その水を愛せよ

 綺麗な水辺でしか生きられない、にしては随分と薄汚れていると思う。ついでに作りが雑だ。生態とか。謎が多いくせに破綻が無い。かなり雑だ。手間がかからないのは有難いとはいえ。

 雑居ビルの三階、借りて五年になる部屋の窓から西日が射している。打ちっ放しの床に据え付けられたフェンスの輪。せいぜい四畳半ほどのスペースに、チャオが群れている。
 その狭い円の一角へ、俺はボウル一杯のドッグフードを流し込んだ。「うー」だか「きゅー」だかわからない声を上げて、十匹ほどのピュアチャオがわらわらと群がる。まだ歩けるほどの「緑」をやっていないため、全員ハイハイで移動していた。管理が楽でいい。
 座り込んでぽりぽりフードを齧っている群れの中から、体色がくすんでいる一匹を見つける。コンクリートの床に放置していた一メートル定規を拾い、その個体の肩口を軽く小突いた。短く悲鳴を上げてころんと転がったそいつは、大して間を置かずに起き上がる。そして、何事もなかったかのようにまたぽりぽりとドッグフードを齧り始めた。体の色は澄んだ水色に戻っている。
 チャオは育てた人間の善性に影響されて体色を変えるというが、科学的な実証は未だ為されていないらしい。ただしチャオを育てる者の間では、その性質は経験則に基づく事実として周知されていた。……俺が育てたピュアチャオは、ほんの少しだけ黒く濁る。それで、こうして小突いてやると元に戻るのだ。

 理屈なんぞ気にしてはいない。ただ、売り飛ばす分には、澄んだ色をしている方が良い。それだけのことだった。

 生物かどうかも怪しい存在たちの食事風景をぼんやりと眺める。つられてなんとなく口寂しい気持になり、くたびれた上着のポケットから煙草を取り出した。大学生の頃から吸っている銘柄だ。一本取り出して咥え、百円ライターで火を付ける。バニラに似た甘ったるい臭いが肺を満たした。ぼうっとしたまま煙を消費する。
 チャオたちが食事を終える。フィルターぎりぎりにまで減った煙草を、コンクリートの床に直接押し付けて消した。吸殻は適当に右の方へ放り捨てる。先週あたりから掃除していないせいで、茶色い円筒がちょっとした小山を築いていた。
 まあ、それもいつものことだ。都合の良いことに、どれだけ吸おうとチャオは何ともない。いつだって平然として、煙たがるそぶりすら見せたことがなかった。
 一度、吸殻をチャオが誤食したことがある。色がドッグフードと似ていたんだろう。人間の子供なら死んでいるだけの量は食べたと思う。だが、その個体は死ななかった。体調を崩すことすらなかった。そのまま、普通に売られていった。俺の手で。

 ……やっぱり、綺麗な水辺でしか生きられないなんてのは嘘だろう。清い水でしか生きられないなら、煙草なんてものを平気な顔で食べられるはずがない。

 最後の一本を咥えたところで、何やら騒々しい物音がした。部屋に面した廊下から、がらがらと台車を押す音が聞こえてくる。あいつが帰ってきたらしい。この時間帯、このビルに来るのは俺たち二人くらいなものだ。
 腰を上げ、部屋のドアを開けてやる。軋みながら開いたドアの向こうで、大学からの付き合いである臼井がへらりと笑い、小さく片手を挙げて応えた。

「よう、富塚」
「随分な社長出勤だな。臼井」
「安く卸すのも一苦労なんだって。お前は楽な役回りだろ、ドッグフード撒いとけばそれで良いんだから」
「それだけじゃねえよ。出荷してんのは俺だろうが」
「それもそうだね。ま、そういう営業は向いてると思うよ。良い感じに悪どいし」
「お前にだけは言われたくない」

 この商売を発案したのは臼井だ。臼井は悪びれもせずにへらへらと笑いながら、運んできた段ボールの封を切る。白っぽい緩衝材の中に、直径二十センチほどの卵がいくつもごろごろと埋もれていた。

「内訳は?」
「ピュアが三。あとは白と黒が一つずつ」
「色付きか。ブームは終わったと思ってたが」

 面倒だな、と内心で思う。色付きはピュアよりもいくらか高くなるが、属性の変化が見にくい分扱いづらい。ブームの時は手間をかけるだけの価値があったが、火付け役になった特撮番組は放送終了して久しい。チャレンジレースを舞台にしたあの作品が全盛期の頃は、赤青緑黄色ピンクの五色が実によく売れていた。特にツヤ色が人気だったが、今では値段の高さから敬遠されるのが常だ。
 俺の不安を見透かしたのか、臼井が俺の背をぺしぺしと叩く。

「大丈夫だって、売れる売れる。流行りが完全に過ぎたせいで、かえって供給が減ってるんだってさ」
「……もうそんなになるのか」
「当たり前だろ。オレたちだってもう三十路じゃないか、早いもんだね」
「そうだな」

 嘆息する。あのブームに便乗してこの商売を始めてから、もう五年以上経ったのだ。時の流れは早い。
 ……チャオの寿命は約五年だ。早ければ四年、長くても精々六年。それだけ過ぎれば、業者の「ストック」も切れる。俺たちの界隈では一つの常識だった。
 ペットは人よりも早く死ぬ。その点、五年か六年で転生を繰り返すチャオは永遠のパートナーだ。ただし、それもあくまで理論上はの話。実際には、転生をするチャオなんて滅多にいない。ゼロではないが、稀だ。
 十分に愛されて育ったチャオは転生する。属性の変化と同様、この俗説も実証されてはいない。だが、もしもこれが真実なら――チャオは、幸福な生き物だとは言えないだろう。きっと。生物と呼べるのかも怪しい存在ではあるが。
 仕入れられた卵を見る。こいつらは何年生きるのだろう。考えても無駄なことを考えながら、段ボールの蓋を閉じた。孵すにはまだ早い。少なくとも、いま柵の中にいる奴らの半分くらいが一次進化を終えるまでは、卵のままで良いだろう。
 チャオの卵は、冷やしておけばそこそこ保存が効く。半年くらいだろうか。管理が少々厄介で、油断すると中身を腐らせてしまうこともあるが、ままあることだ。仕方ないことだろう。
 臼井が俺の顔を覗き込む。

「保管しとくの?」
「ああ」
「……なんか不機嫌だね」
「いや。割に合うなら良いんだ」
「うん」

 臼井が台車を押し、部屋の隅へ押しやる。その間に俺は壁へもたれ、最後の一本となった煙草を吸い始めた。臼井が横に来てしゃがみ込む。いわゆるヤンキー座りという奴だが、童顔の臼井がやると今ひとつ迫力が無い。あっても困るが。
 柵の中で、チャオたちはわらわらと好き勝手に遊び回っていた。場所の狭さも気にならないらしい。台車の音にも怯える様子が無かった辺り、いい加減慣れているのだろう。一番若い個体でも、孵してから二ヶ月は経っている。夜泣きも減った。俺の方も慣れつつあるが、チャオが持つ順応力の高さには目を見張るものがあった。
 臼井が呑気そうに言う。

「よく食べてるねえ」
「最安値なのにな」
「味わかってるの? あれ」
「さあ」

 男二人でチャオを眺める。そこはかとなくシュールだなと他人事のように思った。手持ち無沙汰になったのか、臼井が話を振ってくる。

「ピュアチャオのさ、属性っていうか、色の変化ってあるじゃん」
「ああ、あれな」
「新しい学説出てたよ」
「へえ?」
「人の罪悪感に反応するんだってさ」

 罪悪感。
 俺は、まじまじと臼井を見た。俺が育てるチャオはみんな薄っすら黒くなる。……そして、臼井が育てるチャオは、みんなヒーローチャオに育つ。白過ぎるくらいの白に。
 馬鹿馬鹿しい。大げさに溜息をついてみせた。

「くっだらねえな」
「そうかな? オレとしては結構気に入ってる説なんだけど」
「だとしたらあれだろ、お前が碌でもねえ奴だってことが証明された。こんな商売やってるくせに罪悪感ゼロってどうなんだよ」
「嫌だなあ。最初に言ったろ? オレはチャオを救うためにこの商売をやってるんだ」

 しれっと、そんな嘘寒い言葉を吐いて臼井は笑う。返答に詰まり、俺はただじっと臼井の顔を見た。黒々とした瞳に見つめ返される。

「どうしたの、富塚。そんな顔して」
「……イかれてんな、相変わらず。救うってんならもうちょっと可愛がってやればいいのに」
「そんなのは却って可哀想なだけだよ。今ここでオレたちが甘やかしてやったところで、引き取られた先で愛してもらえるとは限らないじゃないか」
「別に愛されないとも限らないだろ?」
「転生率」

 ぼそりと告げられた一言に息が止まる。……一パーセントも無いのだ。それもデータ上の話で、実際は多分、もっと低い。
 迷うように言葉を選んだ。

「それは、その、さ。……俗説だろ」
「そうかもね。だとしてもさ、その俗説が当然のように残ってること自体が怖くない?」
「何が怖いんだよ」
「チャオの飼い主へのアンケート、『うちのチャオは転生する』って思ってる人が九割なんだ」
「良いことなんじゃねえの」
「根拠の無い自信ほど怖いものは無いよ。……チャオ飼いの八割、飼ってるのが二匹目以降なんだってさ」

 それは、つまり。一匹目を転生させられなかった飼い主の殆どが、「次こそは」と思っているということで。そしてその「次」が、三匹四匹と積み重なっていく時もある。そういうことだ。
 寒気を覚える。チャオ自体がブームになったのは、俺が生まれるより前くらいの話だ。それから今までの間、一体どれだけ、「次こそは」が消費されて来たのだろう。転生なんて、俗説の夢を追いかけて。
 何なんだろう。

「オレさあ、チャオを幸せにしたいんだよ」

 臼井が言った。始まったな、と思う。黒い瞳の奥に、何かぎらぎらと光る熱が潜んでいるような気がした。既に何度か聞かされた話を、臼井はまた繰り返す。

「幸せにしたいんだ、可愛がりたいんじゃなくて。ほら、一次進化した直後に売るだろ、オレたち。一次進化ってさ、繭に入るじゃん。チャオってあの時に生まれ変わるみたいなもんなんだよ、全部作り変えられるからさ、人の言葉話すのも一次進化終わってからだろ? それでさ、繭に入る前の記憶、進化してからもちゃんとあるんだけどさ、夢の中だったみたいに遠くなるんだって。前世みたいな感じかな、分かんないけど。チャオってそういうもんなんだよ、そうなってるんだ。でも進化した後の身体って、材料は進化前の身体だからさ、やっぱり覚えてるっていうか価値観の下地になってるんだ。だから、その時に『幸せのハードル』は下げといてやった方がさ、進化してからは幸せなんだよ。そうなってる。結果も出てるんだ、科学的に。若干データ古いけど、今のところ反証もされてないし」
「……へえ」
「だからさ、仕方ないんだよ。辛く当たってるように見えるかもしれないけどさ、この方がこいつら幸せなんだよ。最終的には。ちょっと話飛ぶけど、人間だってそうだろ? 頑張って勉強したり仕事したりしたら、その時はしんどくてもその後がちょっと幸せになるじゃん。そういう感じ。転生できるくらい十分には可愛がってもらえません、ってことならさ、そのちょっとの愛で満たされるくらいの作りしてた方が幸せだろ?」

 だったら、最初から最後まで可愛がってやるのが一番幸せなんじゃねえの。
 そう言いたいのをぐっと堪える。それが出来ないからこその転生率で、「次こそは」で、この仕事なんだ。全部見据えて臼井はこの商売を始めた。臼井は、俺よりも賢い。全てにおいて。

「だから、仕方ないんだよ。それで……そう思えないんなら、そこまでだと思う。オレはそう思う」

 べらべらと話していた臼井が、不意に俺の方を向いた。いつになく真面目くさった顔で、けれど口調はごく軽く、告げられる。

「それでさ、富塚。前から思ってたんだけど」
「何だよ」
「やっぱりお前、向いてないと思う」

 どきん、と心臓が跳ねた。逸る鼓動を押さえつけながら、聞き返す。

「何に?」
「この商売に」
「……なんで」
「お前、チャオ好きだろ」

 かっと頭に血が上る。何を言い返したのか覚えていない。ただ臼井は、寂しさと悲しさの入り混じったような顔をした。

「……オレさあ、勘違いしてたんだ。誘った時。お前はチャオってものが大嫌いなんだろうな、って思ってたんだよね。チャオが話題に出るのも嫌がってたし」
「嫌いだよ。……嫌いでなきゃ五年もこんな仕事してない」
「嫌いならそもそも関わらないだろ。惰性ってのもあるだろうけどさあ。そもそもの発端、就活で二人して大ゴケしたって辺りだったじゃないか」
「何だよそれ。じゃあそもそも何で誘ったんだよ、俺なんか。お前、チャオを救いたいんじゃなかったのかよ」
「オレはそこんとこ変わってないよ。本当は研究職に就きたかった。チャオの生態調べて、俗説の検証する仕事。でも門戸が狭いんだよね、あれ。次点がこの仕事でさ、でもこの仕事は普通にチャオが好きな奴には向いてないって分かってたから」
「……ふうん」

 気の無い台詞を吐いておきながら、内心では強烈に動揺していた。俺は、チャオのことをどう思っているんだろう。都合の良いペット? 謎が多い生命体?
 どっちも違う。……本当は分かっていた。俺は少なくとも、チャオを嫌ってはいない。
 なんだかんだで自覚はあった。きっと俺は長らく、罪悪感を抱えてきている。臼井が話した説を信じるつもりもないが、ピュアチャオたちが黒く濁る速度は、年々早まっているような気がしていた。
 お互いに黙り込む。気まずい沈黙をただそのままにしていた。しばらくして、臼井がもそもそと口を開く。

「富塚。ほんっと今更こんなこと言い出してさ、自分でもオレどうかしてんなって思うんだけど」
「……言えばいいだろ。別に気にしねえよ」
「うん。オレ、お前が嫌々この仕事続けるのはやだなって思うし、もしそうなら辞めてくれた方が良いなって思ってるんだけど」
「けど?」
「オレと友達でいるのは辞めてほしくないなあ、とか」

 突然の飛躍に惚ける。大真面目な顔と声でそんなことを言われ、つい吹き出してしまった。臼井が露骨にむっとした表情を見せる。

「笑わなくたっていいだろ」
「下らなすぎて笑えた。友達辞める理由がどこにあるんだよ」

 そう返してから、ふと気付いた。こいつは、チャオという接点が切れたら俺がいなくなると思っていたんだろうか。
 違和感を問いただす前に、臼井は何かを振り払うように腰を上げた。ぐっと伸びをして、あくび交じりにいまいち脈絡のない疑問を呟く。

「なんかなあ。チャオってさあ、何のためにいるのかな」
「何のためって何だよ」
「いや、単に分かんないなあって。どうして人間の側にいるんだろうね。何でも食べるし放っといても育つし……わざわざ人に飼われなくたって、生きていけると思うんだけどなあ。オレたちにはどうでもいい話だけどさ」

 言って、臼井は部屋を出て行こうとした。追う気はなかったが、なんとなく尋ねる。

「どこ行くんだ」
「次の仕入れ。アポ取ってあるから。……まあ、考えておいてよ。さっきの話」

 ばたんとドアが閉まる。足音が遠のいていき、消えた。
 上着のポケットへ手を突っ込む。空箱の感触に小さく舌打ちした。腕時計に目をやり、そろそろ「水やり」の時間だと気付く。うだうだ考えても仕方ない。普段通りのルーティンに戻った方が気は楽だ。
 部屋の隅、台車がある方とは逆側の角へ向かう。道具箱代わりの衣装ケースからホースを取り出した。端がシャワーヘッドになっているものだ。
 ヘッドが付いていない方の端を、元々給湯室だったであろう小部屋の水道に繋ぐ。大部屋の方まで引いてきて、柵の隙間にホースを引っ掛けた。蛇口を捻ってやると、すぐにきゃあきゃあと小さな歓声が上がり始める。
 まだハイハイのチャオたちでも、水を浴びせてやればかなり活発に動き始める。声の印象は人の子供があげるそれに似ていた。
 水道水は綺麗な水に入るのだろうか。人が飲めるなら綺麗か、多分。当て所なく考えながら、水飛沫と水色の生き物たちを眺める。頃合いを見計らって蛇口を閉めた。チャオたちは水が途絶えたことに不満を述べることもなく、じゃれ合いや一人遊びに戻っていった。当人たちは楽しそうだが、特に玩具も与えていない。
 そんな姿を見るたびに、臼井の理論は正しくもないだろうなと思わされる。そもそもの話、こいつらに不幸という概念はあるのだろうか。泣くことも怒ることも駄々をこねることもあるが、それが続くことのない生き物なのだ。つくづく気味が悪い。無条件で喜び、無条件で他人に愛想を振りまく存在なんて。
 一応、嫌がることばかりしていれば嫌われもする。一次進化を終えてしまえば多少の反抗期もあるし、我儘も言うようになる。だが、本質的には変わらない。馬鹿みたいに愚直で純粋で、まるで最初から愛玩動物として作られたかのようだ。実際のところ、そういう都市伝説もあるにはある。よくある与太話だ。
 だが、本当に人工生命体だというのなら、もう少し上手いこと作れなかったのだろうか。こんな、蚕よりもよっぽど自立できない生き物を作って何になる。いや、それくらいでなければならなかったのか。下手に優れたものを作ってしまえば人間の敵になり得る。人畜無害だからこそ、ブームが終わってもそこそこ売れていくのだろう。
 生産性のない思考に蓋をして、ホースを片付ける。そのまましばらくチャオの群れを眺めていたが、戯れに、柵の中から一体を抱き上げた。両脇の下へ手を入れるように。そうして抱えた後で、それがさっき俺が小突いた個体だと気付く。
 しかし、チャオは何を気にした様子もなかった。きゃっきゃっと甲高い声を上げて、心底楽しそうに笑う。無垢な笑顔、とでも言うべき表情だった。……生まれたばかりの頃は夜泣きばかりしていた個体だ。でも今は違う。慣らされているからだ。俺たちの、俺のせいで。
 その時。チャオの小さな身体が、ほんのりと、黒く濁った。
 あ、と思う。見ている間にも、悪の色がチャオの身体を染めていく。それでもチャオは楽しそうで、ただ、はしゃいだ様子で笑い続けていた。
 泣きたいような気分になる。なんでだよ。――なんで、お前らは。そう思うほどに、目の前のチャオはもやもやと黒く濁っていく。
 罪悪感。臼井の言葉が脳裏をよぎる。そんなはずはない。けれど、そんな独りよがりじみた弁明は最早通用しないほどに、胸の奥の感情は膨れ上がっていた。
 溜息を一つ吐く。ちょうど人間の子供を抱く時のように、チャオの身体を抱え直した。チャオが嬉しそうに声を上げ、ぎゅっと俺に抱きついてくる。擦り寄せられた頬からは、バニラに似た煙草の苦い香りがした。

 ああ。綺麗な水辺でなきゃ生きられないなんて、きっと嘘だ。そんなお綺麗そうな奴らが、こんな劣悪な場所で平然と育つはずもない。
 ――そんな美しいはずの存在が、人なんか居なくたって生きられるものたちが……ただ同情のように、人と共にあることを良しとしているはずがない。

 ああそうだ、その通りだ。声には出さずに吐き捨てる。臼井の言ったことは半分正しい。俺は、チャオが好きだった。大好きだった。
 子供の頃からだ。あの、よく分からないけど何か純粋な存在が好きで、自分も飼いたいと――チャオと暮らしたいと思って、親にねだった。やっと買ってもらったそいつはよくあるピュアだったけど、本当に可愛くてしょうがなかった。俺が撫でるたびにほんのりと、白く色づくのが可愛くて、四六時中、本当に毎日ずっと一緒にいた。愛してたんだ、少なくとも俺はそう思っていた。
 でも、そいつは、転生しなかった。……それが全てだった。
 玩具も写真も全部捨てた。テレビに映ればすぐに消したし、街で見かけるのも煩わしくて、家に籠ることが多くなった。その影響で勉強時間が増えて、成績が上がって、なんだかんだ大学まで行って。
 そこで初めて、チャオの転生は俗説だよと教えてきたのが臼井で。それで、いつのまにか……そのまま、今までずっと。
 そういえば。臼井の奴は、チャオを研究する職に就きたかったんだと言っていたが……俺は、本当は何がしたかったんだろう?

「よーう、ただいま」

 突然部屋のドアが開く。臼井がどかどかと入ってきた。流石に驚いたのか、腕の中のチャオが服にしがみついてくる。
 心なしか上気した頬の臼井は、真っ白なチャオの卵を抱えていた。

「……おかえり。いやにハイだな」
「ハイにもなるよ。良い意味で予想外のものが手に入ったんだ」
「その卵か? 白は今日仕入れたところだろ」
「違うよ。これは完全白ピュア、名前くらいは聞いたことあるだろ? レア中のレアだね」
「うわ」

 思わずぎょっとした。完全白ピュア。いわば「模様の無いピュア」という稀な色だ。理論上はピュアとハーフの子で十六分の一だが、実際のところはもっと少ない。市場に出回るものとなれば相当数が限られている。
 そのとんでもなくレアな代物を、臼井はずいと俺に差し出した。

「やるよ。これ」
「は? ……いや、なんでだよ」
「退職金」

 端的に告げられた言葉をゆっくりと反芻し、飲み込む。……やっぱり臼井は、俺より賢い。やっとの事で、言い逃れるような返事を絞り出す。

「だから、なんでだ。まだ何も言ってない」
「じゃあ今言いなよ。続ける? 辞める?」
「……辞める」
「で、辞めたら飼うんでしょ? チャオ」
「いや、別に……」
「顔に書いてあるんだけど」
「……ああもう、そうだよ! 次はちゃんと飼いたいんだ、罪滅ぼしって訳じゃないけどさあ!」
「ほら見ろ!」

 この上なく得意げな顔を見せつけ、臼井は俺を指差した。正確には、俺が抱えているチャオをだ。
 臼井が人差し指を突き出し、くすんだ水色の頬をむいむいと押す。

「その子を見てれば分かるよ、辞めるんだろうなってことくらい。そんな愛おしげに抱っこしちゃってさあ」
「……うるさいな」

 つつかれたチャオが、イヤイヤをするように顔を背ける。俺の肩によじ登ろうとするのをやんわりと引きずり下ろし、臼井から一歩退いた。臼井は拗ねたように眉根を寄せたが、すぐにくつくつと喉を鳴らして笑い始めた。

「吹っ切れると分かりやすいなあ、富塚は」
「だからうるせえって……ともかく、そいつは要らない。いつも通り売れば良いだろ、折角の『レアもの』なんだから」
「そう? こんな機会もうないのに」
「特に拘りも無いしな」

 そこは本心だった。売値以外でチャオの体色に拘ったことはない。初めて飼ったチャオだって、よくある普通のピュアだった。ちょうど、こいつみたいな。
 腕の中のチャオを見下ろす。目が合った。直後、にっこりと微笑まれる。いっそ腹立たしいくらいの笑顔だった。氷の膜が割れるような、そんな感覚を覚える。

「……代わりってわけじゃないけどさ」
「何?」
「こいつ、貰ってもいいか。それか買い取る」
「言うと思った。まあ無料で良いよ、なんだかんだ世話になったし。でも、その子でいいの?」
「ああ。……あと、退職金は別でちゃんと寄越せよ。訴えるぞ」
「酷いなあ。ま、言われなくてもそうするけど。次の仕事の斡旋もしとこうか?」
「有難いが最終手段に取っておく。碌なのが寄越されなさそうだ」
「辛辣だねえ。気に入らないったらないな」

 口ではそう言いつつ、臼井はどこか嬉しそうだった。友人の俺が不得手な仕事を辞めることへの安堵か、完全白ピュアを得た喜びの余韻か。
 どっちでも良いやと思いつつ、晴れて俺のものになったらしいチャオの頭を撫でてやる。こいつを普通に養えるだけの仕事をさっさと見つけなければならない。チャオを売るのはなんだかんだ得意だった、チャオ関連の商品の営業なんか結構向いてるんじゃないだろうか。

「その子、名前は何にするの?」

 臼井が尋ねてくる。さあ、と適当にお茶を濁した。俺はどうにもネーミングセンスが無い。……子供の頃一緒だったチャオは、チャオの子だからと「チャ子」だった。安直にも程がある。
 でも本当は、名前なんてチャオ本人にとっては案外どうでも良いのかもしれない。煙草を食べても平気な生き物が、名前のセンスなんぞでどうにかなるとも思えなかった。
 善悪で色が変わることといい、転生することといい、俗説まみれでつくづく分からない生き物だ。この五年、虐待じみた形で何十匹と育ててきて、やっぱり何一つ分からなかった。けれど、チャオは相変わらず笑っている。そこも含めて分からない。
 ……だからこそ。

「なあ、臼井」
「何?」
「チャオってさ、なんで人の側にいるんだろうな」

 臼井自身の問いを投げ返した俺に、臼井は少し驚いたような顔で目を瞬かせる。そして、ふはっと吹き出すように笑った。

「愛されたいんじゃない?」

この作品について
タイトル
その水を愛せよ
作者
初投稿
初回掲載
2018年11月12日