1話 ステーションスクエアから吹いてくる風は冷たい
ステーションスクエアから吹いてくる風は冷たい。
体感温度と世界の明るさは比例する。
太陽が照りつける猛暑日だって、冷たい風が吹いた瞬間に熱は和らぐ。
まるで太陽が遠くへ離れていってしまったように暑さは消えて、世界は急に薄暗くなる。
死んだ町が僕たちに手招きしている。
どれだけ太陽が再び酷暑を作り出そうとも、僕たちの体は冷えていて、世界は少し暗くなったままだった。
今年は海水浴客が少なかったとニュースが言っていた。
秋になれば、いよいよ冷たい風は深刻さを増す。
風によって凍える日々がもうじき始まる。
学校はサボる。
チャオガーデンへ行く。
この町に来てからというもの、僕、遠藤インクは学校に馴染めていなかった。
一年前、僕の住んでいたステーションスクエアは凍り付いてしまった。
僕の心もそうだった。
嘘でも心の氷を溶かして振る舞うことはできなかった。
心の氷に正直になりすぎた僕は、自身にとっても他人にとっても扱いにくい存在で、誰かが近寄るだけでも軋む音がした。
「おいっす、インクくん。学校サボり?」
受付に座っているおばちゃんはノートパソコンの画面から目を離さずに言った。
おばちゃんは柔和そうに丸々と太っている。
悲しいことなんて何もない人に見える。
そして悲しいことは脂肪の内側に隠してしまえる人だった。
「そうです」
「じゃあ代わりにきりきり働いてってね」
「なんでですか」
と僕は返す。
おばちゃんは、うふふ、と笑った。
僕は唯一このチャオガーデンのスタッフだけとは心を通わすことができた。
おばちゃんも、あの日ステーションスクエアにいた。
一年前、ステーションスクエアは一瞬のうちに氷の町と化した。
町を殺した化け物の正体は未だに不明だ。
だけど事実として町は凍り、そこに暮らしていた人々もその凍結現象に巻き込まれた。
僕とおばちゃんが助かったのは、外部と隔絶して室内環境を調節しているチャオガーデンの中にいたからだった。
あの日凍ってしまった人は千万人にのぼる。
おばちゃんの夫は出張に行っていたおかげで助かったが、二人いた子どもは凍り付いてしまった。
おばちゃんの子どもは今も氷のままステーションスクエアにいる。
凍った人たちを死者と扱うかどうか。
これは微妙なところだ。
法的な扱いも決められずにいる。
しかし一つ絶望を感じさせる事例がある。
氷を温めて溶かして救助しようという試みが行われたが、それで氷を解かされた凍結者の心臓は止まっていた。
なので心の底ではみんな、凍った人は死んでいると思っている。
ただ凍結現象は、なにが原因なのか全く掴めない、常識外の異常現象だった。
それなら同じように常識外のなにかで氷が解けて、凍った人々が助かるんじゃないか。
そんな奇跡をみんながみんな口にする。
甘ったるい。
だからこそすがりつくしかない流行病だった。
そしてそんな奇跡が起きないから、このガーデンは存在している。
ステーションスクエアの千万人の死者の中にはチャオを飼っていた人もいた。
このガーデンにいるチャオは、飼い主を失ったチャオたちだった。
僕がこのガーデンに来るのは、チャオたちやおばちゃんに仲間意識を抱いているからに違いない。
「今日もマユカちゃん、氷やるんだって」
とおばちゃんはガーデンの二重の扉を開けた僕に言った。
チャオガーデンの暖かい空気が開いた扉から抜けていく。
流れる空気をそのままに、僕はおばちゃんに聞いた。
「今日はなに作るって?」
「聞いてない。秘密って言って、教えてくれないもの」
「やっぱりそうか」
「と言うか、早く入りなさい。温度下がっちゃうでしょ」
「はぁい」
中に入り、扉を閉める。
暖かな春の早朝みたいな空気に僕は包まれる。
チャオの餌になる実の成る木の大きな葉が揺れていた。
ガーデンに吹く微風はチャオと人を楽しませながら、密かに広大な室内の空気を循環させている。
木は五メートルほどの高さがあるが、天井はその木よりも遥かに高い所にある。
十メートルくらい、だろうか。
その天井には空が描かれていて、まるで本物の青空のように見える。
吸い込まれそうな青空なんて言われる時の、一体どこの青色なのか人の目には把握できない、あの果てしない遠さが再現されている。
職人技だ。
一体誰があんなものを天井に描くのだろう。
チャオガーデンとは作り込まれた小世界だった。
まるで異国に来たように感じさせる。
ただいま。
僕は誰にも届かない小声でチャオたちにつぶやいた。
聞こえない声のはずなのに、僕がつぶやくと同時に一匹のチャオが僕に気付いた。
ダークチカラチャオのホウカだった。
放火という不名誉なネーミングは元の飼い主によるものではなく、このチャオガーデンのスタッフ、桃野マユカによるものだ。
元の飼い主がなんて呼んでいたかは知らない。
マユカはまだ二十代前半で、若いスタッフだ。
若いからってわけじゃないだろうけれど、自由気ままな人間である。
そのホウカは、木馬に乗って遊んでいた。
このガーデンに置かれている木馬はちょっと高価な玩具で、揺らすと中に入っている鈴が鳴る仕組みになっている。
ホウカは木馬から飛び降り、僕の方に駆け寄ってくる。
彼女のせいで変な名前で呼ばれるようになったホウカだけど、
「よう、元気かホウカ」
「チャオ!」
とホウカ自身はこれをちゃんと自分の名前と認識している。
赤と黒のボーダー模様の手を振りながらホウカはにこにこと駆け寄ってくる。
ホウカはガーデンの中でもとびきり人懐こいチャオだった。
ダークチャオでクールっぽい見た目をしているのに、ホウカは人がいるといつもにこにこしてじゃれつくのである。
「学校サボって、会いに来ちまったぜ」
僕がそう言うと、ホウカは挨拶代わりに火を噴いてみせた。
「おお、今日もすごいな」
「チャオ~」
ホウカは自分で自分の頭を撫でて、ねだってくる。
僕は要求されたとおり、ホウカの頭を撫でてやった。
頭の上に浮かぶトゲトゲのポヨがハートの形に膨らむ。
火を噴けるようになるには、ドラゴンという珍しい小動物をキャプチャさせてやらないといけない。
「お前のご主人様はきっと金持ちだったんだろうなあ」
かなり贅沢な生活をしていたんじゃないか?
それでもチャオガーデンでの平凡な生活にも馴染んでいる様子だった。
チャオに贅沢なんてわからないのかもしれない。
「今日、マユカがまた氷やるってさ」
「チャオ」
「なにやるか、お前知ってる?」
「チャオ~?」
「もうメシ食ったか?」
「チャオ!」
ホウカがなにを言っているかはさっぱりわからない。
ホウカだって僕がなにを言っているのか理解していないんじゃないか。
だけどこうやって話していると、頭の上のものがハート型に変わる。
チャオは人と話をするのが楽しいようだ。
僕はホウカを抱っこして、プールの傍に移動した。
池を模したプールの中央には橋が架けられていて、その先には岩の洞窟がある。
薄暗い洞窟は、暗い所でゆっくりしたいチャオのためのスペースだ。
そしてさらに奥に、スタッフ以外が立ち入り禁止の部屋がある。
マユカはそこから氷を運んでくる。
氷の大きさは一メートル四方ほどだ。
厚さニ十センチの氷の板を重ねてその大きさにしている。
そのくらいの大きさになるとかなり重いだろうに、マユカは平然とした顔で氷の載った台車を押し、洞窟から出てくる。
マユカは僕の姿を認めると、へらへらと笑う。
そんなつもりがなくても、謎の自信に満ちた笑顔に見える。
マユカの顔は強気そうな形に綺麗に整っている。
彼女は見た目のとおりに意志の強い美人だった。
そしてマユカは橋を渡り切ると、
「おやおや、不良がいるぞ」
と僕に言った。
「ちぃーっす」
「チャオ!」
ホウカはとても嬉しそうにマユカに手を振る。
マユカの氷のショーはチャオたちにかなり気に入られているのだ。
ガーデンのチャオたちがぞろぞろと氷に集まってくる。
「はぁい、危ないから離れてねー」
マユカはチェーンソーを持って言った。
ブィィ、とチェーンソーの電動モーターが大きな音を立てる。
近付きすぎていたチャオを別のヒーローチャオが引っ張った。
まるで氷ではなく雲を切るかのように、チェーンソーの刃は氷の中にするりと入る。
本当に切っている証拠として、ものすごく細かい氷の粒が霧のように飛ぶ。
チャオたちはそれを浴びて、きゃあ、と声を上げる。
氷の左右が大きく切り取られる。
頭と胴体、なにか立っている動物の形にしようとしているみたいだ。
マユカは氷を使った彫刻をチャオによく披露しているのだ。
彼女は両手でしっかりと持ったチェーンソーを数センチ単位で動かして、チェーンソーの刃に氷を撫でさせる。
氷の粒が飛び、頭にくちばしが現れる。
どうやら今回マユカが作っているのは、鳥らしい。
鳥に見える形にまでなると、マユカは電動モーターを止めて道具を持ち替える。
次に持ったのは平ノミだ。
ヘラのように先端の刃が広くなっているノミである。
それを使って鳥のシルエットを整えていく。
動作だけはやすりがけをしているように見える。
だけど一度に削れる氷の量は動作からするイメージよりもずっと多い。
雪かきを連想させた。
氷をかけばかくほど鳥の頭は綺麗に丸まり、胴体にも生き物らしい曲線が描かれる。
平ノミを扱いながら、マユカは歌う。
人生がどんなにクソな終わり方をしても
私の愛は絶対に 死なない
こぼれまくっても走り続ける血は
元々はあなたからもらったもの
歩けなくなっても
駆け上がってやるぜ
どうなっても行くんだこの先へ
永遠なんてあり得ない?
夢は夢でしかない?
そうかもしれないけれど
錯覚の永久機関を
持って生まれてきたんだ
あなたが愛したものは死なない
マユカの歌はかなりうまかった。
歌っている彼女の頬は段々と赤くなる。
恥ずかしさじゃなくて、快感で彼女の体が火照っているのだ。
サビの終わりに一瞬こちらを見る彼女の目はいつも、私って格好いいでしょう、と自慢げに問いかけている。
マユカはさらに二番を歌い、間奏を口ずさみ、そして一曲を歌い終える頃には、氷の形も整っていた。
どう見ても鳥以外の動物ではあり得ないとわかるくらい形ははっきりしている。
翼を閉じて立っている鳥だ。
だけど僕はまだなんの鳥かはわからなかった。
今度は刃がV字になっているノミを持つ。
また同じ曲を歌いながら、マユカはデティールを彫り入れていく。
ノミによって作られた凹凸で、目が生まれ、塊だった翼が羽根に分かれていく。
氷に刃を入れることで、マユカは命を彫り起こしていた。
結局僕は最後までなんの鳥なのかわからなかった。
鳥に詳しくないのもある。
だけど一目でこれだとわかるような、特徴のある生き物にしなかったマユカのせいでもある。
「ふい~。完成」
マユカがノミを道具箱にしまってチェーンソーと共に氷から離れると、出来上がった彫刻にチャオが群がる。
みんな手を伸ばして、キャプチャをするような仕草で氷の鳥に触れる。
「チャオッ!チャオ~ッ!」
熱狂し、興奮した声をそれぞれが上げる。
僕は氷から数歩離れたマユカに寄り、
「あれ、なんの鳥なの?」
と聞いた。
「ハト。平和の象徴」
とマユカは答えた。
答えを教えてもらった僕は、もう一度氷の彫刻を見た。
ハトにしては、くちばしがちょっと長い。
カラスにも見えそうだ。
「言われてみればハトだな。でも若干似てない」
「チャオが喜んでるからいいの」
「確かにめちゃくちゃ喜んでるよな。あんま大喜びするチャオ、今まで見たことなかったよ」
「でしょう。愛のなせるワザかな。あ、チョコバット食べる?」
答える間もなく、道具箱に入れられていたチョコバットを一本僕に投げ渡す。
手を伸ばせば渡せる近距離で不意に投げられたものだから、反応できなかった。
受け取り損なって、チョコバットは落ちそうになる。
だけど反射的に振った手でどうにか掴んだ。
「普通に渡せよ」
「でもナイスキャッチ」
「うるせえ」
外れのチョコバットを食べる。
コーティングされたチョコよりも、サクサクとした生地の食感がおいしいと感じる。
「仕事の後は格別にうまい」
マユカはポッキーを食べるくらいの勢いで一本食べてしまうと、続いて二本目のパッケージを破った。
「でもなんで氷なわけ?不謹慎とか、思わないの?」
僕がそう尋ねると、マユカは二本目のチョコバットを口に詰め込んだ。
なにかを答えたそうに僕を見たまま、口の中のチョコバットを一定のペースで咀嚼する。
氷で遊ぶなんて、今どきタブーだ。
それなのに彼女はよく彫刻をチャオたちの前で披露している。
よりによって氷の異常現象によって飼い主を失ったチャオたちの前でだ。
チョコバットを全て飲み込むと、ようやくマユカは、
「氷の彫刻はね、そのうち溶けるんだよ。氷だからね。溶けて、水になる。それをまた凍らせて、別の彫刻を作るんだよ」
と答えた。
「再利用できるってことか」
「そう、再利用。新しい命に生まれ変わる。転生するんだよ」
「へえ。それで、不謹慎だからやめようみたいなことは考えないの?」
マユカはまたチョコバットを箱から取り出した。
まだ食べる気なのか。
そして何本入れているのか。
マユカは持ったチョコバットのパッケージを破らずに、
「別に思わないね。私はあまり我慢をしないんだ。それにみんな喜んでるんだから、続ける理由しかない」
と言った。
「だからさ、愛のなせるワザなんだよ。知ってるかい?愛は地球を救うんだぜ」
「いつの時代の人だよ、あんた」
「三十年ぐらい前の人かな?」
マユカは首を傾げる。
「あんたまだ二十代だろ」
「わはは」
「って言うか、その喜ぶみんなって、もしかして僕も入っている?」
「そりゃそうでしょ」
「僕は喜んでいると言うより、こんな時代に氷を使って変なことしている変人を見て楽しんでるだけだよ」
「どうもありがとう」
「褒めてないよ」
嘘だ。
実は褒めている。
僕がマユカに心を開いているのは、彼女が変人だからだ。
変人で他の人とは色々と違っていることが、今の僕には無害な様に見えるのだった。
学校の人たちは、近付くにしろ離れるにしろ妙な距離の取り方をして僕の心を軋ませる。
変人の彼女は、そのようなことをしないだろうと期待させてくれるのだ。
そして今のところ彼女と一緒にいて、不快にさせられたことはなかった。
彼女の氷彫刻を不謹慎だと思ったことはない。
平然と氷にチェーンソーの刃を入れる様を見ていると、むしろ反省をさせられる。
僕もマユカのようにあれこれ気にしないで振る舞うべきなのかもしれない。
そんなふうに思えてきて、彼女の氷彫刻を見た後は、少しだけ解放された気分になるのだった。
マユカは、
「褒めてくれたお礼にもう一本あげよう」
と言って、チョコバットをまた投げてきた。
今度は受け取ることに成功する。
「だから褒めてないって」
否定しながら、もらったチョコバットを食べる。
そして開けたパッケージを見ると、文字が書いてあった。
「あ、ホームランだ」
「当たりか。それじゃあもう一本あげる」
マユカはもう一本チョコバットを投げてきた。
「いらねえよ」
と言いつつも僕は片手でチョコバットをしっかり受け取っていた。