一章(3)
あの後俺とまみはすぐに店を出た。
野暮用を終えて、食事を友人宅で済ませ家へ帰った。
彼女は久々に充実したと満足していたようだが俺にはその記憶さえ曖昧だった。
あの石悟の仮説があまりにも衝撃的すぎて…。
第一の仮説は偏頭痛の原因が記憶喪失によって認知されていない場合。
状況的には記憶を失う前からも痛みが継続されている場合だ。
彼女の痛みが物理的なものか精神的なものかを検査してもらわねばならないのだが医学的に異なる分野だ。
前者は外科医、後者はカウンセラー。
外科医の方は程度にもよるが入院をするために莫大な費用がかかるし、カウンセラーは長期にわたって払い続けなければならない。
第二の仮説は治療に踏み込もうにも彼女の体質は認知されていないこと。
家出少女である彼女の身元は不明なので本来ならデータベースにあるはずの情報を引き出せない。
つまり治療方法を選ぶことから一種の博打となってしまうこと。
死ぬ可能性もあるというのはこれの過剰表現だ、ただ楽観視できる要素はどこにもない。
そして…これがある意味一番最悪の結果になる可能性。
*****
「いいか呂。3つ目はもし偏頭痛の原因が記憶喪失であった場合だ。」
「記憶喪失が?」
「記憶を失うといっても情報が脳から出て行くわけではない。情報が封じ込められているといったほうが合っている。
まみちゃんはこの古い記憶の上に新しい記憶を作り上げているわけだ。痛みの原因はきっとこの古い記憶と新しい記憶との【ずれ】だ。
痛みを取り戻すにはこのずれをなくしてしまえばいい。」
「どうやって」
「催眠術、心理カウンセラー…それでまみちゃんの眠っている記憶を呼び戻せばいい。それで痛みからは解放される。」
「痛みから…?」
「別の苦しみに襲われる。」
「どういう意味だよ。」
*****
第三の可能性。
それは記憶の修正による人格の崩壊
人格を形成することとアイデンティティの事柄は切り離せない関係である。
そしてアイデンティティ、【自分】というものを説明するには記憶が必要不可欠なのである。
親、兄弟、友人やコミュニティの所属といった【人との繋がりの記憶】が自分の性格や趣向に大きく影響する。
彼女の記憶は眠っている。もし彼女が18歳だとしたら15年もの記憶がある。
比率からみても、まみから見た彼女の真の人格は封じ込められたままなのだ。
そしてこの三年間は偽りの人格を演じていた ともとれる。
本当の自分を隠し、偽りの自分を演じなければならないストレスが痛みの原因であると石悟は仮説をたてたのだ。
もし眠った記憶を呼び起こしても、今の記憶と上手く結び付くかどうかは分からない。
彼女の記憶が目覚めた時、その時点から彼女は15年目から記憶を継続していくかもしれない。
三年間の記憶(つまり俺とまみが友人として恋人としていた時間)がまみの中ではある種の夢として認識される可能性もある。
次からは赤の他人として接する可能性もある。
仮に上手く結び付いたとしても、彼女が今まで通り俺を好いていてくれるかどうかも分からない。
最悪の場合は彼女の前の記憶と今の記憶が互いに反発した場合だ。
元の性格と今の性格が全く異なった場合、彼女は自分を見失う。
自分を見失って精神が壊れる可能性もある。
「まみ…。」
布団の上で呟いたが返事はない。
偏頭痛は今日は襲ってこなかったらしい。
けど、このままでは終わらない。
不意に訪れる痛みにまみは苦しまなければならない。
救うための治療が逆にまみの首を絞めることになるのかもしれない。
彼女を殺すかもしれない。
「どうしたらいい…。」
*****
あの時の優柔不断な自分を呪った。
あの夜、悩みに悩んでも答えは見つからなかった。
…見つかるわけがなかった。
関わっているのは俺とまみの二人だ。
独りで納得いく答えを導き出すのは不可能だったのだ。
必死で答えを探そうにも現状が変わるわけではない、それを認めずにいた俺は疲れて寝てしまっていた。
翌朝、寝過した俺はその異変の予兆に気付くことはなかった。
だが、目を覚ました時に絶望するしかなかった。
配膳しかけのテーブルの皿。
流れ続ける水道。
そして開けっぱなしの玄関。
意味することは一つだった。
「まみが…いない。」
一章 END