第六話 ページ4
——次の日の朝。
ワカバ殿の部屋で迎える朝は、それはそれは新鮮味に溢れる目覚めとなりました。
なんだか、旅行先で宿泊した旅館で目覚めたような、なんとも言えぬ感じです。
おはようございます、ワカバ殿。
「おはよう、あずき君」
僕より早く起床していたのでしょう、ワカバ殿はすでに着替えを済ませていました。
体調のほうは、どうですか。
「うん、もうすっかり治ったよ。あずき君のおかげだね」
僕は、お礼を言われるようなことは何もしていません。むしろ、ワカバ殿にはいくらお礼を言っても足りません。昨日は本当に楽しい一日でした。
ところで、カトレアさんはどこに行かれたのでしょう。
「ここだよ」
そう言って、ワカバ殿は布団を、ぺろり、と捲ります。
就寝時は、顔が隠れない程度に掛かっていたはずの掛け布団ですが、寝ている間に、もぞもぞとモグラのように潜っていったのでしょうか。
布団の真ん中ぐらいの位置で、穏やかな寝息を立てているカトレアさんがいました。その寝顔の愛らしさに、僕は天使を見た気がしました。
「起こさない方がいいよ。ご機嫌斜めのカトレアに怒鳴られたくなければね」
起こしませんとも。この愛らしい寝顔を見つめ続けていられるのであれば。
ワカバ殿が部屋を出て行き、起床したカトレアさんの右ストレートが僕の顔面に炸裂するまでの数分間、僕は幸せを満喫していました。
現在の時刻は、午後五時十分。
昨日に引き続き三人で楽しく過ごしてまいりましたが、そろそろタイムリミットです。
予定では、そろそろサナエ殿が迎えに来てくれるはずです。リビングにてサナエ殿を待つ間に、改めてお礼を言っておかなければ。
ワカバ殿、カトレアさん。本当に楽しいひと時でした。どうもありがとうございます。
「うん、僕たちも楽しかったよ。また遊びにきてね」
「二度と来るな」
カトレアさんの言葉の一つ一つが、僕の心に、忍びの放つクナイの如く突き刺さります。
昨日と今日で、僕の心に突き刺さったクナイの数は数え切れぬほど。その一つ一つが、僕にとって大切な思い出となっていくのです。
今回、僕はカトレアさんとの距離をぐっと縮めることができたと確信しております。次に会う時は、お互いの家族に紹介しあって、結婚を前提としたお付き合いに対する認可を頂いて、それから……。
「わーかーばー、あーけーてー」
おっと、お迎えが来たようです。案の定、呼び鈴は不使用でしたね。
ぱたぱたと、リビングから玄関へ移動するワカバ殿。その後を、僕とカトレアさんがぽてぽてとついていきます。
ワカバ殿が、ゆっくりとドアを開けました。僕を迎え入れてくれた時と同じように。
「おっすワカちゃん。あ、あず君。元気だったー?」
扉の向こうにいたのは勿論、いつもと同じ快晴降雨率0%の輝く笑顔を浮かべた、サナエ殿です。
ワカバ殿への挨拶もそこそこに、ワカバ殿の足元にいた僕を、サナエ殿が、ひょい、と抱き上げます。
僕は、とっても元気ですよ。
「元気なのはいいけど、迷惑かけなかった?」
失敬な。品行方正なチャオであると自負しております。
「迷惑なんて、全然。カトレアとも仲良くしてくれてたし」
ワカバ殿がそう言った瞬間、ワカバ殿の足元にいたカトレアさんは『あぁ!?』と素っ頓狂な声を上げて、昨日のように台風の如き勢いで食って掛かります。
「私がいつ! コイツと仲良くした! そんな瞬間、無い!」
「二人で本読んでたじゃない」
「み、見てたのか!」
「ちょっと、ね」
恐らく、ペアルックや帽子のことなどを、カトレアさんとお話していた時のことでしょう。でしょう。二階に上がった振りをして、または忍びの如く物音立てずに二階から降りてきて、こっそり覗いていたのでしょう。
恐るべし、ワカバ殿。
覗かれていたと知ったカトレアさんは、その勢力をますます拡大して、ワカバ殿の足をぽてぽて殴り続けています。
「ごめん、ごめん」
そこまで怒られると思っていなかったのか、ワカバ殿は苦笑を浮かべて、カトレアさんを、ひょい、と抱き上げます。そして、両手を伸ばしてカトレアさんとの距離を開けます。
振り回される手足がワカバ殿に届くことはありませんが、それでもカトレアさんは、ワカバ殿の手の中でぷんぷんと暴れ続けます。怒っている姿も素敵です。
「ま、まぁとにかく、あずき君のことはしっかり預かっておいたから……。ね、あずき君」
えぇ、それはもう。
とても楽しい時間を過ごさせてもらいました。
「うん、ホントにありがとね。あと、何があったか知らないけど、女の子怒らせるようなことしちゃ駄目だよ」
そう言ったサナエ殿の視線の先には、動き疲れて息を切らせたカトレアさんの姿があります。
ワカバ殿はばつの悪そうな顔で、
「う、うん……」
と、呟くのが精一杯のようでした。
「じゃ、ワカちゃんもカトちゃんも、ホントにありがとね。おばさんにも、ありがとうございましたって言っといてねー」
本当にありがとうございました。カトレアさん、またお会いしましょう。
サナエ殿の歩みに合わせて、僕の視界は揺れ、背中越しに感じるワカバ殿とカトレアさんの視線が、徐々に弱くなっていきます。
曲がるべき曲がり角に差し掛かると、サナエ殿は振り返り、玄関前で僕たちを見送り続けているワカバ殿に向かって手を振りました。
僕も、サナエ殿の腕の中で小さく手を振ると、ワカバ殿も手を振り返してくれました。早苗殿が再び歩き始めると、その姿は見えなくなりました。
今回の出来事で、僕のカトレアさんに対する想いは、さらに大きく燃え上がるものとなりました。
熱く、さらに熱く。愛の炎は僕の心でバックドラフト現象を引き起こし続けているのです。
しかし、ほどほどにしておかないと、カトレアさんに恋焦がれるがあまり、己の身をも焦がしてしまうかもしれませんね。
ほら、さっきからなんだか頭がぼーっと……。
…
…
「……カトレア、まだ怒ってる?」
「……」
「その、悪気はなかったんだ。ただ、二人で何してるのかな、って、ちょっと気になっちゃって」
「……」
「ごめんね。お詫びするから。……何か欲しいものとか、ある?」
「……」
「カトレア?」
「……じゃあ……その……」
「うん」
「の、覗いた罰として、その、連れてけ!」
「連れてくって、何処に?」
「……帽子、売ってるトコ」
…
…
——早苗に抱きかかえられたあずき君を見送った、次の日。
「何で私まで! ワカバだけで行けばいいだろ!」
「カトレアも来た方が、絶対喜ぶって。あずき君、お熱だから。……その、カトレアにも、病状的にも」
あずき君を、無事に早苗に元に送り返して、めでたしめでたし——とは、いかなかった。
今日の朝、早苗から電話があった。『あずき君が風邪で寝込んでる』と。
それを聞いた瞬間、僕の背筋は凍りつき、得体の知れない悪寒に打ち震えた。
風邪は完治したのにも拘らず、である。否、この悪寒は風邪が完治したが故のものなのだろう。
……ぼ、僕の風邪がうつっちゃったのかな……。
人とチャオの間で風邪などうつったりするのだろうか、などという疑問も浮かんだが、何せ、昨日の今日である。
とにかく、お見舞いに行こう。カトレアも連れて行けば、きっと喜ぶだろう。
そう思ったのだが、カトレアがお見舞い同行に難色を示していて、今こうして玄関で靴紐を結び直しながら交渉中、というわけだ。
「ね、一緒に行こう。ほら」
そう言って、あるものを差し出す。
受け取ったカトレアは、『うぅ~』と受け取ったものを抱きかかえて唸っていたが、僕の執拗なお願いにとうとう根負けしたようだ。
「行けばいいんだろ、行けば!」
そう言って、抱きかかえていたものを乱暴に頭に装着する。
ちょっと無理矢理な気がしないでも無いけど、とりあえずカトレアも連れて行くことに成功したようだ。
「ありがとう。きっと喜ぶよ」
靴紐を結び終えた僕は、自分の膝の上に置いておいた物を両手で持ち上げ、カトレアと同じように頭に装着した。
「じゃ、行こっか」
カトレアを抱き上げ、玄関のドアを開けて外に出る。そして、早苗の家を目指して、歩き始める。
頭には、早苗とあずき君を見送った後に二人で買いに行った、カトレアとお揃いの帽子を被って。