一
おばあちゃんはいつもせんべいを買ってくる。にこにこしながら「はい、食べてね」と言って買い物袋の中から色々なせんべいを取り出して、テーブルの上に優しく置く。わたしがせんべいを好きだと思っているのだろう。多分、わたしが小さい頃にせんべいを食べたときに「おいしい」と言ったのだと思う。正直なところ、わたしはそれほどせんべいが好きなわけではないのだけど、おばあちゃんが嬉しそうにせんべいを持って帰ってくるのを見ると、ついもらってしまう。決して嫌いだというわけではない。ただ、たまにはポテチとかスティック系のスナック菓子を食べたいなあ、と思うので、せんべいが出てくると内心がっかりしてしまう。でも結局食べてしまえばせんべいはおいしいし、おばあちゃんの期待に応えられた気もするので、それほど引きずったりはしないのだった。
でも今日はそのことについてふと考えることになった。おばあちゃんが夜ご飯にハンバーグを作ってくれたときだった。ハンバーグはわたしが昼ご飯を食べ終わったあとにおばあちゃんにリクエストしたもので、その日の夜ご飯に作ってくれたものだった。おばあちゃんが作るハンバーグは特においしくて、わたしはしばしばハンバーグをリクエストする。おばあちゃんも自分の作るもので孫を喜ばせることができて喜んでいた。今日はなぜか気分が良くてなんでも好意的に受け取れるような心持ちでいたわたしは、本当にわたしを愛してくれているんだと、そのとき改めて強く感じた。でもそれと同時に、せんべいを買ってきてくれたときのことを思い出した。こんなにも愛してくれているおばあちゃんに対して、がっかりするなんてあんまりだ。わたしは自分が許せなくなり、おばあちゃんに謝りたくなった。でも、そんなことを言えばおばあちゃんは絶対に傷つくから、なかなか言えなかった。実際のところ、せんべいが嫌いなわけでもないから、言わなくてもいいんじゃないか、とも思ったけど、それでもがっかりしているのは本当だし、わたしのことを誤解させたままなのは嫌だったので、言わなきゃいけないと決心した。
それから少し経ったある日、おばあちゃんが買い物に行くと言うので思い切って、
「ごめん、せんべいよりもポテチの方が好きだから、ポテチ買ってきてほしいな」と言った。
おばあちゃんは「そうなのかい? ごめんね」と言って買い物に出て行った。わたしは胸が痛んだけど、これも今後のためにしょうがないと思うようにして、おばあちゃんが帰ってきたときには「ありがとう」と心から言った。おばあちゃんはまた「ごめんね」と言って、ポテチをテーブルの上に優しく置いた。
それからおばあちゃんはお菓子を買いに行くときはポテチを買ってくるようになった。こうやってわたしのことを知ってくれると嬉しかったし、お互いの認識が同じになって心を共有できたような気がした。そして、わたしのことをおばあちゃんに知ってもらうだけだとフェアじゃない気がしたから、おばあちゃんのことも知ろうと思った。でも改めてあれこれ聞くのは恥ずかしいし、かと言って他の人からおばあちゃんのことを教えてもらうのもずるい気がして、なかなか聞き出せなかった。そんなままで、日は進んでいった。
おばあちゃんが死んでしまってから一週間が経った。ただただ悲しくて何もする気が起きない一週間だった。でも普段と同じように学校に通って授業を受けて帰るだけの日々はいつもと同じようでもあって、悲しみと生活が不釣合いな気がして悔しかった。悲しみが落ち着いてしまってから、わたしの心に残ったのは後悔だった。おばあちゃんのことを、もっと聞いておけばよかった。わたしの心だけを共有して、おばあちゃんの心を共有できなかった。わたしは愛されるばかりで愛することができない人だと思わされた。わたしの中にあるあばあちゃんへの愛は行き先を失って、わたしを蝕んだ。だから責めてわたしは、できるだけ人と色々なこと共有しようと思った。
それから中学校の友達とより仲良くしようとした。愛菜と律子とわたしの三人グループ。中学校へ入学して、席が近いのがきっかけで話すようになった友達だ。でもそれだけの、言うならただの友達だった。三年間ずっとそうだ。わたしは二人の好きなものや嫌いなものを知っているつもりだ。例えば愛菜は日本のポップスが好きで、数学と虫が嫌い。律子はロックが好きで、あと茶碗蒸しが好き。トマトと運動が嫌い。でもよく考えればそんな単純な話ではなくて、もっと色々なものが積み重なって愛菜や律子は一人の人間としてできてるわけだから、わたしが知っているのは一部でしかない。わたしを含めて三人とも内向的な性格をしているせいかもしれない。このままではいつか後悔すると思った。もっと踏み込まないと、わたしは落ち着ける場所まで辿り着けない。そしてこれも難しい話だけど、わたしのような後悔をさせないためにも、わたしのことを押し付けがましくならないように知ってもらわなきゃいけない。そうして心地よい関係を築いていけたらいい。
そう考えたところで、次は何かをしなければいけないと思った。わたしのことを知ってもらおうとするより、先に二人のことを知ったほうがいい。でも、相手のことを知るというのは難しい。直接聞き出すのも不自然で、少しずつ知ろうと思っても何を知らないのかもわからないのでどこに手を出していいのかわからない。
相手がおばあちゃんだったら、と考える。答えは簡単だった。どこでもいいんだ。どこでもいいからもっと知っておくべきだったと、わたしは後悔しているんだ。
「今週の土曜日、映画見に行かない?」
わたしはとりあえず、映画が無難かなと思って映画に誘った。わたしが言いだしっぺなので、あらかじめ上映している映画の中からひとつ選んで薦める形で誘った。正直映画選びには結構悩んだ。普段学校で一緒にいても、休日を使って映画を見に行くのは初めてだ。映画を一緒に見に行くなんて定番の行動なのに、意外と何もしてこなかったんだなと改めて思った。二人は映画と言われて不意を突かれたような顔をしたが、
「いいよ、行きたい」と言ってくれた。
わたしたちが見に行くのは『魔女の森』という原作が小説の作品だった。ある街のパン屋の息子が、同じくらいの年齢の魔女の女の子と森の中で出会い、触れ合っていく様子を描いた映画だ。わたしは予告の映像をネットで見て、その不思議な雰囲気に興味が湧いて、見たくなったのだった。でも、それを愛菜と律子に紹介した日の夜に、みんなで決めれば良かったな、と後悔した。いつもことが済んだあとに、良くないところに気づくのはなんでなんだろう。映画に誘えただけでもマシだと思うようにして、あとは映画が面白いことを願うだけだった。
初めて二人を映画に誘ったあの日から、わたしたちは変わっていった。カラオケにも行くようになったし、その帰りにファミレスでずっとおしゃべりをすることもあった。友達というものが、こんなに一緒に何でもできるものだなんてみんな知らなかった。知らなかったというと変かもしれない。知っていたけど、こんな遊び方をするのはクラスではしゃいでいる子たちで、わたしたちは学校内で一緒に楽しく話せればそれで満足だと思っていたのだった。でも、映画館に行った日は良かった。映画を見に行ったあと、不思議な高揚感を抱えたままわたしの家に集まって、わたしの部屋で映画の感想を言い合った。映画は二人に好評で、二人とも「あなたはパンを売るよりも、わたしのように魔法を使うための練習でもしたほうがいい」という魔女の台詞が気に入ったようだった。映画を見ていたときはそんなに気にしなかったようだが、その直前のシーンで「わたしは人の心を操ることもできるが、そんなにつまらないことはないから使わない」という台詞があったから、きっと「わたしのように魔法を使う」って言うのは、わたしの心を変えようとしてみろ、って意味なんだろうね、っていう話をわたしがしたらすごく感動したようだった。わたしの作品じゃないのに、感動してくれてなんだか嬉しかった。そのあとは一緒にバラエティ番組を見て、笑いあって、解散した。それから、愛菜からも律子からも誘いが増えるようになった。こんな感じで、わたしたちは自分たちの中三革命を起こしたのだ。