話 ガーデ ー
第三 ン・ヒ
ステーションスクエアから吹いてくる風は冷たい。
体感温度と世界の明るさは比例する。
太陽が照りつける猛暑日だって、冷たい風が吹いた瞬間に熱は和らぐ。
まるで太陽が遠くへ離れていってしまったように暑さは消えて、世界は急に薄暗くなる。
死んだ町が僕たちに手招きしている。
どれだけ太陽が再び酷暑を作り出そうとも、僕たちの体は冷えていて、世界は少し暗くなったままだった。
今年は海水浴客が少なかったとニュースが言っていた。
秋になれば、いよいよ冷たい風は深刻さを増す。
風によって凍える日々がもうじき始まる。
ただ凍えるばかりだ。
ステーションスクエアは凍り付いている。
多くの人が姿を消して、ステーションスクエアはまるで自らの死を主張するかのように凍てついた。
凍てついたステーションスクエアはとても人の住める場所ではなかった。
だから人はますますステーションスクエアから逃れていった。
彼らは新しい場所へと旅立った。
そして彼らは変わった。
かつて暮らしていたステーションスクエアの文化を捨て、その地にいたことを忘却したかのように新天地での生活を送っていた。
それが「生きる」ということなのだ。
人々は転生し、新たな人々になった。
転生は、かつての姿を残すとは限らない。
空を飛ぶのが好きだったナイツチャオも転生して飛べなくなることがある。
かつて自らが空を飛んでいたことさえ忘れて。
それが「生きる」ということであり「転生」だ。
郷愁に囚われて共に凍てつこうとする者などは、死んでいると言った方が相応しいのだから。
僕は凍てついたステーションスクエアから離れることができなかった。
そこから吹いてくる冷たい風を浴び続けた。
かつてステーションスクエアにいた人々は、その風を感じていない。
新天地に馴染むことで、その地の暖かな寝床に眠るからだ。
だから、この冷たい風は僕だけのものなのだ、と僕は思った。
この風は僕のもの。
なら、ステーションスクエアを凍らせたのも僕なのかもしれない。
誰もいなくなったステーションスクエアで、本来は自分のものではない責任を僕は手に取り、弄んでいる。
そうだ。
僕はステーションスクエアの中心人物として、なにもしてこなかった。
ナイツチャオたちが飛ぶことを忘れる前にカオスチャオにしてしまわなければならなかった。
永遠を生きるカオスチャオ。
僕はそれをとても美しいと思う。
だけどナイツチャオたちはどう思うだろうか?
たとえば僕が彼らをみんなカオスチャオにしたとして、彼らはカオスチャオの姿を気に入ってくれただろうか?
永遠に飛び続けたいと思ってくれただろうか?
それともナイツチャオたちは言うのだろうか。
転生して別の生き方をしたかったと。
僕には想像ができない。
だって僕にはカオスチャオがとても美しく見えるから。
とても美しいのだからカオスチャオになればいいとしか思えない。
なのに、カオスチャオになろうとするナイツチャオはいなかった。
みんなは転生した。
だからステーションスクエアは凍った。
カオスチャオはどこにもいなかった。
カオスチャオの記念日を知る者ももはやいない。
『「ライカ記念日がよかね」ときみが言ったから十二月二十三日はライカ記念日記念日』
本当は、こんな空想には意味が無かった。
なぜなら僕にはナイツチャオをカオスチャオにする力は無かったから。
僕は、冷たい風を僕だけのものと勝手に認識して、その上でステーションスクエアすら支配していると思い込んでいるだけなのだ。
現実には、ステーションスクエアは僕のものじゃない。
「やあ。元気だったかい」
ステーションスクエアの風の吹く場所。
カオスチャオが僕に言う。
「やあ。元気だったよ。もちろんね」
僕はそう答える。
「聞くまでもなかったか」
カオスチャオは笑う。
僕も微笑んでうなずく。
「聞くまでもなかったさ」
カオスチャオは不変。
それと同じだ。
同じだから僕はステーションスクエアから離れずにいる。
僕は転生をしていない。
「じゃあ聞くまでもある質問をしようかな」
とカオスチャオは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
カオスチャオは普通のチャオより表情が薄くて判別がつきにくいが、僕はそれに慣れた。
声の感じでもわかる。
「またなにか変ななぞかけを覚えてきたのか?」
「有名な命題さ。トロッコに五人の人が乗っている。しかしトロッコの向かう先には大きな岩があって、このままではトロッコは岩に衝突し、乗っている五人は死んでしまう。だが君の傍にレールの切り替えスイッチがある。このスイッチを押せばレールは切り替わり、五人は助かる。でもその代わりに、切り替わった先のレールに立っている一人の人が死んでしまう。君は、その一人を殺すことになっても、レールを切り替えてトロッコの五人を助けるかい?」
「僕はスイッチを押さないと思う」
あまり考えずに僕は答えていた。
でも、きっとスイッチを押さないだろうという確信だけはあった。
「それはどうしてだい?」
とカオスチャオに聞かれて、それで僕は理由を考え始める。
「スイッチを押すという行為によって、自分がその問題に関与してしまうから。自分の決断によって、一人が死んでしまうことになるから。でも見て見ぬ振りをしてスイッチを押さずにいれば、五人の死と自分は無関係になれる」
「罪の意識から逃れられる、というわけだね」
なるほどね、とカオスチャオはうなずく。
「あるいは、スイッチを押さない方がより多くの人生を狂わせたことになるから」
「なに?」
「一人よりも五人死んだ方が、より多くの人生が狂ったことになるよね? だからスイッチを押さないのかもしれない」
「待ってくれ。どっちだい? 君は、責任を持たないためにスイッチを押さないのか? それとも、なるべくたくさんの他人の人生を狂わすためにスイッチを押さないのか?」
僕は首を横に振った。
どっちが本当の理由なのか、僕にはわからなかった。
僕は責任を取りたくなかった。
僕は他人の人生を狂わせてしまいたかった。
僕が本当にしたいことはどっちなのだろう?
「ただ、その問題の場合はスイッチを押さないことでどちらも満たされるから。だから僕はスイッチを押さないと思う」
カオスチャオはしばらく考えた。
頭上の光が長いことクエスチョンマークになっていた。
「君はさ……」
その声色が非難めいたものになってしまって、カオスチャオは口を止めた。
首を振り、改めて言い直す。
興味本位で尋ねる声で。
「君はさ、他人の人生を狂わせてどうしたいの? 他人を苦しませる? 自分と同じように?」
「僕は人生を狂わされた人生しか知らないんだ。その素晴らしさと苦しみは知っている。だからみんなも同じふうになればいいと思うだけだよ。そうすれば寂しくない。ステーションスクエアの風も温かくなる」
「それは無理だよ。ステーションスクエアの風が温かくなることはない」
ステーションスクエアから吹いてくる風は冷たかった。
死んだ町が僕たちに手招きしていた。
そうか、と僕は理解した。
かつてナイツチャオだったチャオたちは転生した。
けれど彼らはもう何度転生したって、カオスチャオになることはないのだった。