第一話 空からの旅立ち
昔々、この地上には神様がいました。
神様は純粋な心とたくましい力を持ち、神様自身と同じ種族である“チャオの幸せ”を何よりも願っていました。
そんな神様にも、ひとつ悩みがありました。
神様と特別親しい“神の子たち”と呼ばれる子の中に、空を飛ぶことができないと悩む子がいたのです。
神様はその子をひどく気の毒に思い、彼が空を飛べるように、と祈ったのでした……。
今日も空を飛べなかった。ベッドからもう星が数え切れないくらいに出てしまった空を見て、僕はそう思った。
どうして人は空を飛べないのだろう。人は走ることも泳ぐことも、はたまた崖を上ることもできるというのに、空だけ飛べないのは変な気がした。これだけのことができるのなら、無根拠に空を飛べたっていいだろう。そんなことを思っては、僕はいつも外に出ると人目のない場所を見つけて空を飛ぼうとしてみる。当然飛べるはずはなく、跳ねたり爪先立ちしたりするだけで終わってしまう。人がそれを滑稽と見るのはわかってるのだけど、夜にベッドの中で思い浮かぶのは自然に空を飛ぶ自分だった。そのイメージを頭に浮かべながら空を飛ぼうとすれば、いつか本当に飛べると信じていた。それからはもう十五年も経っていた。
その中で、僕が飛ぼうとする姿を人に見られたことが二度だけあった。一度目は、まだ空を飛べると思い始めた頃に、家の前で人目を警戒しないで飛ぼうとしていたところを近所に住む幼馴染のエイリオに見られたのだ。エイリオは間抜けな僕の姿を見て大笑いをした。僕は怒って、
「空を飛ぼうとしてただけなのに!」と言ったら、
「人はお空を飛べないんだよー」と返され、僕はとてつもなく恥ずかしい思いをしたのだった。子供ながらに、女の子にばかにされるのは嫌だったのだ。でも僕は未だに思う。夢を叶えようとすることの何がいけないのだ。
それから僕は絶対に人目につかないように、空を飛ぼうとしているのだった。だがそれでも結局、二度目はやってきた。これは割と最近の話だ。僕の家は森の中にある。その森の中には、木が生えておらず芝生だけが生い茂っている空間があって、僕はいつもそこで飛ぼうと試みている。その日も僕はそこで飛ぼうとしていた。一瞬バイクの音が聞こえてそちらの方向を見ると、バイクを押して歩いてくる人がいた。僕は音に気づいたときには飛ぼうとするのをやめていたのだけど、彼には僕の飛ぼうとしていた姿が見えていたようで、
「空を飛ぼうとしてるのか?」
と言った。僕は赤面し、何と言っていいのか悩んでいると彼は、
「そんな恥ずかしがることじゃないぜ。夢を叶えようとすることの何がいけないんだ」と言った。その言葉に僕はただ衝撃を受けた。初めて自分以外に僕の夢を肯定してくれる人が現れたのだ。
「それに、俺だって人目を気にせず自分の足で走り回ったりするんだぜ。バイクよりも早く走れる気がしてな」
その人は余裕のある笑みを見せながらさらりと言った。僕はその人との絶対的な差のようなものを感じて、何も言えずにいた。
「邪魔して悪かったな。仕事に戻るよ、じゃあな」
そういうとその人はバイクを押して走っていき、道にバイクを走らせた。その時にバイクについているエンブレムが見えて、あれ、と思って少し考えると、それが国の調査兵のものであることを思い出した。調査兵の中にはソニップという有名な人がいて、色々な場所をバイクで駆け回っているらしい。僕と大して変わらない年齢でありながら調査兵機動隊の隊長で、人当たりがいいらしい。僕は彼のことを詳しくは知らないのだけど、多分今の人がソニップさんなのだろうと僕は思った。そのあと奮起してまた空を飛ぼうとしてもよかったと思うのだけど、自分が肯定されたのが気恥ずかったのと、むしろソニップさんとの態度の差に脱力してしまい、その日は家に帰ってしまった。
それからも僕は人目につかないように空を飛ぼうとしている。人に見られるとばかにされるというのはきっと事実であって、やっぱり僕はソニップさんのように恐れ知らずにはなれなかった。でもソニップさんだけになら見られてもいいかな、と思って、ソニップさんに見られた日以上の警戒はしていない。ソニップさんが姿を見せたのはあの日だけだったし、この辺りをたまたま調査しに来ただけなのかもしれないから警戒を解く必要はないのだけど、それでも少し警戒が緩むのは他人に僕の夢を示したい気持ちが少しでもあるからだった。
もう一度僕は夜空を見て、まだ今日を諦めるのは早いと思った。夜になったからといって空を飛べなくなったわけじゃない。僕は夜空の中を飛んでいる自分をはっきりとイメージできる。そして、いつもそれと同時に思い浮かぶのは、水色のもやもやとしたシルエットと緑色の目。そんなものは知らないはずなのに、どこか懐かしくて、心が安らぐ。そんな安心感の中、僕は今日も夢の中へ沈んでいった。
ソニップさんと再会したのは、隣町で殺人鬼が現れた次の日だった。湿った空気の、曇った日だった。ソニップさんは調査兵を何人も連れて、近辺の住民に避難を促しにやってきていた。普通殺人が起きたくらいでは避難なんてするはずがないのだけど、今回の殺人は規模が違った。被害者は数百人にのぼり、被害者全員が死亡している。目撃者はなし。見境なしに、でも確実に人を殺す、今までテレビで報じられたような殺人とは次元が違う殺人であった。隣町では被害に遭わなかった人がいくつかの施設にまとめられ、そこには国の兵が配備された。近隣の町でも同じように、住民は施設に集められた。だから、そのためにソニップさんは僕の家へと足を運んだのだと思った。でもソニップさんは僕に向かって、
「少し家の中で待っていてくれ」
と言って、他の住民の避難の誘導をしにいってしまった。明らかにその行動は不自然だったし、この後普通じゃないことが起きると思わざるを得なかった。仕方なく椅子に座って机の上を眺めていると家のドアが開く音がして、びくりとそちらを向いた。しかしそこにいたのはソニップさんではなくエイリオであった。エイリオも僕の同じなのか、と緊張のような安心のような奇妙な心持ちになった。エイリオは「なんで」と言って、僕に近づいてきた。エイリオの次の言葉を待つまでもなく、エイリオは喋り始めた。
「さっき、ナイチュの家にソニップさんが入っていくのが見えたのに、家から出てきたのがソニップさんだけだったから心配になって来たんだ。何で避難しないの」
捲くし立てるように喋るエイリオを落ち着けて、近くの椅子に座らせた。僕も落ち着いてはいなかったけど、興奮気味のエイリオを客観的に見たということと、あの人がやっぱりソニップさんだったんだという、別の発見があったせいで少し落ち着くことができた。
「僕は少し待っていてくれって言われた。それよりエイリオの家には兵士は来なかったの?」
「ウチに兵士が来る前にソニップさんがナイチュの家から出てきたから、上手く兵士の目を避けてここに来たんだよ」
僕はその言葉を聞いて、言葉に詰まった。僕が異常な事態に陥っているのはわかるけど、エイリオは違う。本来なら兵士に誘導されて避難していたはずだ。兵士にエイリオがまだ避難していないことを伝えて、誘導してもらうべきだ。でも、僕は何も言い出せない。エイリオに傍にいてほしかった。
ドアがまた開いて、今度こそソニップさんが現れた。ソニップさんはエイリオの姿を見て、明らかに驚いた表情をした。でもソニップさんはすぐにいつも通りのどこか余裕のある表情になって、
「丁度よかった。ナイチュとエイリオに話したいことがあるんだ」と言った。
僕は驚いた。エイリオも驚いていた。僕だけではなく、エイリオも既に巻き込まれてしまっていたのだ。
「簡単に話そう。俺たち調査兵機動隊のところに、殺人鬼からメモが届いた。そこに書いてあったのは『ナイチュ・フライズとエイリオ・スイミーをサンシティ経由でムーンシティに向かわせろ。』だ。一応聞くが、心当たりはあるか?」
僕たちは首を横に振った。殺人鬼が僕たちのことを知っているというのは、恐怖でしかなかった。僕には通り魔と僕たちの間にあるものが何なのか、まったくわからなかった。理由はわからないが、僕たちが個人的に命を狙われている可能性だって低くなかった。
「だよな。そんな怪しいところがあるようには見えない。俺たちにも今回の事件はわからないことが多い。そこで、本当に悪いんだが二人にも協力してほしいんだ。サンシティ経由でムーンシティまで行ってきてほしい。今手がかりになるものはメモだけで、キーはナイチュとエイリオしかいないんだ。もちろん、サンシティもムーンシティも避難が行われているから、兵士たちもいる。二人の近くに自衛兵もつける。そこには俺も入る」
俺も入る、その言葉に少し惹かれた。何でなのかわからないけど、ソニップさんを見ていると安心する。軽い調子で話しているように見えるけど、信頼できる。ソニップさんが一緒にいる中で、僕たちがムーンシティまで行くだけで事件が解決するのなら、引き受けても良いと思えた。それに、ちょっとした冒険心も湧いてきた。でも僕の冒険心にエイリオを巻き込むわけにはいかない。
「エイリオ、僕が一人で行くよ。一人といっても、兵士の人もいるんだけど」
「いや、あたしも行く。一人で残されるほうが不安だし、ナイチュが心配だよ」
そんなことを改めて言われると、恥ずかしかった。でも、嬉しかった。そして断る理由はなくなった。
「よろしくお願いします」