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「博士、鏡の前へどうぞ」
博士の意識は、はっきりしています。
声を出そうと思えば上手く舌が動かないし、息を吸うことはやっとです。
歩き方にも影響が見られました。
チャオは、脚の関節がありません。
短い歩幅を、長めにしようとして大股になりがちなのです。
マラソンのトップランカーはこの状態で歩数を多めにしていますが、チャオになりたての博士では別です。

やっと鏡の前へ行くと、次の指示が出されます。
「鏡の中の自分とジャンケンをしてください」
言われるがまま、手をグーの形に…できません。だらしなく開いたままです。
チャオの手は、元々あの形。人間はチャオの手の形を「グー」で表現しますが、現在はチャオの感覚に基づいて動いています。
つまり、何も力を入れない状態。「だらしなく開いたパー」を出してしまうのです。
最初はグー、ジャンケンポン。
あいこでしょ、あいこでしょ、あいこでしょ、あいこでしょ、あいこでしょ
あいこでしょ、あいこでしょ、あいこでしょ、あいこでしょ、あいこでしょ
延々と続くそのジャンケンに、決着は見えません。博士へジャンケン打ち切りの指示が出ました。

「鏡の中の自分を殴ってください」
奇怪な指示が飛びます。
ですが、従順な博士はそのまま鏡を殴ります。
当然、手が痛くなります。鏡の中の自分も手が痛そうです。
「博士、あなたが見ているその鏡の博士は、今あなたのパンチのおかげで手を傷めたんですよ」
チャオには好奇心がある。それは、博士が自ら見た、水とチャオのおかげで既知です。
好奇心。つまり、知ろうとすること。
博士は自分の意思と裏腹に。いえ、その意思がそのまま伝わったのかもしれません。
もう一度、思いっきり叩きました。
本気で叩いたおかげか、気持ちのいい音が部屋中に響きます。
博士自身は、そんなこと微塵も感じていないでしょうが。

「博士、そのニセモノにうんざりしているでしょう。いっそのこと、殺してみてはどうでしょう?」
とんだ指示です。二重洗脳が始まります。
好奇心の結果、鏡の中の自分はただの光の反射ではないと認識するようになったのです。
まるで、鏡の中に自分がいるような言われ方をしたから。
何も入っていない容器は、どんなものでも受け入れます。そして、受け入れたものしか入らなくなってしまう。
新たに入れると、既に入っていたものが反発し、混ざり合う。
今回、「鏡の中の自分は殺さなくてはいけない」という考えが、博士の脳という容器に注ぎ込まれました。
ですが、博士は博士。人間なのです。
「そんなことはありえない」と常識で覚えています。常識であると覚えたものは、それだけ個性が強いのです。
博士の人間としての常識が、今注ぎ込まれました。
博士は行動を止め、その場に立ち尽くしました。

軽い洗脳だったので、すぐに効果は消えました。
博士はイスに腰掛け、ぐったりしています。
「分かりましたか?今回、博士が対象だったので…理性は止めることができません。 本格的に、薬を用いた実験を行うのならば」
そういいかけた彼を、博士は止めました。
「結局…チャオはどんな思考をするのだろう?」
喋れる状態になった博士が、ようやく口を開く。
「チャオは純粋で、頭が良い。あること全てを常識だと叩き込む。
 が、嫌なことは受け入れない。その嫌なことは、人間の嫌なことの定義にとても似ているのです」

彼は続ける。
「博士がスケッチしたチャオが殺戮の意識を少しでも抱いていたら…今頃どうなっていたかわかりません。 ただいえることは、チャオは人間の愛情部分をそっくり抜き出したかのような、ピュアな生き物です」
スケッチブックを開き、チャオの動向を確認する。
愛くるしい動物なのは分かる。だが、自分の知りたいことを上手くはぐらかされているような気がする。
「では、教えてください。チャオの思考は年齢とともに変わっていくのでしょうか」
博士が言うと、彼が苦笑いしながら答える。

「そんなの、自分に聞いてみればいいじゃないですか」

壁の鏡には、イスに座っているチャオの姿が写っていました。
延々と…あの高音とチャオの声が博士を襲っていました。何時間も、何日も。ずーっと。

このページについて
掲載号
週刊チャオ新春特別号
ページ番号
2 / 2
この作品について
タイトル
「チャオの虚構な実験」
作者
Sachet.A
初回掲載
週刊チャオ新春特別号