緊迫していることに、神の子たちも感じ始めていました。
ですが、自分の力が信じられていない神の子がいました。
その子の頭には、空を飛べない日々のことがこびりついているのです。
そこである神の子は、その子に自分の力を信じさせようと動き始めたのでした……。
日が山に沈み始めていた。昼間の空に浮かんでいた雲は流れていき、西の空から橙色の光が差していた。霧はいつの間にか晴れていて、この小さな町がスポットライトを浴びているようだった。この照らされた町を、山のどこかから殺人鬼が見ている。何もかもをさらけ出しているようで、僕は落ち着かなかった。宿に向かっているという状況が悠長に感じられ、それが逆に焦燥感を煽った。
宿の場所はソニップが知っていた。着いてみると、そこは古風な平屋建ての旅館だった。兵士がぞろぞろと来たものだから、女将さんは不安そうにしていた。部屋は四部屋あって、すべての部屋が空いていた。畳が敷かれた、意外と広い部屋だった。部屋割りは、僕とマッスレとソニップ、隣の部屋にジョンさんとエイリオとナイリオ、その向かいの部屋に兵士四人となった。最初にジョンさんの部屋に全員集まり、話し合いをした。ジョンさんはこう切り出した。
「お疲れ様。もう今日はできることもない。強いて言うなら、ここを襲われたときに撃退するくらいだ。あとは各町に配備された兵士に任せよう。ちなみに、このエンペラシティにも私たち以外に兵士が配備されている。だから、もう今日はゆっくり休もう。明日、嫌でも動かなければいけなくなるからな」
「そうだな。ナイチュもエイリオもちょっと緊張しているように見えるけど、今日は休むことに専念したほうがいい。殺人鬼のことはおそらく大丈夫だ。山で比較的有利に誰かを襲う機会があったのにも関わらず襲わなかった。それに、体力だって消耗したはずだ。今日はもうどこも襲わないだろう。襲ったとしても、ジョン隊長の言うとおり、兵士たちに任せよう」とソニップさんも言う。
それからは各部屋に別れ、夜ご飯に米やきゅうりの漬物、刺身にお吸い物に茶碗蒸しを食べ、露天風呂に入った。ここではタイミングよく全員集まった。僕以外の人は全員筋肉のついた強そうな体で、僕だけ子供のような体だった。仕切りの向こうでエイリオとナイリオも風呂に入っていた。マッスレが仕切りに隙間がないかと探していたけど、結局なかったようでその後は湯に浸かっていた。マッスレは相変わらず饒舌で、兵士たちとも談笑していた。みんな、リラックスしているように見えた。旅館と露天風呂を繋ぐドアのそばに立て掛けてある銃と剣だけが場違いな雰囲気を放っていた。ジョンさんに、女湯は誰が守るのかと聞いたら、旅館の周りにも兵士を配備したと答えられたので、ひとまず安心した。
部屋に戻ってからは、マッスレとソニップと談笑をした。スポーツの話や、子供のときの話など、本当になんてことのない話であった。でも気づいた頃には、僕とエイリオの関係を二人が聞きだすような形になっていた。話の中で、僕はエイリオのことを好きだと言った。二人はにやつきながら聞いていた。エイリオのことは昔から好きで友達の間では有名な話であったが、改めて聞き出されると恥ずかしかった。
「じゃあ俺がエイリオと話してたとき、嫌だったか?」とマッスレが言う。
「嫌と言うか……」と僕は口ごもる。
「いいぜ、正直に言って」とソニップ。ソニップの優しげな表情を見て、もしかしたら気づかれてるかもしれないと思い、僕は正直に話した。
マッスレは強いからエイリオを守ることができて、それからエイリオと仲良くなった。僕は弱いからエイリオを守ることなんてできない。だから、二人が仲良く話してるのを見るのは、自分が無力なのを思い知らされてるようで辛かった。そういったことを言った。ソニップはすぐに「そんなことは全然気にしなくていい」と言った。
「そんなもんは運の問題だ。戦える人間なんて元々多くもないし、俺たちだってたまたま戦える人間になる機会があったからなれただけだ。運の問題で悩んでいたってしょうがない」
「そうそう。まあ、確かに好きな人を守れないってのは悔しいかもしれないけどな、エイリオに対してできることは他にもあるだろ」
二人のいうことはもっともなことだった。それに、励まそうとしてくれる姿勢が嬉しかった。でも、理解はできても僕自身の弱さを受け入れたくなかった。わがままに、強さを手に入れたかった。きっとそれしか僕の恐怖にも似たわだかまりを取り除くことはできないのだ。
今日も空を飛べなかった、とはさすがに思えなかった。それ以上に今日という日は僕の頭を支配していた。避難をするのかと思ったら家で待っていてくれといわれた、エイリオと共に殺人鬼に指名されたと告げられた、町役場で護衛の兵士と挨拶をした、サンシティまで歩いた、サンシティのサンホールでたくさんの人や、直前まで動いて喋っていたポール隊長も死んだ、殺人鬼と出会った、色々な人とまた歩いた、エイリオが怒ってはぐれた、殺人鬼とまた遭遇した、旅館で二人に励まされた。本当に色々なことがあった一日だった。何かが起こる度に、僕の感情も大きく動いた。今もまだ、もやもやしている。
窓側に向かってマッスレ、ソニップが寝ている。僕は一番廊下側だ。なんとなく予想はしていたが、マッスレはすでに何度か寝返りを打ってひどい体勢になっている。ソニップは意外にも体勢がずっと変わっておらず、綺麗な体勢だ。僕はと言うと、眠れずに何回も体勢を変えていたところだった。もちろん今日と言う一日のせいでもあるが、障子が明るいせいと、旅館の布団が体に馴染まないせいでもあった。
休んだほうがいいと言われてはいたが、眠るのはもう諦めていた。時計は十二時を指していた。僕は立ち上がり、マッスレとソニップを避けて障子の方へ歩いた。部屋は畳が敷いてあるが、障子の前だけフローリングになっていて、小さなテーブルと、その両側に椅子が向かい合うように置かれている。僕はその椅子に座り、障子を少し開けてその隙間から見える庭の一部を眺めていた。縁側と、庭に敷かれた砂利と、植えられた小さな木が少しだけ見えた。物足りない気がして、窓の外に出て縁側の真ん中に腰掛ける。すると空間を持て余している気がして、端っこに腰掛け直した。外の方が涼しかった。思ったほど綺麗な光景ではなかった。砂利の間に土が見えていたり、木の根元に砂利が散らかっていたりした。木もなんだか不格好だった。空だけが綺麗だった。
体が疲れていた。何も考えず、目を瞑って下を向いた。うとうとするわけでもないが、目を開けるのが億劫になってそのまましばらく自分の呼吸の音を聞いていた。周りは静かであったが、耳を澄ますと露天風呂に誰かが入っているような音が聞こえた。こんな時間に誰だろうか。エイリオが露天風呂を気に入ったのだろうか。それか、僕たちの後に旅館の利用客が入ってきたのだろうか。でも、考えるのも面倒だったので、音だけを僕は聞いていた。
しばらくすると、今度は静かに砂利を踏む音が聞こえてきた。僕の方に近づいてきている。どうやら露天風呂に入っていたのはエイリオだったようだ。足音は僕の隣で止まり、その主は僕の隣に腰掛けた。シャンプーの匂いと、女の匂いがした。
エイリオ、眠れないの? と僕は言おうとした。でも、先に喋ったのは彼女の方だった。
「ごめん、目を開けて、静かにして」
その囁き声はエイリオのものじゃなかった。ぞっとして、目を開けて隣を向くと、フードつきの黒いマントを羽織ったあの殺人鬼がいた。僕は驚くだけで何もできなかった。逃げようとすることもできなかった。
「ごめん、違うの、驚かないで、落ち着いて」
殺人鬼の様子もおかしかった。両手を顔の前に広げて、懇願するような表情で、静かに喋った。マントを脱いで、何も持っていないことも証明して見せた。マントの下は、変なキャラクターが描かれた紺色のトレーナーを着ていた。前までの彼女のイメージとは全然違っていた。髪は濡れていた。顔は少し赤みを帯びていて、首にタオルをかけていた。言うなら、生活的な印象だった。
「本当はこんなつもりじゃなかった。でもナイチュがここに座っているのが見えたから、話しておこうと思って」
なんだかエロチックだった。髪が濡れていて、顔が赤くて、囁き声で話されるだけで、こんなに扇情的に見えるとは思わなかった。そういう作戦なのかもしれないと疑ったが、そのメリットは何も思い浮かばなかった。それに、彼女に名前を呼ばれるのに抵抗がなかった。どうしようか、ソニップを呼ぶべきなのだろうか。いや、もし彼女が殺意を持っているのならソニップが駆けつける前にやられる。どちらにしても、僕はどうしようもない。話してみよう、と思った。
「旅館の周りの兵士はどうしたの?」
「そんなに多くなかったから、まあ間をくぐり抜けて」
「フードとマントについてた血は?」
「これは代えを圧縮して持ち歩いてるから。血がついたのは山に捨てた」
「お風呂入ってたの?」
「うん、バレなさそうだったから。私も今日は疲れちゃった」
彼女は笑顔も見せた。よく知った人と話しているようだった。彼女も僕が安心したのを見て、安心したようだった。こうして見ると、僕とあまり変わらないくらいの歳の女性だった。
「名前は?」
「ルル・クル。聞き覚えがない?」
聞き覚えがあるような気がした。でも、どこで聞いたのか、思い出せなかった。
「なんとなく」
「うん。そっか。そのことも含めて話があるんだ。昔々の話。聞いてくれる?」
「うん」
ルルが一つ深呼吸をして、話し始めた。