あいなし。
私は狼狽していた。
そう、数分前、黙って歩き続ける彼を交差点の角で見つけた。
何の連絡もよこさず、しばらくの間会っていなかったので、私は人ごみをよけつつ、思い切って彼に声をかけた。でも、何の反応も見せないどころか、ただただ、無言で歩を進めるので、私は小走りになって彼を追いかけていたのだ。
そして、今。
目的地らしきところに、着いた所である。正直なこと言うと、
「ウソでしょ?」
確かに、以前女の子ばっかりの喫茶店や雑貨店に悪戯心ながらに彼を何度も連れまわしたことはあったけれど、こんな仕返しをされるとは思わなかった。
18歳以上禁止のロゴがプリントされたピンク色のカーテンを、抜けた先は、不思議な世界でした。ってね。
またの名を、AVコーナーともいうけれど。
ここも、女の子ばかりといえばそうだけど、意味がまるで違う。
しかもこれが個人店じゃなくて、TATSUYAというのがまたいやらしい。
毎日のように連絡していたのを急にブッチして、こちらを心配させて、まるでおびき寄せるかのようにこの場所まで連れ込んでくる。そうして、後から私を責めようとしても『え? だってお前が勝手に付いてきたんだろ?』と言えば、それでOKだ。
大衆の前で、自分に責任が来ることなく、彼女に恥をかかせるとは、なかなかうちの彼氏も不甲斐ない中にキラリと光る才能をお持ちである。
「ふ、ふん、こんなことでヨゥちゃんに屈して溜まりますか!」
「あっれ~、いつになったら返ってくるんだよ? あの女優、結構気に入っていたのに」
私の小言を鮮やかに無視して、彼はガサガサとAVの陳列棚をあさり始める。
そんな様子を見ていて、私も少し気になり、適当に周りを見渡してみる。
タイトルは、昔ながらの「家庭教師」とか「女子校生」とかいうオーソドックスなモノから、「世界ブルルン滞在記(洋モノらしい)」とか、「ガキの援交やあらへんで!(関西弁ギャルのテクが上手いというコンセプトらしい)」など、明らかに焚書坑儒(?)しても怒られないモノまでバリエーションが豊富である。
ヨゥちゃんはその中で、ただただ自分の欲しいAVが見つからずに、気になったものを出しては入れ、出しては入れを繰り返していた。
最近はフォトショ加工とかも精密になっており、ジャケ買いすると痛い目にあうと、彼が前、豪語していたことを覚えているが……。
――そういう問題以前に。
「ごめん、謝るから! もういい加減に帰ろうよ! 恥ずかしくて私、周りが見れない」
「駄目駄目。こんなんじゃぁ、俺の気が収まらない」
やっと言葉だけは返してくれるが、それだけで、私の話を聞く気は一切ないらしい。
しばらく逡巡した後、今度は語気を強くして、彼に迫る。
「ヨゥちゃんの気はどうでもいいんだよ、私がここにいると辛いの!」
「ハハ、やるだけやっておいて、逃げてばっかりじゃあ、俺の好みになれないぞぉ?」
「うっ、……」
たまにこうはっきりとモノを言うときがあるので、私の彼氏は侮れない。
あー、こりゃ完全に仕返しされてるなぁと、思わずベロを出して見る。
……だけれども、このいかがわしい場所で、いかがわしいAVのジャケを見ながらで、それを言うのはどうかしている。
結局、その後も、彼は一人で淡々とAVコーナーを回っては物色し続ける。
そして、それに黙んまりとしながら追従するうちに、いつの間にか先ほど彼が初めて見た戸棚の所まで戻ってきていた。
彼ははあ、と、溜息をついて、やれやれとするかのように両手をひらひらさせる。そこには一枚のDVDも握られていなかった。
「まぁまぁ、そんな落ち込まないでさ、また、良いの見つかるって!」
「……ハハ」
それ以前に私のことはどうしたー!! と一言突っ込みたかったが、あまりにもその雰囲気が陰鬱としていたので、思わず文句を殺して、慰めの言葉をかけていた。
彼が、見ていたのは人気AV女優のコーナー。
そう言えば、先ほど、お気に入りの女優がいると言っていた気がするが、……って、だから、これは、絶対私に喧嘩を売っているんだってば!
――突っ込みたい、しばきたい。
もうそろそろ、口を割らせよう。前のことはごめんね、と謝るのさえ癪になってきたので、私は思い切ってその右腕を振りかぶった。
「愛が、無いんだよなぁ」
「へっ?」
スカッと言って、腕が空を切る。
彼の顔をじっと見てしまったせいで、どうやら外してしまったらしい。
ヨゥちゃんの顔はいつもは絶対に見せることのない苦虫を噛んだような表情をしていて、私はあっけにとられたまま、その理由の在るところを探す。
その答えは、すぐに分かった。
「中谷、愛……」
「もう、かえって来ない事くらい、俺かって分かっているんだけどな」
「あぁ、なるほどね……」
噂では聞いたことある、最近のAV界でその名をとどろかせている、仲谷愛。
そのウェスト=バスト間の高低差が30以上あり、驚異の美乳と美尻を持つ、白肌の黒髪の、目がくりくりした、究極の女性は――TATSUYAの宣伝にそう書いてあっただけで、私がそういう評価をしたわけじゃないけど――ヨゥちゃんのストライクゾーンに5ストライクしていた。
ただ、その横の注意書きによると、そのストライクゾーン多し魔女のDVDは彼女が即引退を宣言して新作が出なくなってしまったためか、ここTATSUYAでも、大量に借りパクされているようで、いろいろと問題になっているそうだ。
ランキング一位に輝く彼女の棚は、まさかの空虚と化していた。
「あららァ……」
同情をこめて、残念そうに私は声をあげる。
友人いわく、彼女持ちでもAVは見たくなる、とのことなので、別に本気になるほど怒るつもりはなかった――彼がAV女優を名前で呼ぶのにはちょっと引いたけど――
私は、その大人気な美顔を一瞥して、舌打ちをした。
あ、いや、……別に、AVに嫉妬しているわけじゃないんだからね!
AVコーナーから出てきて、ついに手持無沙汰のままだったヨゥちゃん。彼は、軽くため息をつくと、白い蛍光灯が縦横無尽にめぐらされている天井を見上げた。
「あーぁ、今日は、何もせずに寝るか」
「そうそう、それが一番だよ、ヨゥちゃん」
やっと仕返しから解放されて、私の声も上ずっている。
「今日は、もう、何もせず、に……」
突然、その声が良く聞き取れなくて、ひょいと、彼の顔を確認する。
いつの間にか、ぽろっぽろっ、と彼の目から涙がこぼれ始めていた。
「え、ちょっと……」
――何故か、それを見た瞬間、言いようもない痛みに一瞬駆られたが。
そんなバカな、と、あわててカバンから、ハンカチを取りだす。
「あぁ、あくびだよ、気にしないで」
「え、あ、そうなんだ……」
でも、私がそれを渡す直前になって、彼は既にその袖で涙を拭き取っていた。
小さい女の子が心配そうに彼を見ながら、こちらを通り過ぎていく。
「もう、あんな小さい子まで心配させて、そんな顔で涙なんか流すから! 紛らわしいなぁもう!」
直接関係はないのだが、少し恥ずかしさを感じた――もしかしたら、別の何かを紛らわしたかったのかもしれない――ので、怒り調子で彼をたしなめる。
「でもさ、愛が無いって、結構辛いんだぜ?」
「あー、うるさい! そんなしょうもないこと、いつまで引きずってんのよ、バカ!!」
目的のAVが無かった、だなんて、理由が本意であるとは思えなかった。
何となく、私と彼の態度が、急に、隔離されてしまったというか、違和感が生じたように思えた。さっきまでは、普通に会話をしていた――そうだっけな?――のに。
……それにしても、自分から仕返しをしておいて、自分だけテンションだだ下がりとは、良い迷惑だ。
「でも、ま、今日だけは、仕方ないか」
そうやって、納得させるようにして、呟く。
「……ありがと」
感謝の言葉は、仕返しにノッてくれてありがとうか、他意があるのかは分からないけれども。
いつもは沢山優しくしていてくれるから。
たまには、こういう日もあるということで。
彼氏の何とも間抜けで奇怪な仕返しショーに、私はすこしはにかみながら、呟いた。
――もう、どうしようもないんだから。
* * *
「あっれ~、いつになったら返ってくるんだよ? あの女優、結構気に入っていたのに」
強がって、あっけらかんな調子を装ってみる。
女優、と言うのはAV女優の事で、俺はまだ「あのとき」から数週間もたっていないのに、この場へ足を運んでいた。性欲とは恐ろしいもので、時間がたてば容赦なく俺の衝動を駆り立てていく。
最初は我慢した。自分だけがこんな欲求に絡まれちゃ申し訳が立たないと。
でも、いつの間にか、俺はここにいた。
ネットの動画は質が悪いし、書籍系の奴は全部廃品回収に出してしまった。彼女との「あれ」を考える、と言う手もあったけど中学生臭くて、途中でほっぽり出してしまった。
そのとき、中途半端に刺激してしまったから、もはや、俺の頭の半分からは理性が消えているのかもしれない。
AVコーナーに入って、最初に思いついた名前は「中谷愛」だった。
それで、TATSUYAの人気女優コーナーの所を一番にのぞいてみたのだが、どうも棚の中はガラガラで、あてにしていた「中谷愛」のコーナーには一枚もDVDが置いていなかった。クリスマス、正月と、年末年始を一人で過ごすためのお友達ってやつか。畜生。
仕方ないので、その他のAVが陳列されている棚の方を漁ることにする。なんだか情けない姿だ。彼女がここにいたらきっと恥ずかしくて帰りたい、とか言いだすに違いない。
「駄目駄目。こんなんじゃぁ、俺の気が収まらない」
独り言をつぶやきながら、なおも良いAVを借りようと血眼になる自分は、はたから見てもおかしい人間だ。
でも、こうやって女性を自分が選んでいるような優越感に浸っていると、彼女と付き合っていたことに対して罪悪感が湧いてくる。その感情が、なんだか彼女の事を自然に忘れられる気がしてきて、かえって心地良かった。
――無数のDVD入れの中から、とある一つに目が行く。
エロゲじゃあるまいし、AVにしては珍しく、しっかりとしたストーリーがあるAVだった。どうせ、男は性交していることしか考えていないのに、この女優は良くやると思った。
女は真面目な高校に通う優等生な女の子。母親からそのことについてうるさく言われ、家出。そうして、街で出会った、軽そうな男と……という設定。でも、だんだんと態度がエスカレートしてくる男に愛想を尽かして、また家出。今度は妻子持ちのサラリーマンに目を付ける。でも、それも奥さんが乗り込んできたことで……、以下、エンドレス。
借りてみようか、と思ったけれど、こう言う尻が軽いというか、打たれ弱いというか、自分から逃げておいて、たぶらかしておいて、すぐ乗り換える、と言う主人公に感情移入が出来なかった。
「ハハ、ヤるだけヤっておいて、逃げてばっかりじゃあ、俺の好みになれないぞぉ?」
相変わらずの独り言を漏らして、DVDの中の主人公に突っ込みを入れると、それをまた裸が姦しくせめぎ合っている棚の中に押し戻す。
……俺の彼女は、この主人公とは違って、あっけらかんとしていた。
後、変なところで粘りが強くて、俺も良く女の子ばかりの店にひっぱりまわされた揚句、おごらされたこともある。
でも、俺が一度決めたことは、あっさり了承してくれて、そしていつでも味方でいてくれた。恋人だからか、と聞いた時には、いや、ただ応援したから、とあっさり答えられてしまったことも、良い想い出だ。
「……ハハ」
結局、好きになれそうなDVDは一枚も見つからず、さっきと同じように、カーテンの入り口近くの所へと戻ってきてしまう。
なんだ、駄目じゃないか、俺。
早く忘れてしまえよ、股広げて商売するっていう女だけでもこんなにたくさんいる。大学とかでいくらでもいるだろう、近場で女見つけるのが嫌ならバイト先でも、近くの高校でもいいじゃないか。友達からも慰め半分で合コンとかに誘ってきてくれるだろ? それいいだろ? こんなに性欲だけ有り余っているくせに、頑固な奴だ。
新しい恋が生まれたら、万々歳だ、ハッピーエンドだ、俺は――
「愛が、無いんだよなぁ」
――何故に、そんな陳腐な理由を盾に、拒み続けるんだろう?
彼女が忘れてほしくないと、天国から手紙が届いたんだったらそうする。でも、もう会えない人に対して、その記憶を強くとどめておくのは、正しいことなのか。
切ないだけじゃないか。
情けないだけじゃないか。
「もう、帰って来ない事くらい、俺かって分かっているんだけどな」
カーテンをくぐり、今度は子供に見せても安心な恋愛映画やSF映画のDVDが所狭しと並んでいる。
後から、HR/HMのCDでも借りて帰ろうか。とも、想ったけれど、他人の間をかいくぐってまで、目的の陳列棚まで行く気もなく、足は自然と出口の方へと向かう。
「あーぁ、今日は、何もせずに寝るか」
つよがりな俺が頭の中に出てくるのを抑えられない。
一人になろう。独りになろう(嫌だ)
そうすれば、俺がいなくなるだけだ(嫌だ)
誰を失うこともない。それは、とっても楽な生き方だ(嫌だ、嫌だ)
楽な、生き方だから――
「今日は、もう、何もせず、に……」
頬と目元の間に、じんわりと水分が満ちていくのが分かる。人肌の暖かさまで熱せられたそのダムは、やがて決壊し、頬を流れていこうとする。
ふと、下の方に人の存在を感じて、目線を映す。
小さな女の子が、何か心配そうな目で俺の方をじっと見つめていた。
……こんなコに心配されるようじゃぁ、俺もまだまだ、ガキなんだな、と。
「あぁ、あくびだよ、気にしないで」
絶対に信じてもくれなさそうな言い訳を、情けない声で朗読して、俺はそれ以上その女の子の目を見ることはできなかった。
信じたのか、呆れたのか、少女はそのあと何も言わずに俺の足元を通り過ぎて行った。
出口の方に、彼女の両親らしき人物が二人いる。まるで、並行世界――もしも、俺と彼女が結婚していたら、なんて自惚れかもしれないけれど――を見ているようで、胸がギュッと締め付けられる。
「でもさ、愛が無いって、結構辛いんだぜ?」
誰に言うでもなく、言い訳を口に漏らす。
この目に見える世界は、いつでも残酷なモニターだ。
からりと乾いた外の空気は相も変わらず冷たい。
街はただ、新しい年を迎えようと、テンションをあげる人々に包まれている。
手を繋いで、笑いあって、B級バンドの考えそうな歌詞の中身は全部やってきた。
今考えると、やっぱりB級から抜け出せない二人だったんだろうけど、そんな偉そうな立ち位置にいる方がよっぽどかわいそうな人間だと言うことに、気付いた。
――数日前だった。
突然、俺の目の前から、その姿が消えたのは。
激しい衝突音、雪でスリップしたトラックが交差点角の歩道にのめりこみ、プスプスと情けない音を発して黒煙を吹いていた。
だから、俺はその時、別れ際走り去るその姿が、それに巻き込まれたんだと知った。
そして、その姿が、自分の目の前に現れることは、二度と、無い。
本当はそばにいるのかもしれない。幽霊なんて一度も信じたことはないけれど、今でも隣で笑っていてくれる気がしてならない。もしも、本当に幽霊になれるのだとしたら、あの性格だ、きっと、こんな甲斐性のない俺を心配して、付き添ってくれることだろう。
空は水色に灰色がかった、寒色の色に覆われている。
そんな空を見たからだろうか。心なしか、俺の周りを温かい何かが動きまわっている気がする。
温かい何か……いや、もしかしたら……もしかするかもしれない。
「……ありがと」
でも、それだけ。
それ以上は、考えないでおこう。
――もう、どうしようもないんだから。
(了)