第一話 イノリ

 私はチャオに変身できる。服を脱いで、壁の方を向いて体育座りで座っていると、私は白っぽい肌色のチャオになる。私の背中を見た人はぎょっとする。それで人が離れていくのは本意ではないから、私はなるべく背中を人に見せないようにしている。
 私の背中には、チャオの羽が付いている。ニュートラルノーマルチャオのもので、それは私の両親がチャオから引きちぎって私に縫い付けたものだった。つまり本物のチャオの羽が私の背中にはあって、だけどそれは私がチャオだから付いているわけではないということだ。私の両親は私で遊ぶのが好きだった。私は目と鼻を整形している。未成年が整形するには親の同意が必要らしいのだけれど、私は親に強制されて整形をした。そういう風に、両親は私を自分たちの好きなようにいじくりまわした。整形して顔が可愛くなると、両親は私に羽を付けたがって、そのために野良のチャオを拾ってきて、羽を引きちぎったのだった。チャオはとても痛そうにしていた。私も羽を縫い付けられている間、とても痛い思いをした。その後すぐにチャオは死んでしまったが、それから三年経った今も私は生きている。
 チャオの羽は、熱を冷ますシートのジェルか、ぬいぐるみの腕に似ている。ジェルというのは、触った感触だ。服を着ていると背中の辺りにずっと体温と同じくらいのぬるい羽が密着していて、その感触が冷たくなくなったシートのジェルにとても似ている。そして羽はまるで生き物ではないかのように、まるでぬいぐるみの一部分であったかのように、腐ったり萎びたりすることがないまま私の背中にくっ付いている。羽を引きちぎられた時も、チャオは血を流さなかった。そういうところがぬいぐるみみたいだった。
 自分の手で羽を掴んで引きちぎることもできるけれど、そうしないのは、私の体にチャオの羽が似合っているような気がするからだ。親のしたことは最低だと思うし、親のことを憎んでいるけれど、私はこの体とこの顔が大好きだ。母親は美人で、私は彼女の白い肌と細くて長い体型を受け継いでいた。ぱっちり開く目を始めとして、美人で可愛く見える顔。二次性徴でできた腰のくびれや膨らんだヒップは、自分で触っていても楽しいと思うくらい心地いい曲線を描いている。私は私自身が凄く可愛くて、貴重なものであるということを、よく知っている。

 チャオガーデンのあるホテルに私はよく行く。最近は駅近くにある、地下にチャオガーデンのあるホテルに頻繁に行っている。住んでいるようなものだ。実際ここ十日のうち、七日はここに泊まっていた。ホテルのチャオガーデンのほとんどが部外者でも立ち入りできてしまう。だから私はまずそこでチャオと戯れながら、夜を共にする相手を探す。場所が場所だから、そのホテルに泊まっている男と寝ることが多い。
 このホテルを作った人はよほどチャオが好きだったらしく、一つのフロアが丸々チャオガーデンになっている。広いガーデンの真ん中に立って、私は周囲を見回す。チャオとも遊ばずに一人でいる人を探すのだ。私はというと、チャオを抱えているから、ただのチャオ好きの少女に見えないこともない。だけど私の抱えているチャオは、目印でもある。
 私のチャオはダークチャオだ。名前をソウという。ナイツチャオにしたくて、紫色のカオスドライブをやっていたのだが、どんどん黒くなっていった。ダークヒコウチャオでもいいや、似たようなもんだし、格好いいから。そう思って、そのままダークヒコウチャオに進化させた。チャオをダークチャオに進化させてしまう人にろくな人間はいない、と言われている。だから外でダークチャオを抱えて歩いているやつのほとんどは、自分はろくでもない人間だと主張したいやつだ。そして私の場合は、私がトウコという女であるという目印と主張するためにソウを抱えていた。
 ホテルのガーデンによくいて、ダークヒコウチャオを抱えている。それがトウコという女の目印で、一晩泊めてやれば安く買える。ネットの掲示板でそう書いたりしている。それで三人くらいゲットできたのだけど、それ以上に、私をダークヒコウチャオの女として覚えて、再び私を買うためにホテルのガーデンに来る人がいるのが大きかった。容姿がいいことと、寝床を確保するために料金にはこだわっていないことが幸いして、私は毎日ベッドか布団で眠れている。
 まるで遊びに混ざれない子供のように、チャオと遊んでいる人たちから離れてチャオを眺めている男の人を見つけた。とても退屈そうで、立って少し歩いては腰を下ろしてチャオを眺めていた。丁度いいと思ったから私は男の方に真っ直ぐ歩いていく。近寄ってくる私を、男はじっと見つめた。そんなに見つめて泊めてくれるんだろうな、と確信に近いものを私は持つ。
「チャオ好きなんですか?」と声をかける。男は見ず知らずの人間に話し掛けられたことに戸惑う様子もなく、
「いや、そういうわけじゃないけど、なんか暇で。面白いことないかなってぶらぶらしてたんだよ」と言った。
「ふうん」
「で、君は? 一人?」
「そう、一人。ついでに言うと、今日泊めてくれる人探してんの」
 私がそう言うと男のテンションは上がって、目がきらきらと輝くように大きく開いた。
「マジで? それって、家出中ってこと?」
「そうそう、家出。もう三ヶ月くらい帰ってないよ、家」
「三ヶ月! 本当に? なんか尊敬するわ」
 俺はそんなに家出できそうにない、と男は言った。やってみると意外とできるよ、と私は言った。私の場合は、意外と簡単だった。
「ちょっとわけありで上は脱げないけど、それでいいんなら、安くしとくよ。どう?」
 上を脱げないわけというのは、勿論チャオの羽のことだ。それを見ると、もうそういうことどころではなくなってしまうから、見せないようにしている。
「全然オッケー。俺着たままするの好きだから」と男は言った。このホテルの五○三号室に男は泊まっているらしい。宿泊客はチャオをガーデンに無料で預けることができる。それを利用させてもらって、ソウをガーデンに置いて私と男は部屋に行った。
 シャワーを浴びて、ベッドに腰掛ける。男は私の肩を抱くと、
「会社をクビになったから、旅行してみることにしたんだ」と言った。
「ずっと田舎暮らしだから東京に来てみたんだけど、こういうこともあるんだな、東京って」
 私は肩を抱いている腕に、私の羽が触れてしまわないか心配で気が気じゃない。近付いてくるようでいつ触れるかわからない唇に、
「じゃあ、私がいい思い出作ってあげるよ」と言ってこちらからキスをする。そして男を寝かせて、私は上に乗る。
 背中の羽を触らせないことばかり考えてしまうから、私は男の手を取ってパーカーの中に誘導する。男の手を私の腰に押し付けさせて、そこから徐々に上って胸を触らせてやる。おお、という顔をして男は指を動かした。裸を見せてやれないから、せめてもと思って下着を外しておいたのだった。胸に手のひらが押し付けられる。その手が背中に回らないように、私はその上に手を軽く重ねたままでいた。男の指が動くのを、手でも感じる。自慰をしている気分で、指の動きを感じる。大きいね、と男は言う。私は頷く。腰を前後に動かして、男の下腹部をさすろうとしてみる。興奮した男が私の思うがままの反応を見せると、私は安心して自分も楽しもうという余裕が出てくる。今日はここで眠れるとわかって強ばりの抜けた体を私は思いのままに動かす。こういうすかっとした気分の朝が幼少期にあったような気がする。

 私は五時に目を覚ました。なるべく早く起きるようにしている。羽のことを知られなければ、また泊めてくれるかもしれないから、隙を見せないようにしているのだった。男はまだ眠っていた。私も無理に起きているだけで、まだ寝足りない。一度目を覚ましたら、男が起きてくるまでは浅く眠る。横にならずに座って項垂れた状態で目を瞑る。授業中の居眠りのように。
 朝食をおごってもらい、お金をもらって別れる。朝食と夕食をおごってもらうのが理想だ。誰も掴まえられなかった時のためにお金はたくさん持っておきたいし、それに家出をしている身分のくせに私は物欲も結構ある欲深い人間だから、さらにお金を貯めておきたいのである。
 ガーデンに行ってソウを受け取る。ソウはまだ眠っていたから、私もその隣で少し眠る。吸い込まれるように眠っていくのを感じて、昼まで眠っていそうだと思ったが、目を覚ましたソウが私の頬をつついて、私は目を覚ました。私はソウを撫でて、餌をやる。ガーデンに生えていた木から取った実だ。半分食べてソウはもうお腹がいっぱいだと腹を叩くので、残りは私が食べる。実は柔らかくて、あまり甘くない桃のようだ。おいしいと思えばおいしいと言えるような味をしている。
「それじゃあ行こうか」と私はソウを抱き上げて、ガーデンから出る。
 私はチャオの卵や餌を売っている店に行く。そこにはチャオ関連のグッズが揃っていて、チャオの服も置いてある。ソウに服を着せたいとはあまり思っていなかったのだが、とても可愛いチャオ用の服があるのを見つけてしまって、それから興味を持つようになったのだった。特に、イノリというブランドの服が可愛くていい。チャオの可愛さと乗算するような勢いで、イノリの服を着ているチャオを町で見かけると、とんでもなく可愛く見える。他のチャオの服は、人間の服をチャオ用に縮めたようなものが多いのだが、イノリの服は人間の服から使えそうなところを切り取ってチャオ用に縫い直したかのような、大胆なアレンジが効いている。たとえば人間の服であればこそ自然に見える大きめのボタンをチャオ用の服に使うことで、人間のするお洒落をチャオがやっているという微笑ましい感じを生み出したりするのだ。もしソウに似合うのがあれば着せたいと思っているのだが、イノリの服はどれも白い肌のヒーローチャオに似合うように作られているらしくて、黒い色のダークチャオであるソウにはあまり似合わない。
 チャオの服には、どのチャオに似合うか書かれたタグが付けられているのだが、イノリの服のタグには大抵、ヒーローチャオ向け、と書いてあった。物によっては、ヒーローチャオの後ろに括弧が付いて、ヒーローオヨギチャオ向け、と書いてある物もあるくらい、イノリはヒーローチャオのために服を作っているブランドだった。私がこの店で最初に見とれたチャオの服は、黒いゴスロリ風のものだったのだが、それもヒーローチャオ向けと書いてあった。その服をヒーローチャオが着ているところを想像したら、溜め息が出るほど可愛らしい姿が浮かんできた。そしてソウに着せてもそこまで可愛く見えないこともよくわかってしまった。
 だから私は、いいなあ、と思って見ているだけだったのだが、最近出た新しい服はソウに着せても違和感がなさそうだった。赤いドレス風のワンピースをイメージした服で、胸元や袖口のフリルは可愛らしくもあり、ちょっと上品な感じもある。私は昨夜の金でその服を買う。どうしてもイノリの服をソウに着せてみたくて、ようやく似合いそうな服が発売されたので、買わずにはいられないと思っていたのだった。
 服は二万円もした。私は買ったイノリの服を早速ソウに着せる。チャオの服は、羽のあるチャオに着せやすいように、背中側にマジックテープが付いている。まず袖に腕を通させて、それから背中のマジックテープを留めるのだ。イノリの服は、このマジックテープの部分が目立たないように、その上に装飾を施したり布を被せたりしていて、そこも素敵だ。
 ダークチャオに赤い服は似合う。しかし服を着せたソウを抱き上げて眺めてみると、やはりヒーローチャオに着せた方が似合いそうに見えてしまう。
「ごめん、ヒーローチャオに育ててやれなくて」
 口元にソウを近付けて、そう囁く。
 今の生活のことを考えれば、育てるチャオがダークチャオに進化するのは当然のことのように思えるけれど、家出をする前から私の育てるチャオはダークチャオに育っていた。だから私は飼い主が悪人だとダークチャオに育つという俗説を信じていない。チャオはもうちょっと違う何かを見て、ヒーローチャオになるかダークチャオになるか、それともただのニュートラルチャオに育つか判断していると思う。そうであってほしいと思っている。
 欲しかった物を買うと、欲が満たされたせいか気分が安らいでしまって、眠くなる。コインランドリーで服を洗って、昨夜泊まったホテルに向かう。平日の昼間のチャオガーデンにはちょっとだけ人がいる。賑わうのは休日と、夕方頃だ。
 幼稚園生くらいの子供が騒ぐ他に、人の声は聞こえてこない。小さな声で会話しているのが遠くから聞こえても、何を言っているのかわからない。広いガーデンの中で、よそよそしすぎるまで私たちは離れた所に陣取って、交わらない。昼間のチャオガーデンは、自分の部屋のように私的な場所として使うことができる。それこそ服を脱いで寝転がっていたって、誰も何も言ってこないだろう。脱ぎはしないが、私はチャオガーデンでよく昼寝をする。ソウと遊んでやって、ソウが疲れて眠そうにしたらリュックサックを枕にして一緒に眠る。
 初めて服を着たソウは動きにくそうにしていた。服のせいで走りにくいようだった。羽は着る前と変わらずに動かせるらしくて、ソウは私の体によじ登って飛ぶと、私の頭や肩に掴まって一息ついてはまた飛ぶということをしていた。
 服を着たチャオが飛ぶ様が可憐なのは今更言うまでもないことなのだけれど、私には羽があるから、飛んでいるソウから目が離せない。私の背中の羽では飛ぶことができない。そもそも縫い付けられたものだから、自分の意思で動かすことさえできないのだ。
 飛ぶことができたら私はお前よりずっと綺麗なんだよ、と私は羽をぱたぱたと動かして飛んでいるソウを見つめ、声に出さずに呟く。
 飛び回ったソウと一緒に寝て、起きると十五時だった。これから徐々に人が増えてくるという頃だ。私は昼食を食べていなかったなあと思って、お腹が減っているわけではなかったけれど、近くのコンビニに行くことにした。
 おにぎりを二つと野菜ジュースをレジに持っていく。隣のレジでお金を払っている男を見ると、大きめのショルダーバッグを肩からかけていて、そのバッグからヒーローチャオが顔を出していた。男はペットボトルのお茶を買っていた。男は結構若い。二十代だと思う。コンビニから出てホテルに戻る道を、その男も歩く。私は男の後ろを付いていく形になって、まるでストーカーをしているみたいだった。ヒーローチャオが私とソウを見ていた。そして男はホテルのエレベーターに乗った。私もそのエレベーターに乗る。
 男の行き先はやはり地下のガーデンだった。エレベーターのドアを閉めると、男は私の方を見た。そしてエレベーターがガーデンに下りている間、私とソウを見ていた。私も彼を見た。彼は綺麗な人だった。害のなさそうな目と輪郭をしている。尖っていないのだ。その顔に見られていても嫌な感じが全然しないくらいで、悪く言えば何も考えないで生きていそうだと思ってしまうような柔らかい印象の顔立ちだった。ガーデンに着いてドアが開いたところで私が、
「さっきコンビニにいましたよね。私、隣のレジで買ったんですけど」とコンビニのビニール袋を持ち上げて言った。そして男と並んでエレベーターから降りる。
「ここに来るのも一緒なんて、なんか凄い偶然ですね」
「そうですね、凄い偶然」
 男はソウを気にしているようだった。ダークチャオだから警戒されているのだろうか。こちらには離れる気がないので、付いていく。男はショルダーバッグのヒーローノーマルチャオを抱き上げた。チャオは服を着ていた。白いレースの飾りが付いている黒のワンピースで、それは私の見たことのある服だった。イノリの服だ。
「それ、イノリの服ですよね」と私は言った。
「君のもそうだよね」
 気付いていた、と言わんばかりに男は言う。本当に凄い偶然じゃないか、と私は思ったのだが、直後に、
「それ、僕のデザインしたやつ」と言われて、凄い偶然どころじゃないと思い直さなくてはならなくなる。
「え、え、本当ですか、それ」
「うん。本当」
 凄い偶然、とまた言いそうになった。それ以上の表現が私には思い浮かばなかったのだ。超凄い偶然とか、そういうのしか浮かんでこない。私は馬鹿だ、と思いながら驚きのあまり目を丸くしていた。
「絶句してるね」とイノリのデザイナーの彼は笑った。
「はい。してます。驚くと言葉が出てこないんですね」
 正確には、今の気持ちに見合う言葉が浮かんでこない、という状況だった。彼は、驚きすぎだよ、と笑う。とても暖かい目で微笑まれたので、私は驚きのあまり頭が真っ白になっていたことにした。
「だって私、イノリの服好きなんです。でもこの子ダークチャオだからあまり似合わなくて、今まで買えなかったんです。でもこれなら似合わないこともないなあって思ったんで、今日買ってみたんです」
「確かにしっくりくるね」
 似合うとは言わない。やっぱりヒーローチャオに着てもらうつもりでデザインしたのだろう。私も、この服は彼の飼っているヒーローノーマルチャオに着せた方が似合うだろうと思った。なんといってもヒーローチャオにはフリルが似合う。
「ヒーローチャオ、好きなんですか?」と聞いてみる。
「うん。大好きだよ。君は?」
「私も好きですよ。可愛くて」
「そうじゃなくて、君はダークチャオ、好きなの?」
 私は首を横に振った。
「私が育てると、ダークチャオになるんです。無理にヒーローチャオとかにするのって変な気がして、そのまま育てました」
 好きなチャオはと聞かれたら、絶対にダークチャオを挙げはしない。ヒーローチャオとか、ナイツチャオとか、ソニックチャオと言うだろう。特に、頭の上に浮かんでいる球体に棘が生えるのが好きじゃない。ソウを可愛がっているのは、単に私がチャオを好いていて、ソウは私のペットだからであって、ダークチャオだから嫌うということではない。私がダークチャオに進化しそうだったソウにヒーローの実を食べさせなかったのは、自分のそういう気持ちを自覚していて、それを嘘にしたくなかったからなのだ。それに加えて、ダークチャオだと後ろ指を指されても怖くないぞと意地を張りたかったからという理由もある。
 彼はそういう私の気持ちを察してくれたのか、無理にヒーローチャオにするのは変だと言ったことに対して、
「純粋な考え方でいいね、それ」と言ってくれた。
「僕も似たようなことを考えていたよ。どうしてもヒーローチャオに進化させたかったけれどヒーローの実は使いたくなかった。なんか、ずるしてるみたいで嫌だったんだ。段々白くなっていることに気付いた時は嬉しかったな」
 羨ましい。いい人だったからヒーローチャオになりました、めでたしめでたし。そんな感じがあるのがとても羨ましかった。私は自分のことを悪人だと思っていなかったから、余計に。
 私が何も言わなかったせいだろう、
「ごめん」と彼は言った。
 この人は、チャオがヒーローチャオに育つ人が相手だったら、ずっと楽しそうに喋るのだろうなと私は思った。私がダークチャオを抱いていることに対する遠慮が鬱陶しいけれど、遠慮をするな、なんて不躾なことは言いたくない。だから、なんとしてもこの人と仲良くなるぞ、と思った。既に惚れてしまっていて、彼と親しくなることで私の中に何か大きな変化が起きるんじゃないかという予感があった。
 自分の心の内にあるものを喋ってしまったので言いにくかったのだが、
「あの、今夜泊めてくれませんか?」と私は言った。こういう話は、出会ったばかりで互いに相手のことを全然知らない時にした方が気楽なものだ。相手もそういう話だとすぐに理解してくれるから。
「泊めるって、君、家は?」と彼は返してくる。
「帰ってません。三ヶ月くらい。家出中なんです。だからこうやって泊めてくれる人を探してるんです」
「それって、よくないこと、だよね?」
 確認するように彼は言う。それがおかしくて私は思い切り笑った。
「確認するまでもなく、悪いことです」と笑いが落ち着いた時に言って、私はまたげらげら笑う。そんなに笑うなよ、と彼は言う。そう言われても、止まらない。私の笑いが止まるまで、彼は難しそうな顔をしていた。
「帰りなさいと言われて帰るくらいだったら、三ヶ月も家出してないよね」
 どういうことを言おうか、私が笑っている間に考えていたらしく、私が落ち着くなりそんなことを言う。
「そうです。帰りたくないんです」と私は力強く言った。
「もし駄目と言われたら、別の人を探します」
「そうだよね。そういうことになるよね」
 彼は、そうか、と呟く。この人は、私を泊めることを考えている。恐ろしい人間と出会って酷い目に遭う可哀想な私を想像しているのだろう。私はもう幸せを手に入れた気になっていて、一体何日ぐらい泊まれるだろうと考えてうきうきしていた。
「わかった。うちに来ていいよ」と彼は言った。
「やった。ありがとうございます」
 深く頭を下げて礼を言う。こういう優しさを持つ彼には今後たくさん甘えるだろう、と私は思った。しかし凄く甘い人だろうと思っていたら、
「あのさ、君はもしかして家で虐待か何か受けていたんじゃないのかな」と彼は言った。彼は確信していた。よくないことだよね、と聞いてきた時の頼りない感じがない。浮かれた気持ちが押さえ付けられた。
「そうですけど、どうしてそう思ったんですか」
「帰りたくないって言った時、嫌な過去を見ている目をしていたから、そうなのかなって」
「そんな目、してましたか」
「うん。怖い目だった。悲しい寄りの」
 そのように言われても、自覚はなかった。家のことをちょっと考えたような気はする。それだけで無意識のうちにそういう顔になってしまうのだろうか。
「話せと言われても困るのかもしれないけど、僕は知りたいと思っているっていうのは伝えておくよ」
 親と子が真剣に話し合ったらこんな風になるのだろうか。道徳的な話の気配を感じた私はむず痒くてたまらなくなった。強ばっていて異様に真面目な空気に付き合えない。
「これはよくないことだから、いつか正されなきゃいけないんですね」とちょっとふざけて言った。
「そういうことだね」
 彼の返答は柔らかくて、私はほっとする。
 彼は、ちょっと手伝ってよ、と言ってショルダーバッグの中の荷物を出し始める。チャオの服が数着、それとデジタルカメラとスケッチブック。
「そういえば名前まだだったね。僕は七井夏也」
「鳥井桐子です。その服って、全部夏也さんが作ったやつですか」
「そう。新作もあるよ。これ」
 夏也は新作の服を私に見せた。英語の文章のプリントされたTシャツと黒いカーディガンをくっ付けて、一着の服にしてある。一目で、格好付けている可愛いチャオにするための服だとわかった。Tシャツの文字がやけに格好付けているように見えるし、カーディガンの丈はちょっと長めにしてあった。さらに夏也は、これがアクセサリー、と言ってサングラスを見せた。紐が左右のつるの端に結んであって、首から下げることができるようになっている。
「サングラスも作ったんですか」と私は聞いた。
「これは子供用のやつを買ったんだよ。できればチャオ用にデザインしたいけどね。どうだろう、これ」
「似合うと思います。チャオが凄く可愛くなりそう」
 勿論似合うのはヒーローチャオだ。他のチャオよりも格好よさが少しばかりあるダークチャオに着せたらつまらなそうだ。
「うん、そういうイメージで作ったんだ。ナナコに着せてみたんだけど、結構よかった」と言って夏也はデジタルカメラの画面を私に見せた。ナナコというのは今彼の連れているヒーローチャオのことだった。服を着たナナコは案の定可愛い。
「でもチャオって色んな姿をしているから、他のチャオでも合うか試さないといけないんだよ。どういうチャオに似合うか書かないといけないし」
「タグのやつですね、ヒーローチャオ向けとか」
「そう。だからこうやってガーデンに来て、色んなチャオを探してるんだ」
 夏也は、私のチャオにこの服を着せてみてほしい、と言った。絶対似合わないです、と断るのだが、念のため、と食い下がられる。渋々承諾してソウに背中を向けさせる。着替えさせたソウを見せると、
「なるほど」と夏也は言った。
「似合わないでしょう?」
「そうだね。ありがとう。今まで、似合わないかもしれないチャオには着せられなかったから助かったよ。他人のチャオだと、素直に似合わないとは言えないでしょ」
「私もほぼ他人ですよ」と私は笑う。既に親しく思われているみたいで嬉しい。
「君が望むなら、しばらくうちにいてくれていい。その代わり、その子には似合わない服も着てもらうけど」
 それが対価ということらしい。まさか私ではなくソウが買われるとは思っていなかった。
「もしかしてソウが目当てで?」
「そんなわけないよ。でも泊まる代わりに僕の仕事を手伝うっていうのが健全なやり方なのではないかな」
「それは、そうです」
「君にも雑用を頼むかもしれないから、よろしく」と夏也は楽しそうに微笑んだ。
「はあ」
 爽やかだ。ヒーローチャオに似ていた。
 夏也は服をショルダーバッグに詰めて、ヒーローチャオを連れている人に駆け寄っては声をかける。その様子を遠くからソウと見る。ナナコを預かろうと思ったのだが、ヒーローチャオと一緒にいた方が話を聞いてもらいやすいと言って夏也は連れていってしまった。ナナコがヒーローチャオに育ってよかった、と私は思った。夏也が、ヒーローチャオに似ているのにチャオをヒーローチャオにできない運命にあったら、それは凄く気の毒なことだ。幸いにもチャオの進化は彼から何も奪わなかった。

 十七時にチャオガーデンを出て、私たちはファミレスに行った。おごるよ、と夏也が言ったので、私はコンビニで買ったおにぎりを食べないで腹を十分に空かせていた。ドリアとサラダとスープを頼む。一応遠慮して、どれも安いやつを頼んだ。夏也はハンバーグとライスを注文した。
 夏也は二十階建てのマンションの二階に住んでいた。一人暮らしの住まいにしては広いんじゃないかと私は部屋の中を見て思った。私が居候しても全く問題にならないくらいには広い。
 リビングのテーブルにはミシンが出しっ放しにされていて、部屋の一角にはチャオの服が十着くらい掛けてある。チャオの服は可愛い系のものばかりだから、ぱっと見ると女の子の部屋を過激にしたもののように見える。
「なんかお恥ずかしい」と夏也は言う。チャオの服をデザインする人としては真っ当な部屋なのだが、人の部屋としては変わっていることを理解していて、本当に恥ずかしそうにしている。
「凄い有様ですね」と私は言った。
「自分の服は飾っておきたいし、気に入っている服は服を作る時参考にするからいつでも見られるように飾るし、ナナコに着せる服もそこに掛けてるしで、ああいう風になってしまったんだ」
「へえ」
 私は掛けられているチャオの服をじっくり見る。イノリの服ではない服が多くて、店で見たことのない服もある。
「イノリのだけじゃないんですね。見たことないのがたくさんあります」
「個人で作って、ネットで売ってる人の服もあるからね」
「そういうのもあるんですか」
「これとかそうだね」
 そう言って夏也が取った服は、ダッフルコートだった。人の着るダッフルコートの留め具がそのまま使われていて、服のサイズに対して留め具がやけに大きいところは、イノリの服に似ている。似ていることを夏也に言うと、
「僕はこの服の影響を受けたんだよ。こうやって人の服のパーツをそのまま持ってきてもいいんだって、気付かされて。それ以来これの真似ばかりだ」と彼は言った。
「でもこの服はソウでも似合いますよ。イノリの服ってヒーローチャオのための服じゃないですか。ヒーローチャオをよりヒーローチャオらしくすると言うか。そこが違うと思います」
「ありがとう。そう、僕の夢はヒーローチャオに最高に合う服を作ることなんだよ。君とソウちゃんには申し訳ないけど」
「気にしてないです」
 そう言っておくけれど、もしソウが転生したら、あるいは別のチャオを飼うことになったら、ヒーローの実を食べさせてヒーローチャオに進化させようかなと私は思った。ダークチャオに似合うイノリの服が作られることはない。あってもそれは、彼が未熟だからそうなってしまった失敗作なのだろう。
 私は、私の好きな服を自分のチャオに着せたいという気持ちが強くなっているのを感じた。それはたぶん今日突然強くなったものではなくて、イノリの服を好きになってから徐々に育ってきたものだ。数時間前に純粋な考え方だと褒められたばかりだけど、私はヒーローの実を使ってでも好きな服を着せたいという欲求に負けた。もし今ここでソウが転生したら、私はヒーローの実を買いに行き、ソウに食べさせる。きっとそうするのだろう、と想像すると、夏也に聞きたいことが頭の中にぽんと出てきたので、聞いた。
「私を抱く気はないんですか?」
 どうしてその質問が出てきたのかよくわからないのだが、たぶん何かが繋がっているのだろう。繋がっている、という結論は私の中に存在していた。
 夏也は困った顔をしていた。私をそういうことから遠ざけるために泊めるという話だったのだから、そんな顔にはなるだろう。だけど私は、寝る場所を得るために抱かれようとして言ったのではない。これは恋だ。
「今日のところは、そういう気はないよ」と夏也は言った。
「じゃあ明日ならいいんですね」
「いや、そういう話では」
「それじゃあ明日、私の方から抱きに行きます」
 宣言したら急に夏也の顔を見られなくなって、シャワー借ります、と言って離れた。落ち着くまでシャワーを浴びようと思ったのだけど、タオルがどこにあるかわからなくて、仕方なくリビングに戻って夏也に聞く。上手くいかないものだな、と呆れた。夏也は寝室に私を招いて、ベッドの下にあるプラスチックのケースに入れてあるタオルを出して渡した。
「ありがとう」と私は言った。シャワーを浴びるまでもなく、呆れているうちに落ち着いてしまって、普通に夏也の顔を見ることができた。見られる、と思うと私はしばらくぼうっと彼を見つめてしまっていた。私は浮かれて、風呂場に入ると万歳をしながらシャワーを浴びた。

このページについて
掲載日
2014年12月23日
ページ番号
1 / 2
この作品について
タイトル
チャオの羽
作者
スマッシュ
初回掲載
2014年12月23日
最終掲載
2014年12月31日
連載期間
約9日