3話 熱く濡れる
今日も冷たい風が僕を氷漬けにしたがっている。
ステーションスクエアの近くのこの町もじきに凍ってしまうのかもしれない。
きっとこの世界は長持ちしない。
生命の温度が奪われていく実感を、僕は味わっていた。
ステーションスクエアでマユカと会ってから、三日が経った。
氷を壊すことに意味はあるのだろうか。
マユカの奇行は結局なんの意味もないのではないかと僕は思い始めていた。
この町にステーションスクエアの風が吹くことに変わりはない。
僕たちが彼らのように死ぬ日は近い。
そんなふうに絶望感の膜に心身を巻かれているのは、僕だけではないようだ。
学校に行ったら、クラスで六組目のカップルが出来ていた。
この頃、よく男女がくっ付いている。
六組目の男女が、教壇に立っていた。
朝のホームルームの前だった。
二人はクラスメイトの注目を集めて、囃し立てる声を嬉しそうに浴びていた。
「私たちは」
「俺たちは、たとえこの町が凍ってしまったとしても、永遠に二人一緒にいることを誓います」
そして二人は誓いのキスをした。
大きな拍手が起こる。
ヒュウヒュウ、と誰かが口笛を吹く。
まるで結婚式だと僕は思った。
一応は拍手をしておいてやる。
「ねえねえ。インクくん」
隣の席の羽島リコが顔を寄せて小声で話しかけてきた。
すぐ近くで見るとリコの眼鏡はつるの部分だけ桃色で、長い髪の毛は彼女の動きにとても従順に付き従っていた。
「なに?」
「聞きにくいことを聞いてもいいかな?」
教室が騒がしくなっているのにリコは声を小さくしていて、聞き取りにくい。
僕は返事をする代わりに、耳をリコの口に近付けた。
「ステーションスクエアに、好きな人っていた?」
だいぶ無神経な質問だった。
僕のような人に普通、聞くか?
だけど色恋の話をするにしては、あまりにも関心のなさそうな声色をしていた。
正直リコの思惑とテンションが読めない。
「いないよ」
と僕もリコのテンションに寄せて答えた。
「えっ、そうなんだ。意外」
「意外?」
「ん。だってなんか、その人に操を立てたりしてるのかと思ったんだもん」
「操って。妙なことを」
それにしても、学校で会話をするのは久々だった。
やっぱり良い感触はしない。
どちらかと言うと不愉快だった。
「だってインクくんっていつも、魂をどこか別の場所に置いているような雰囲気してるじゃん」
「と言うか、普通そんなこと聞かないでしょ。無神経じゃないか?」
桃色の眼鏡と従順な髪と共に、リコは僕からすっと十五センチ離れた。
「それはごめん。でも答えてくれてありがとうね」
「どういたしまして」
「ところでさ。今日、放課後一緒にチャオガーデン行かない?」
「は?」
どうしてチャオガーデンと彼女は言ったのだろう。
僕が学校をサボった時にはいつもチャオガーデンに行っていることを、まさか知っているのか。
まるで急所を掴まれたような感じがして、僕の頭は白んだ。
それともただのまぐれ当たりなのか。
「今日、マユカさんいるってさ」
「マユカって、なんでそいつのこと」
「私、チャオ飼ってるんだよね」
「この子が私のチャオ。ヘルメタルっていうんだ」
ヘルメタルはヒーローハシリチャオだった。
放課後僕たちは一度リコの家に寄って、ヘルメタルを回収してからチャオガーデンに向かうことになったのだった。
リコはよくチャオガーデンに行っているらしい。
家にはヘルメタルしかいないから、他のチャオと遊ばせるためにチャオガーデンに通っているのだと彼女は言った。
そこでマユカとも知り合いになり、そしてマユカから同じ学校、同じ学年にインクって人がいるはずだと話を聞いていたのだそうだ。
僕たちはマユカの話をしながらチャオガーデンに向かった。
「そんでマユカさんからインクくんのこと聞いたんだよ。学年どころかクラスも一緒じゃんって思って。しかも隣の席でしょ。話しかけるチャンス、狙ってたんだよね」
「なんでマユカは、僕には教えてくれなかったんだろう」
「さあ。たぶん、インクくんが知っても、私に話しかけそうになかったからじゃない?」
リコはヘルメタルを抱っこしていた。
そして僕はリコの通学鞄も持たされていた。
両手にそれぞれ鞄を持ち、同時にぶらぶらと前後に振りながら歩く。
「確かにそうなんだけどさ」
「でしょ?」
リコは急にスキップのような歩き方を一瞬だけしたかと思うと、楽しげに歌い出した。
錯覚の永久機関を
持って生まれてきたんだ
あなたが愛したものは死なない
ものすごく聞き覚えのあるサビだ。
「チャオチャオ~♪」
ヘルメタルの頭の上の輪が、ハートの形に変形する。
けっこう喜んでいる様子だ。
「それ、マユカがいつも歌ってる歌だよな」
「うん。いい曲だなって思ったから、お母さんに曲のデータ、コピーさせてもらった」
「やっぱ有名な曲なんだな」
「お母さんの世代で知らない人はいないって、言ってたよ」
「へえ。そうなんだ」
強風が吹いた。
冷たい風が僕たちの真正面から吹いてきた。
片目をつぶって、吹きつける風に耐える。
ステーションスクエアからの冷風だった。
ヘルメタルのハートも萎んで、天使の輪に戻る。
「暖かいところがいいなあ」
「チャオ~」
ヘルメタルを中心にして、リコは体を縮めていた。
そしてヘルメタルもリコと語尾を同じ調子にして、寒さを訴える。
「インクくん、急ごう。チャオガーデン」
「チャオチャオ!」
ヘルメタルも急げと言っているみたいだった。
リコは小走りになる。
それを追って、僕は両手の鞄を思い切り前に振る。
鞄の重さに引っ張られるその勢いで僕も走り出した。
チャオガーデンに着くまで、五分くらい、リコは走り続けた。
まさか止まらないとは思わなかった。
僕たちは息を切らし、汗をにじませて、チャオガーデンの建物に入る。
「いらっしゃい。どうしたの」
おばちゃんがびっくりした顔をして、受付から出てこようとする。
「ちょっと、走ってきただけ」
と僕は答える。
「走る、どうして走ったのよ」
「どうしてかな。強いて言うなら、風が吹いて、寒かったから?」
「もう、なにやってんのよ。二人して。って二人一緒なのね、今日。珍しいじゃない」
「チャオ~♪」
唯一走っていない、抱っこされていただけのヘルメタルが元気だ。
おばちゃんに向かって両手を伸ばす。
その手をおばちゃんは握る。
「はい、こんにちは。この子は今日も元気そうね。風邪とか大丈夫?ひいてない?」
「チャオ!」
「すごく、元気です」
リコの顎から汗の大きな雫がヘルメタルの頭に落ちた。
「チャオ~?」
ヘルメタルは自分の頭に落ちた液体を触る。
天使の輪はクエスチョンマークに変形している。
クエスチョンマークの曲線がリコの頬を押すので、リコはボクシングのスウェーみたいな体勢をして頭を後ろに引く。
ヘルメタルは手に取った無色透明な液体を舐めた。
「ン~?」
リコの汗だとわからなかったみたいだ。
クエスチョンマークがなかなか元に戻らない。
僕たちは息を切らしたまま、ガーデンの中に入った。
走って熱を持った体はガーデンの温風に包まれて、追い打ちだった。
「暑いなあ」
リコはうんざりとした声を出しながら、ヘルメタルをガーデンの芝生にそっと置いた。
ヘルメタルは楽しげに走り出した。
「なんで走るかね」
ぼやいて、リコは芝生の上に腰を下ろした。
「あ~~。死ぬほど暑い」
「同感」
こんな時にマユカが氷を押して洞窟から出てきてくれないかと、僕は池の方を見た。
というか、暑いなら池に行けばいいじゃないか。
気付いた僕は、
「なあ、池行こうぜ」
と座ったばかりのリコの腕を引っ張り立ち上がらせた。
「なるほど、池」
するとリコはさっきまでとは段違いの全速力で池へと走った。
また僕もリコを追って走ることになる。
リコは止まらなかった。
靴や靴下を脱がずに池に入った。
それどころか、
「いやっふぅぅぅぅ!!」
と前のめりに倒れて全身を濡らした。
「なにしてんだお前!?」
「超気持ちいい!」
池の中で半回転して僕の方を向き、リコは叫んだ。
制服がずぶ濡れになってしまっている。
髪の毛の先やメガネの縁からぼたぼた水滴が落ちる。
「いや、なにしてんの」
「インクくんも来なよ。冷たくて気持ちいいよ」
「僕はそんな羽目の外し方はしないんだ」
僕は靴下まできちんと脱いで、スラックスをたくし上げて、足だけ池に入れる。
「ってか、そんなびしょ濡れになって、どうするんだよ」
「ん~。知らない。ま、どうにかなるでしょ。そっちこそ暑くないの?」
リコはずれた眼鏡を直し、濡れた指でレンズを拭いた。
もちろん指が濡れているのだから、レンズも濡れたままだ。
「暑くても、お前みたいなことはしないよ」
と僕は呆れた気持ちを込めて言った。
まさか彼女がこんなことをするとは思わなかった。
眼鏡を掛けているし、クラスでは物静かなタイプだし、それに、次々と出来るカップルではなかった。
「ううわ、リコちゃんどうしたの」
洞窟からマユカが出てきて、ずぶ濡れのリコに衝撃を受けていた。
「どうもどうも。全然大丈夫です」
とリコは笑う。
当人はわからないのだろうが、笑顔を見せられても、その顔にかかっている眼鏡が濡れていて表情に信ぴょう性がない。
「大丈夫そうには見えないけど」
「うん、大丈夫ではないよ」
と僕は言った。
「こいつ、馬鹿なんだ。ここまで走ってきて暑いからって、飛び込んだ」
「だって暑かったんだもん」
もはや濡れっぱなしになろうとしているようにしか思えない。
リコは池の中に入れていた手で自分の髪を撫でた。
「我慢しろよ、暑いくらい。寒いよりはいいだろ」
「嫌だ。寒いのも暑いのも、どっちも我慢したくない」
馬鹿でしょう、と同意を求めて僕はマユカを見た。
だけどマユカは嬉しそうな顔をしていた。
「そういう気概は大事だよね」
なんてマユカは言う。
「でも濡れたままじゃ家帰れないでしょう。着替えな。その服も、乾かそう」
「はあい」
とリコは池から上がる。
そしてマユカに連れられて、洞窟に入った。
相手がいなくなって暇になった僕は、
「ヘルメタルー、ホウカー」
とチャオたちを呼んでみた。
すると僕の呼びかけに気付いたヘルメタルとホウカが並んで走ってきた。
どうやら二匹で一緒にいたみたいだった。
「お前たち、仲良いんだな」
「チャオ!」
と二匹の声が合った。
二匹をそれぞれの手で同時に撫でてやる。
二匹の頭の上に浮かんでいるものも同時にハート型に変わった。
深く愛されたチャオは転生する。
チャオがチャオを転生させることがあるのだろうか、と僕はふと疑問に思った。
たとえば恋人同士、もしくは家族として愛し合うことで、転生するほどの愛を与えたり与えられたりすることが、人がどうこうしなくても起こり得るのだろうか。
「チャオだったら、凍った世界の中でもひっそり生きていけたりしないもんかな?」
「チャオ~?」
ヘルメタルは頭上のハートをクエスチョンマークに変えた。
ホウカの頭の上はトゲトゲに戻り、ホウカは僕の真意をうかがうように僕を見ていた。
「いやさ、お前たちだけでも生き残ってくれれば、こんな世界にも何か意味が」
この言葉はチャオには理解できないだろう。
そんな安心が僕に独り言のようなことを言わせたのだが、自分の言っている言葉の意味することに気が付いて、僕の口は停止した。
「俺、お前たちにかなり勝手な期待をしてるな」
とクエスチョンマークのままのヘルメタルを撫でてやる。
「自分たちが死んでも、お前たちが生き残って、それでこの地球は凍り付いてもそれでも平和な世界であり続ける。なんてことを僕は考えているんだ」
勝手な期待をして。
それをチャオに押し付けているというのは、本当の問題じゃない。
本当の問題は、僕自身が抱えている。
「そんな都合の良い妄想をするなら、自分たちが生き残れる妄想をすればいいのに、それを素直にできないんだもんな」
ホウカは、うんうんと頷いた。
「いやお前、わかってないだろ」
「チャオ~」
けらけらとホウカは笑う。
僕も苦笑した。