ゆうげんの愛情

 重みのない空から雪の粒が降ってきた。雪の粒がシャボン玉みたいに道路に浸っていく。次第にコンクリートが白く移ろいゆくのを見て、今日は積もりそうだと思った。
 ぶるる、と震えている赤いチャオに、私はスーツケースから折り畳み傘を取り出して渡した。赤いチャオはにこりと笑ってそれを受け取ると、静かに傘を差した。雪の降る音さえ聞こえる静けさに、しばらく私と赤いチャオは二人きりで浸っていた。肺の奥がむず痒くなり、私はたまらずに煙草を吸い始めた。ぐうっと奥まで煙を吸い込んだあと、ふう、と白い吐息で「わっか」を作る。赤いチャオはその「わっか」を見てきゃっきゃとはしゃぎ始める。今まで多くのチャオに出会ってきたけれど、どのチャオもみんな「わっか」を見てははしゃいでいた。生き物としての習性なのかなと私は苦々しく思った。
 携帯電話が鳴った。同僚の山田からの着信だった。私はそのまま「切断」ボタンをタッチして、通信を切った。画面を見ると他にも何件か着信は来ていて、そのどれもが同僚や後輩からの連絡だった。誰にも相談せずに辞表を出して会社を辞めてきてしまったから、きっと心配されているのだろう。そう思うと決断が鈍りそうにもなるが、赤いチャオの寂しそうな表情を見て堪える。
 チャオはたまに、とても寂しそうな顔をする。それは私が「普通の表情」をそうだと思い込んでいるのか、ひょっとすると「わっか」にはしゃぐように何らかの習性が関わっているのか、詳細は分からない。けれど私はその表情を寂しそうな顔だと認識している。チャオがそういう顔をしたとき、私はいつも頭を撫でてやった。それがどういう作用をもたらすのかは分からないけれど、そうすることでチャオと私は確かに通じ合っていたのだった。
 そういえば、昔の恋人も同じように寂しそうな表情をする時があった。それは時たまある意見の食い違いであったり、感情の行き違いだったりが原因であることが多かった。話し合うことで解決することもあったが、大抵の場合、夜通し互いの熱を確かめ合ってから納得していたように思う。言葉を交わすよりも体を交わす方が早く済み、確実だった。言葉は時に無力なのだ。いつからか言葉よりも体の繋がりを私は重視するようになっていた。
 だからというわけではないが、私はいつの間にかチャオに声をかけることを忘れていた。私がチャオを飼い始めたのは中学生の頃だったが、当時は四六時中チャオとの会話を楽しんでいた。その多くは他愛のない話であったしチャオに通じるはずもないのだが、当時の私からしてみればそれは自然な行動で、つまりは愛情表現だったのだ。チャオも会話を楽しんでいるように見えたし、今になって考えてみると、やはり言葉を交わすことも必要だったのではないかと思う。
 赤いチャオが大あくびをする。穏やかなその仕草からは、不満や苦悩は感じ取れない。しかしチャオも人との触れ合いがなければ死ぬのだ。人は他人と触れ合わずとも死ぬことはないが、チャオは死ぬ。今更ながら私はかつて別れた恋人のことを思い出していた。恋人は共にあるべきだという考えを持っている彼女と、互いの生活の充実を重視する私とでは日頃受けるストレスの量が違っていた。会っていない間も彼女は常にストレスを感じていて、それが私にとっては大きな負担だった。恐らく私の行動によって彼女の心は摩耗し尽くしてしまった。だからこそ彼女は救いを求めて他の男に走ったのだ。摩耗した心を修復するために。
 それでいて尚、人は死ぬことはない。ともすれば、チャオは生きている間、どれほどのストレスと戦っているのだろう。動物の性という考えに至る私の脳が、私は憎らしかった。チャオにも心はあって、人が必要なのだと、そう思い込みたかった。
 気が付けば煙草の灰がぽつりと落ちていた。積もった雪に穴をあけて、じわりと溶け込んでいく。
 ちゃんと話し合えるきっかけさえあれば、と思った。
 必要な時に傍にいる、ただそれだけの難しさに私は悔やみ切れずにいた。


 八百屋を経営する加藤さんが私を見つけて駆け寄ってきた。
「藤村さん、お久しぶりです」
 無言で会釈を返す。加藤さんはそれをおかんむりだと解釈したようで、二言目には謝罪の言葉が紡がれた。
「いえ、こちらこそお気遣いいただいて。今日は八百屋はよろしいのですか?」
「ええ、あいにくの天気ですし、私の家にはスズランがいますから」
 まるで我が子を誇るかのように、彼女はその名前を告げた。八百屋の看板娘であるスズランは商店街ではそれなりに有名なチャオだった。常に笑顔を絶やさない様は、確かに微笑ましい。
「奥さんがお忙しい時、スズランの世話って、どなたがされているんです?」
「娘ですよ。夫に似て良い子に育ってくれたので」
「娘さん、チャオに話しかけてます?」
「そうなんですよ。夜中とかうるさくてねえ。お仕事は、これからどうされるんですか?」
「まだ何も。伝手もないので」
「困ったらうちにきてもいいんですよ」
 そうさせていただきます、と答える。加藤さんは何度か赤いチャオを見て怪訝そうな顔をしたが、そのことには特に触れずに世間話を二、三分して去って行った。赤いチャオは去っていく加藤さんの後ろ姿を見て首を傾げていた。ぽんぽん、と頭に触れると、赤いチャオは笑顔を見せた。
 私にとって、チャオがいることは必要だったのだろうか。必要ではないから重視しなかったのだと私は結論付けた。しかしこうして傍にいることで、赤いチャオが微笑むことで、私はそうではない、と思い直した。
「寒いかい。これで温まりなさい」
 マフラーをそっとかけてやると、赤いチャオはマフラーの温もりにしがみつくようにしていた。伝わっているじゃないか、と思った。雪が強まってきて、景色が次第に白く染まって行った。肌は凍えるほど寒いのに、目の奥は焼けるように熱かった。
 携帯電話が鳴った。山田からの電話だった。私は通話ボタンを押して応答した。
「もしもし」
「何、藤村、おまえ急にどうしたの。何かあったなら言えよ。今どこにいる」
「ごめん、仕事辞めるんだ」
 ごめん、ともう一度謝ると、軽い沈黙の末に、山田は続けた。
「いや、本当か。もう決まってるのか。何でだよ。せっかく企画通ってさあ、これからだって時なのによお」
「うん、色々あって」
 二本目の煙草を吸い始めて、吐息で「わっか」を作る。雪が次第に弱まって行くのが見えた。電話の向こうで山田のすすり泣く声が聞こえて、私は思わず笑い声をあげてしまった。
「大の男が泣くなよ」
「だってよお」
「大丈夫だって。何とかなるよ、企画」
「おまえ、仕事好きだったじゃねえかよ。何で急に」
「飼っていたチャオが死んじゃってね。まあ良い機会だし、ちょっと旅行にでも行きたいなって思って」
 それでも山田は納得していない様子だったが、私が折れないということを分かると、後日送別会を開くと言い残して通話を切った。後ろ髪を引かれる思いで、私は携帯電話をポケットにしまった。
 愛情をもって育てていたつもりだったが、私のチャオが七回目の転生を迎えることはなかった。それはきっと言葉の力を軽視したせいでもあるし、私が仕事ばかりにかまけていたせいでもあるのだろう。有限の愛情を私は何に注げるべきなのか少し迷っていた。声をかければ返ってくる、ただそれだけのやりとりを私は未だ求めずにはいられなかった。
 水しぶきの音がした。雪が雨に移ろいゆき、煙草の吸殻が道路に落ちて、ようやく私は一人きりであることを思い出した。

この作品について
タイトル
ゆうげんの愛情
作者
ろっど(ロッド,DoorAurar)
初回掲載
2014年10月31日