第二話 電子ピアノ

 夏也はベッドで寝て、私は寝室に布団を敷いて寝た。ナナコとソウも寝室で眠っている。
 夏也はベッドで寝ていいと言ったが、私は遠慮した。布団を貸してもらえるのだから、十分贅沢だと思った。シングルルームに泊まる人と寝る時は遠慮などせず、いいと言われればベッドで寝ていた。といっても、布団がなくても今回は夏也に厚かましいと思われたくなくて遠慮していたかもしれない。
 習慣で、五時に目を覚ます。外はもう明るくなっていた。カーテンを少し開けて、部屋の中に光を入れる。そして私はベッドで眠っている夏也の寝顔を確認した。こうやって寝顔を見るのは、自分が相手より早く起きたことを確認するための行為だ。冷静に考えれば、それを確認したからといって、私の羽が見られてないとわかるわけではないのだが、それでも私は欠かさずに男の寝顔を見る。
 夏也は気持ちのよさそうな顔をして眠っている。まるで朝の日差しを浴びているからそういう顔をしているような、晴れやかな寝顔だった。一晩中こういう顔をして眠っているのだと思うと笑えるくらいだ。
 しばらく寝顔を見た後、背中の羽のことをいつどう告げるかが問題だ、ということに私は気が付いた。抱くと言ってしまったからには、その時までに言うのか、それとも当分の間は隠しておくのか、決めておかなくてはならない。私は本当に夏也と性交をするつもりでいて、それを嘘だったということにする気は全くなかった。だから言うか言わないか決めないといけない。
 私は目をつぶって、五分くらいじっくり考えた末、服を脱いで上半身裸になった。言おう、と思ったのだ。いつ夏也が起きてきてもいいように、私はチャオになるためベッドに背中を向けて体育座りをする。
 羽のことを話した上で、羽のことなど忘れてしまったかのような軽さで私のことを好きになってほしい、というのが私の気持ちだった。だからどうやってこれが重い話にならずに済むか、ということを夏也が起きてくるまで私は考えに考えた。
「おはよう」と夏也から声がかかった。起きた直後に言ったような、はっきりしない発声だった。すっかり目の覚めている私の言うおはようは、しんとする響きがあった。そして実際に夏也は黙った。たぶん私の羽を見ているのだろう。私は夏也の方に顔を向けず、
「見てます? 私の羽」と言った。
「ああ、見てる」
「実は私、チャオだったんです」
 そう言ってみるものの、私は完璧にチャオに変身できるわけじゃない。結局のところ、チャオの羽が縫い付けられているだけの人間なのだ。体育座りをしてみても、まだチャオより大きい。
「そうだったのか」とだいぶ間を置いて夏也は言った。
「嘘です」と私は即座に返した。
「だよね」
「でもこの羽は本物。本物のチャオの羽です。お父さんとお母さんがチャオから取って、私に縫い付けたんです」
 そんなことが現実に起きたなんて、そう簡単には信じられないだろう。少なくとも困っているというのが、夏也が無言でいることから伝わってくる。だから私は羽を取られてしまったチャオがすぐ死んでしまったことや整形のことなどを話した。一通り話し終えると、相槌も打たずに黙って聞いていた夏也が、
「そうだったのか」と言った。息が詰まった感じのある、理解の声色だった。なんでもないことのように話すつもりだったのに、喋るうちにどんどん暗い話になってしまっていた。
「私、この羽をあまり人に見せないようにしてたんです。可哀想な子って思われたくなかったから。だから、私のことを可哀想な子と思わないでください。私、この羽結構気に入ってるんです。だって、これ、似合ってるでしょう?」
 重い空気を取り払うために、そう言って私は微笑む。私は変わらず夏也の方を向かずにいたから夏也には見えないのだけれど、凄くいい微笑だったという手応えがあった。
「確かに似合ってるよ」と夏也は笑った。褒められたのが結構嬉しくて、私も笑う。
「だから私は可哀想じゃないんです」
「わかったよ。君は可哀想じゃない」
「じゃあ服着ますね。それとも、もうちょっと見ますか?」
 夏也は少し悩んで、見る、と言った。彼がもういいよと言うまでの間、私は羽ではなく裸の背中を見られているつもりでいた。夏の朝の空気は、昨晩の冷房の涼しさが消えているのに、ひんやりと気持ちがよかった。このまま涼しさに肌を浸していたいと思いながら、深呼吸をした。やがてナナコが目を覚まして、私は服を着ることになった。
 私はキッチンの端に立って、夏也が料理をするところを見ていた。朝食は適当でいいかな、と夏也が言うので、うん、と答えたら夏也はキッチンで朝食を作り始めたのだった。ちゃんと料理するんだなあ、と感心して見ているのだった。私は料理なんて、家庭科の授業の調理実習でやったきりだ。家では母が作っていたし、家出してからはほとんどホテルに泊まっていた。たまに男の家に泊まることがあっても、コンビニの弁当やカップ麺で済まされていた。
「料理するの、いいですね」と私は言った。
「今時、男でも料理するものだよ」
「そうじゃなくて、凄く有意義なことって気がします」
 食べるだけなら買ってきた弁当やカップ麺でよくて、それなのに料理という行為をその前に入れるというのは、美しい無駄のように感じられた。とても楽しい遊びを見ている気分だった。母の料理するところを見ていてもそんな風には思わなかった。家出して過ごした三ヶ月という時間が、見慣れたものを斬新なものに変えたらしい。出来上がった朝食のスクランブルエッグやスープを食べる時には、特別な気分はなかった。居候の身でありながら、好きな人と一緒に生活しているというつもりになって、無性にうきうきしたくらいだった。
 夏也はスーツを着て、仕事に行ってくると言った。昨日ガーデンでヒーローチャオに着せて回っていたあの服をチャオの店の服飾の担当の人に見せる、というようなことを言っていた。とにかく今日服を見せる人からオーケーをもらえれば、服を作る工場へその足で行って打ち合わせをして、それで彼の仕事は一段落つくということらしい。
 夏也は私に合い鍵を渡すのを忘れていて、おかげで私はこの部屋にソウと閉じ込められてしまっていた。鍵をかけずに外に出てうろつくわけにはいかない。
 私は泊まる場所を探さなくてもよくなったことでのびのびと遊ぶことができると思って、買い物をするつもりでいた。服が欲しかった。リュックに入る分しか荷物を持てなかったから、まず物欲が出てきたのだった。
 夏也に連れられてナナコもいない。私はソウを抱いて、部屋の中を探索してみた。キッチンで調理用具の場所を確かめたり、洗面所の棚に洗剤が置いてあるのを見つけたりして、ここを自分の住まいとして生活する姿を思い描く。
 タオルはどこにあったっけ、と考えて昨日寝室で受け取ったことを思い出し、寝室に行く。寝室には机と本棚がある。ナナコの遊び道具であるらしい小さい電子ピアノが置いてあったのでソウにそれを触らせ、私は机の引き出しを開ける。日記とかアダルトビデオとかが入っていないかという期待で覗いたのだが日記の方は見つからなかった。なので私は本棚にあった小説を読んで時間を潰した。
 昼には冷蔵庫の冷凍室にあったピザを食べ、夏也が帰ってくるまでに二冊の小説を読み終えていた。どちらも、どこかでタイトルを聞いたことがあるというような有名なベストセラーの作品だった。現代文の授業でもなければ小説を読まなかった私は、面白いものもあるんだなあと感動して、三冊目を読み始めていた。帰ってきた夏也は寝室にいる私を見つけると、
「服、オーケーだったよ」と報告した。
「よかったですね」と言う私の方が、声が弾んでいる。夏也は慣れているらしく、そんなに喜んでいる様子はなく、私の方は楽しい小説を読んで、いい気分になっていた。
「昼ご飯は食べた?」
「冷凍のピザを勝手にいただいちゃいました」
「よかった。いつ帰るとか言ってなかったからね」
 夏也は笑顔を見せた。おいしかったです、と私も笑顔で言った。
「それで服っていつ発売されるんですか」と聞いた。
「一か月後くらいかな。商品として完成したのが店に届くまでに、大体それくらいかかっちゃうみたいだよ」
「そうなんですね」
 遠いな、と思った。一か月後に私はまだここにいるだろうかと考えると、そうはなっていないような気がする。彼は私を一時的に避難させてくれているのであって、一か月もいたらそれは一時的とは言えなくなってしまう。それは彼も歓迎しないことのはずだ。
「発売されたら、店に見に行きます?」
「最初はそうしたね。買う人がいるか気になっちゃって。最近は全く。次の服を作るのに集中しちゃうなあ」
「今度は行きませんか。私、買う人が来るの見てみたいです」
 私は彼の作った服が実際に売れるところを見たい。あるいは、売れるだろうかと店の中で服をちらちら見て緊張していたい、ということを思った。それにこういうことを言っておけば、一か月後の私たちがどうなっていたとしてもドラマのように再会できるのだろうと安心することができた。
「いいよ。行こうか」と夏也は言った。私たちは本当にドラマのように生きることができる、とこの時私は確信した。それは何もかもが上手くいくというイメージだった。それこそ両親のいる家に戻ってももう平気だと思えるくらいで、夏也と一緒にいられる時間を使い果たしたら戻ろうと私は決心した。
 その夜、私は布団をソウとナナコに明け渡して、昼間に小説を読んでいた時のようにベッドに腰掛けて、二匹のチャオが眠るのを待っていた。夏也は、私が宣言通りにセックスをするつもりであると思い知ったようで、くっ付かないながらもすぐ傍にいた。
 昨日二匹は十一時にはもう眠っていた。その時間を過ぎているのに、ソウもナナコも眠っていなかった。私と夏也のことが気になっているらしく、二匹は私の足元に来る。
「心配しなくても大丈夫だよ」
 私はそう言って、二匹を交互に撫でてやる。喜んだ二匹は遊んでくれとせがんできた。私はナナコのお腹を足先で軽く押した。ナナコはけらけらと笑って、私の足の親指を触る。ひんやりしていて、くすぐったくて、気持ちがいい。ソウが羨ましそうにするので、左の足をソウに差し出す。
 チャオと戯れたくなった夏也が私の横に来て、ソウを撫でる。
「ダークチャオがにこにこしてると変な感じだなあ」と、頭上のとげとげをハートに変えているソウを見つめて夏也は言った。
「そうですか?」
「だってダークチャオってちょっと怖い感じでしょ。それがこうやって普通のチャオみたいににこにこ笑ってるのって、なんかイメージと違うよ」
 私はコドモチャオの時のソウを知っていて、ソウはコドモの時と同じ表情をしているから、全く気にならなかった。そう話したら夏也は納得してくれた。
「君の感覚とは違うんだろうけど、コドモの時と同じって思えば、それは確かに可愛いね」
「そう、ダークチャオも可愛いんですよ」
「そうか。お前も可愛かったんだなあ」
 しみじみと言って、ソウの頭を撫でる。ソウはもう夏也のことが好きになったらしく、夏也に向かって短い腕を広げる。
「抱っこしてほしいみたいです」
 そう教えると夏也はソウを抱き上げた。ソウは、わあ、という声を出して喜んだ。その声が夏也さんには、やはりダークチャオらしくない声だったのだろう。夏也さんは笑いを堪えるように下を向いた。そして耐えきると、
「本当に可愛いな」と言ってソウを抱き締めてやった。私は、君も可愛いよ、と思いながら同じようにナナコを抱き締めた。ナナコはソウほどあからさまに喜ばない。だけどナナコは私の体をぽんぽんと優しく叩いて、それが親に慰められているみたいで癒された。私はナナコに懐いて、しばらくナナコを抱き締めたままでいた。
 ソウが欠伸をしたので夏也はソウを布団の上に寝かせた。すぐにソウは寝入った。
「ナナコちゃんも寝よう」と私は囁き、ナナコをソウの隣で寝かせた。ナナコは従順で、そのまま目を瞑り、しばらくすると寝息が聞こえてきた。
「よかった、寝てくれて」
 私は時計を見て、言った。まだ十二時を回っていなかった。ずっとチャオに構っている羽目になって、睡魔に負けてしまうようなことがあるのではないかと少し不安になっていたのだった。
 私たちは五分くらい二匹のチャオを見ていた。本当に眠ったか、疑っていたのだ。今日のセックスはチャオに見られたくない、と私は思っていた。夏也も、見られたくないのだろう。
 もうそろそろいいかな、と思った私は服を脱いだ。下着姿になった私は、夏也も下着だけにしようと、彼の服に手をかける。
 夏也は脱がせやすいように腕を上げるなどしてくれたが、キスをしたのもこちらからだった。唇が解放されると夏也は、
「ナナコはダークチャオになるかな」と言った。優しい声で、責められているわけではなさそうだった。私は笑った。
「チャオは神様じゃないですよ」
 布団の方を見ても、二匹はそこで眠っている。少なくとも目を瞑って寝ている振りはしていて、私たちを見てはいない。
「あなたはいい人っぽい感じがするから、その感じが変わりさえしなければたとえ何をやっても、チャオはそのいい人っぽい感じに騙されてヒーローチャオになりますよ。そのいい人っぽい感じっていうのは、単なる雰囲気じゃなくて、その人の後ろにある運命みたいなものなんです。だからそう簡単には変わりません」
 私は自分の胸を彼に押し付けるように抱き付いて、そう言った。運命を感じて進化するというのは、喋っている最中に浮かんだ全くのでたらめだったが、自分の口から出ただけのことはあって、私はその説が本当のことであるように感じられた。
「とにかくヒーローになるかダークになるかは、私たちの善悪とは関係ないんです」
「そうなのかな。僕は自分がいい子にしているからヒーローチャオになってくれたと思ってたんだけど」
「私だって、今も自分はいい子だと思ってます」
 そう言ったら夏也は笑った。
「君はいい子じゃないよ」と断言される。
「だってこんなことになってるじゃないか」
「いい子でもこんなことになるんです」
 むきになって私はそう言う。そうかな、と夏也は言った。
 朝に羽を見せていたおかげで私はそれを隠そうと緊張しなくてよくて、快楽を味わうことに集中できた。そして私は、彼の細いあまり割れているように見える腹筋や、喉や滑らかで無害な顔をいつでも思い描くことができるように覚えてみた。もしかしたらその腹筋の形でチャオは判断しているのかもしれなかったから。

 私が起きたのは相も変わらず五時だった。いつもは羽を隠すために重ね着をしているのだが今日は上に着ているのは半袖のTシャツのみで、早朝の涼しさが腕に浸透してきた。
 全然寝足りないように感じていたので横になろうとしたら、
「おはよう」と夏也が言った。彼は体を起こしてベッドの上に座り、こちらを見ていた。
「まだ五時ですよ」
「なんか目が覚めたんだよ」
 そう言って欠伸をするのを私は見上げる。私は行為の後、布団で寝たのだった。私の両脇にいる二匹のチャオはまだ眠っている。
「眠くないですか?」
「眠いね。もうちょっと寝ようかな」
 そう言うと夏也は横になった。私は、昨日あれだけ夜更かしをしたのだから二匹が起きるのは遅くなるだろう、ということを考えていた。そして私はベッドに入る。
「どうした?」
 夏也はベッドの端に寄りながら言った。シングルベッドだから二人がなんとか収まるくらいの幅しかない。窮屈に感じないで済むようにしようという考えもあって、私は夏也に覆い被さった。
 欲情はしていなかった。しかし夏也を求める気持ちは強烈に抱いていて、要するに私は彼と引っ付いていたかった。服を着たままであったが、私はチャオに変身したつもりになって、
「抱き締めて、頭を撫でて。チャオにするみたいに」と言った。
 夏也は私の指示した通りに、性的なニュアンスのない優しい手つきで私を柔らかく抱き締めて、撫でてくれた。私は彼の手と、背中の羽のちょっとひんやりとしている感触にだけ集中する。
 彼は、私が心地よくて出した吐息がチャオの喜ぶ時の声に似ている、と言った。今の私はチャオだもの、と返すと彼は、
「チャオは喋っちゃ駄目だよ」と言った。
 彼は本当にチャオを可愛がるみたいに、撫でたり抱き締めたり顔を軽く摘んだりしてきた。私はチャオの声に似ているという吐息を聞かせ続けたが、ずっと黙っていたために眠ってしまった。
 浅い眠りから覚めると、夏也の寝顔が間近にあった。私たちは身を寄せ合うようにして向かい合い眠っていたようだった。
 ソウとナナコはもう起きていた。二匹ででたらめなダンスを踊って遊んでいた。私が起きたことに気が付くと、二匹は笑顔で挙手をした。私は微笑む。
 時計を見ると、九時になっていた。夏也の仕事のことはよくわからない。何か用事があったりするんじゃないかと心配になって、彼を起こした。
「もう九時ですよ。お仕事とか、大丈夫ですか?」と聞く。
「大丈夫だよ」
 新しい服をデザインするつもりでいるけれど、それは家でやる仕事だから時間は決まっていないのだ、ということを彼は言った。
 今日は一日うちにいると夏也は言ったので、私は買い物に出かけることにした。
 私は、キャミソールとか薄手のカーディガンとかを買った。今まで羽が露出しないように買いたくても避けてきた服があって、それに似ている服を探したのだった。そういう服を、夏也の部屋で着ようと思った。
 思い付いたことがあって、私は大きめのキャリーケースを購入した。そして本屋に行く。目当ての本は、昨日読んだ二冊の小説のうちの一冊で、先に読んだ方だ。それを思い出の品として買う。
 キャリーケースを引きずって帰ってきた私を見て、
「どうしたの、それ」と夏也は言った。彼は新しい服のアイデアを紙に描いていた。私は自分の思い付いたことを話さずに、
「秘密です」と言った。
「秘密か。わかった」と言って夏也は描く作業に戻る。
 本当は秘密にするほどのこともでない。単純に、この部屋を出て家に帰る時のために買ったのだった。今日買った服や、これから買う物を入れるのだ。夏也と生活しているうちに彼から物をもらうこともあるかもしれない。そういった物を全て手放さないで済むようにと思ったのである。それと、これを引きずって家出生活をするのは大変だろうから家に帰るしかない、と自分を追い込む意味もあった。
 私は夏也の描いている絵を覗いた。そこにはまずナナコの顔が描かれていて、その下にコートが描いてある。そしてコートの上からベルトを締めている。
「このベルトの太さが難しいんだ」と夏也は言った。
「それとコートのデザインも。秋か冬の服をイメージしてるんだけど」
 そう言って夏也は、私が出かけている間に描いた絵を見せた。ベルトの太さやコートのデザインがそれぞれ微妙に違うのはわかるのだが、私には優劣がわからなかった。
「難しそうですね」と私は言った。
「そう。とても難しい。それと今回はベルトのバックルのデザインで何か遊べないかなと考えていて、そこも悩みどころなんだよ」
 夏也は、休憩しようかな、と言って持っていた鉛筆を置いた。そして寝室にいたソウとナナコを連れてくる。
「あの、私考えてたことがあったんですけど」
「ん?」
「イノリってブランド名って、もしかして好きだった人の名前だったんじゃないですか? 初恋の人とか。それか、ナナコっていうのがその人の名前」
 イノリが名前だというのは夏也に出会う前に思い付いたものだった。飼っているチャオの名前がナナコとわかった今では無理な予想だという気がしているのだが、もしかしたら当たっているかもしれないから、言ってみた。
「残念ながらどちらでもないよ」と夏也は言う。
「ですよね」
「ナナコはもしうちに女の子が生まれていたら、つまり僕に姉か妹がいたら、その子に付けられていた名前だよ。でも、イノリが好きな子の名前っていうのは近いかな」
「え、そうなんですか?」
「初恋の子が、中学生の時だったんだけど、いじめられて登校拒否してしまったんだ。その子、チャオが好きで、ヒーローチャオを飼ってた。僕もチャオが好きだったから何かしてあげられたんじゃないかなとずっと思っていたんだ。それでせめて僕の服が彼女や彼女みたいな人を喜ばすことができればいいな、と思った。そういう祈り、というわけ」
 つまりイノリはそのまま祈りだったということだ。そして、大人になってもなお彼が想っている初恋の子はどれだけ綺麗な子だったのだろう、と私は気になった。
 ナナコが夏也に頭を撫でられて、頭上の輪をハートマークに変えていた。
「祈りはたぶん届かない。祈るなんていっても、本当は何もしていないようなもの。そういう意味もあるかな。それに祈るだけなら、チャオの服を作りながらでもできるからね」
「その人は今どうしてるんですか」
「わからない。何も知らないから」
 変なの、と私は言った。未だに好きだから気にしているのかと思いきや、もう関心がないかのようにさっぱりとしている。もしかしたらさほど綺麗ではなかったのかもしれない、と私の関心も薄れていった。
 私が彼と離れ離れになるようなことがあっても、彼はやはり祈るつもりで服を作るだけなのだろうか。それはとても頼りない。しかしそれが彼の持っている無害な感じの正体に思われた。凄く近くにいれば抱き締めてくれるけれど、凄く近くじゃないと彼は何もしてくれずにチャオの服を作る。
「ねえ、電話番号とメールアドレス教えてください」と私は言った。
「いいけれど、突然だね」
「だってあなたは、ふらりとどこかに行ってしまいそうな感じがするから、心配なんです」
「行かないよ」
 私が見当はずれのことを言っているという風に彼は笑った。その通りだった。彼がどこかに行くのではない。けれど似たようなものだ。
 電話番号とメールアドレスを教えてもらって、私は彼と鎖で繋がったように思った。彼に首輪をして、その首輪から鎖が延びていて、私はその鎖を握っている。それは束縛するためのものではなくて、その鎖を強く握っていることでどうにか彼から離れないで済む、というイメージだ。強く握らないといけない。私は十一桁の番号を凝視して、記憶しておく。
 彼はナナコを抱き上げて、色々な角度からナナコを見ていた。ソウには構わない。休憩すると言ったくせに、服のことを考えているらしい。とても真剣な顔をしていた。私はソウと遊んでやる。私の真っ直ぐ伸ばした脚を平均台に見立てて、ソウはゆっくり脚の付け根に向かって歩く。上手くバランスが取れなくて、羽をぱたぱたと動かしている。
「ごめん、ナナコとも遊んでやってくれないか」
 夏也はそう言って、服のアイデアを絵にする作業に戻ってしまった。私は手招きして、ナナコをこちらに来させる。ナナコは私の脚の上を歩くソウを見ると、すぐにソウのやっている遊びを理解して、もう片方の脚の上に乗って歩き始めた。
「利口だね」と私はナナコに言った。しかしナナコも羽を動かしてバランスを取ろうとしている。落ちそうになっても、ちょっと飛んで体勢を立て直す。
「ナナコはピアノも弾けるよ」と夏也は言った。
「そうなんですか」
「寝室に電子ピアノがある。遊具なら、ボールもあるよ」
 私は股のところまで来たナナコとソウを抱いて、寝室に入った。探してみると、ベッドの下のタオルを入れているケースに隠れるように電子ピアノとボールが置いてあった。それを引っ張り出した。
 電子ピアノはチャオ用の玩具で、一つ一つの鍵盤が広めに作られてある。ナナコは弾きたいらしくて、ぴょんぴょん飛び跳ねて私におねだりをする。私は電源を入れて、ナナコの前に置いてやった。するとナナコは慣れた手つきで演奏を始めた。両手で交互に一つの音を出していく演奏であったが、きちんと曲になっていて、何か有名な曲を演奏しているのではないかと思うくらいだった。明るくて、気持ちのいい曲だった。
 凄いね、と声をかけてあげたくなったが、邪魔をしてはいけないような気がして私は黙っていた。ソウを見ると、物凄くだらしない顔をしてうっとりと聞き入っていた。
 演奏が終わると私とソウは一分くらい拍手をし続けた。ナナコは得意げな顔をして、拍手が収まるとすぐに別の曲を演奏し始めた。私は、ナナコと夏也は似ている、と思いながらその演奏を聞いた。

このページについて
掲載日
2014年12月31日
ページ番号
2 / 2
この作品について
タイトル
チャオの羽
作者
スマッシュ
初回掲載
2014年12月23日
最終掲載
2014年12月31日
連載期間
約9日