No.9
目の前にチャオが立っていた
そのチャオに私と名乗った
チャオはそうには思えないと言った
私はあっさりと納得した
何故簡単に納得したのか聞かれた
だから私はこう言った
――この世には一人たりとも同じ人はいないの。それが例え過去の、未来の自分であっても。
チャオはあっさりと納得した
私は微笑みながらチャオを撫でた
綺麗に色の無くなった繭越しに
私は届かないと知りつつも声をかけた
今までありがとう
お疲れ様
 ̄ ̄ ̄ ̄
目が覚めたとき、ここは天国かと思った。
壁は白いし、天井も白いし、窓越しに部屋を照らす明かりですら――と思ったけど、流石にそんなことは無かった。今は冬じゃない。
「気がついた?」
聞いたことのある、聞き慣れてきた声へ顔を向ける。
ミキだった。
「……良かった」
「何が?」
ここが天国ではないことが。どうやらミキは天使でも死神でもなかったようだ。
「目立った外傷もないし、精神異常もなければ」
「わかってる」
わざとかと思えるくらい、そのやり取りはいつかの時と似ていた。
ここは病院だ。恐らく、私がずっと眠っていた場所とは別の。少なくとも霊安室ではないことは確かだ。
改めて窓の外を見遣った。ここ最近あまり見られなかった晴れ模様だ。その光景にどこか見覚えがある辺り、前と同じ病院の、前と同じ病室にいるようだ。どういう気の回し方をしてるんだか。
「ここに来る前のこと、覚えてる?」
まだデジャヴュごっこを続けるのか。まあ付き合うけど。
「覚えてるよ。私が目を覚ました時のことでしょ?」
「違う」
「え」
「もっと前のこと」
「もっと前のことって……二年前くらい?」
「もっと先のこと」
「……ああ」
その言葉の意味を理解した時、私にはミキの目が期待の眼差しをしているように見えた。割と普通の子らしいとこもあるんだな。
「大丈夫。忘れてないよ」
「本当?」
「もちろん。だって待っててくれたんだもんね」
忘れるわけがない。私の二年前に途絶えた記憶も、小説事務所のみんなと過ごした記憶も。あれらは全て夢ではない。確かに“私”が過ごした現実だ。
それでも、まるで夢のようだった。みんなと過ごした間の事もそうだが――何より、私が幽霊らしき存在だった事。今でも半信半疑だ。あの時目にしていた時の事が、本当にあった事なのか。だが、それを確認するにはイロモノの目を向けられる覚悟をしなければならないだろう。なるべく掘り返さない方がいいのかもしれない。自分の中で、であってもだ。
「……ところでさ」
「何?」
「お見舞いとか、ないの?」
「連絡なら入れて――」
ちょうどいいタイミングでノックの音が響いた。噂をすればなんとやら。
「お邪魔しまーす」
お見舞いにしては大所帯なチャオ達が、わらわらと病室に入ってきた。六人ともちゃんと見覚えがある。
「えーっと、君とは初めましてでいいのかな?」
「ううん、そんなことないよ」
開口一番不思議な事を言い出した私に、パウ達は首を傾げたり顔を見合わせたりした。無理もない。今の私は、みんなからすれば初めて会う人間だ。
挨拶は、しておくべきだろう。
「パウ、久しぶり」
「……ボクのこと、知ってるのかい?」
「もちろん。リムさんのことも知ってるし、カズマやヒカルのことも」
「え、なんで? どうして?」
「ハルミちゃんのことも。ヤイバは知らない。初めまして」
「ちょ、おま、ええ? そこは知ってる流れじゃないんすか!? というか知ってるじゃねーですか!」
「……もしかして」
真っ先に気付いたのはハルミちゃんのようだ。同じ病院に入院した仲なだけある――というのは、関係ないかな。
「ユリさんですか?」
「うん」
「ほんとに、ほんとにユリさんですか?」
「もちろん」
みんなが、信じられないと言った眼差しを向けてきた。でも、その中に微かに期待が混じっている気がした。
「私は、ユリ――未咲、ユリ」
 ̄ ̄ ̄ ̄
そう、薄々そんな気はしていたのだ。
偶然私が訪れた謎の個室で流れていた、謎の音声データ。オーバードキャプチャーの概要について。所長が話した“私”の正体。
そんな気しか、しなくなっていた。
私が“私”に殺され、そしてその“私”も殺された。この繋がりは他人のものじゃないと、そう思う以外にはなかった。
「ミキ」
積もる話もほどほどに小説事務所の面々が帰っていった後、私はミキに話しかけた。
「知ってると思うけど、私って探偵なんだ。元、だけど」
「…………」
「で、今回の事を纏めておきたいの。確認がてら聞いてくれる?」
ミキは頷いてくれた。
それでは、今回の事件を改めて整理しよう。一つの殺人未遂と、一つの殺人事件について。
まずは私、未咲が半殺しにされた事件。
雷を伴う激しい大雨の夜。私は探偵事務所に帰る為に帰路を急いでいた。不幸な事に、そこを通りかかった大型トラックに轢かれてしまう。そして夜が明けた時、私という痕跡は綺麗になくなってしまった。
アンジュさんの調べにより、運転手はチャオであったこと、そしてチャオらしき人影がいたことがわかった。だが、チャオが極僅かな時間に私を運べたはずがない。では、いったいどうやって?
答えは実にシンプル。これはそもそも事故なんかではなく、計画された事件だった。だから私を運ぶ人間と方法があったわけだ。私を運んだ人間――恐らくフロウルだが、予め車の一つでも用意していたに違いない。当日は酷い大雨だったから、アンジュさんも車が急いで走り去る音が聞こえなかったんだろう。車のライトぐらいは見ていないのか気になるところだが、駆けつけるのがやや遅れたこととトラックを先に調べたことが重なったと考えるべきだろう。
そしてここで、フロウルにとっての予定外の出来事が起こる。
私を轢いた運転手であるチャオは私にオーバードキャプチャーを行い、その魂を取り込んだ。そしてフロウルは私の体を運んだ。ここまではよかったのだが、肝心のオーバードキャプチャーを行った“私”は、未咲としての記憶を喪失した挙句、その場から姿を消してしまった。この事態が起こったことにより、フロウルは予定よりも念入りな隠蔽工作を行ったというが、それを差し引いても意図は把握しきれない。だが結果として、アンジュさんは最後まで交通事故に遭ったのが私だったのかどうかわからず仕舞いだった。
そして一番の問題は、“私”がこの事件の記憶を自ら捏造したことにある。
記憶の奥底にしまわれた“私”のトラウマ、彼氏が交通事故に遭った記憶がそれだ。血溜まりの上の“私”は知りもしない彼氏に置き換えられ、思い出しても問題の無い、思い出したくない記憶に塗り変えられた。
皮肉な話だ。自愛の精神を持たない私が、捏造した記憶の中で自分を思い人にしていたというのだから。
結局、何故フロウルは私を手にかけたのか? 何故のうのうと一人暮らしを始めた“私”をそのままにしたのか? その理由は未だ明確ではない。ただ、それは悪意ある理由ではないような気がする。シャドウさんとフロウルの会話を聞いた私としては、根拠はないがそう思えた。
そして二年後、“私”の殺人事件が起きた。
二年前と奇しくも同じ、雷を伴う激しい大雨の夜。“私”は自分の記憶の矛盾に気付き始め、衝動のままに探偵事務所を出て二年前の事故現場にやってきた。そして奇しくも“私”の彼氏に似た人――言うまでもないが、所長が待っていた。そして間も無く、二年前と同じようにトラックが“私”目掛けて走ってきて、今度は間違いなく殺された。
トラックに惹かれて殺され、後に残ったのは何もない。チャオが被害者の事件としては実にシンプルだ。これが二年前の事故の再現だ、という点を除けば。
この事件におけるフロウルの目的は、未咲に魂を還す事にあった。だから“私”に記憶を取り戻させる為、当時の状況を再現させ、そのまま魂を“私”から引き剥がした。
ここでの問題は、本来は運転手役として選ばれた筈の所長が“私”を殺す事に同意しきれなかったことだ。仕方なく配役は入れ替えられることになり、街灯の下の人影役は所長、運転手はミキということに。何故フロウルではなくミキなのかは疑問だが、とりあえずは結果オーライ。
この事件についての謎は、何故二年後というタイミングに“私”を本来の私に戻したのかにある。その理由はシャドウさんにならよくわかるとフロウルは言っていたが、それが意味するところは現時点ではよくわからない。
こうして、二つの事件はいくつかの謎を残しながらも終わりを迎えた。
計画された交通事故という名の殺人事件がもたらしたものは、不思議で歪なグッドエンドだった。これらの事が起きた理由と意味は、近い内にわかる時が来るだろうか。自ら進んで探求するつもりはないが、いつか知る機会が訪れることに期待しようと思う。
「そういえば、フロウルとは連絡取れる?」
「取れない」
即答された。
「あなたが目を覚ました事を連絡してから、全く通信に出なくなった」
「あ、そう」
身分詐称のスペシャリストとか自称してたし、自分の痕跡を残さない為だろうか。さんざ私に関わっておきながらその関係性を綺麗に隠してしまうとは、なんとも自分勝手な人のようだ。
「でも、フロウルが所持していたと思われる証拠をいくつか抑えておいた。GUNに送って、引き続きフロウルについての調査を行ってもらっている」
自称スペシャリストだった。プロ意識はないらしい。
「……って、ミキはフロウルとは直接会ったの?」
「一応」
「一応?」
「最初に私が会った時、フロウルは女子高生の姿をしていた」
「ぶっ」
女子高生? フロウルって男じゃなかったのか? 私が見たことのあるフロウルの顔写真二つはどっちもそれなりの歳の男性だったはずだけど。
「その後、所長と一緒に会いに行った時は少年の姿だった」
「少年? 何歳くらい?」
「10歳くらい」
なんなんだフロウル・ミル。本当に人間なのか? 私のなけなしの常識がまた一つ消えていくのを感じて、それ以上の追求はよしておいた。
頭を抱えて枕に顔を埋めた頃、ミキが突然椅子から降りる。
「どうしたの?」
「帰る」
本当に突然だった。他になんの言葉も無くさっさと病室から去るミキの後ろ姿に、私は「なんで?」という簡単な言葉も投げかけられなかった。
そういうわけで、静けさが耳に痛い病室に一人取り残されてしまった。気付けば外はすっかり夕方だ。私が起きてからそんなに時間は経ってなかったのだが、どうやら朝ではなく昼下がりに起きていたらしい。
布団から手を出して、まじまじと見つめてみる。指が五本ある、れっきとした人間の手だ。おかしな事があると言えば、動かすのに違和感を感じることだろうか。ちゃんと動かすことはできるのだが、手袋に指を全部通していないような感覚がある。足も似たような感じだ。
ふと、私が霊安室で目を覚ました時の事を思い出した。あの時は今の何十倍も酷いもので、体全体の神経が無くなっているといっても過言ではなかった。ベッドから転がり落ちて、その後立ち上がろうにもなかなか立ち上がれないものだったから大変だった。あの場にミキがいなければどうなっていたことか。
「はあ」
溜め息を一つ。
そういえば、今回の事件でまだ一つ謎が残っていた。ズバリ、ミキのことだ。
よくよく考えてみれば、何故ミキが今回の事件に深い関わりを見せたのかはハッキリしないままだ。そもそもどうしてミキが“私”の殺人に肯定的だったのかがわからない。所長が“私”の殺人に手を貸すことになったのも、ミキの強い後押しの影響もある。彼女自身がそこまで強い姿勢を見せるというのは実に珍しい。何か理由でもあるのだろうか。
「わかんないなあ」
いくらなんでも情報が無さ過ぎるのでした。ミキの性格とか、普段の様子とかを含めて考えてしまうと、ますますわけがわからないし。
ずっと眠らせていた脳を久々に働かせたせいか、少し眠くなってしまった。考えるのは一旦やめて、もう一度眠ってしまおうか。布団を被り直し、窓の外の方へと寝返りを打ったそのタイミングで、突然ノックも無しに扉が開かれた。看護師さんかな? そう思って上半身を起こし、扉の方を見てみる。
「…………」
まず、お互いに言葉はなかった。
向こうは、本当に私がいたことに驚いているんだろう。私はというと、真っ先に思い出すべきこの人の事をすっかり忘れていた。悪いけど。
「……未咲?」
「ああ、はい」
「未咲、なの?」
「はい、未咲です」
みるみるうちに感極まった表情に変わっていく。そろそろ泣きついてくるんだろうか。いやだな。こういうの。嬉しくないわけじゃないけど、好きじゃない。
「未咲!」
そういうわけで、アンジュさんだった。
二年経ってようやく私に会えたアンジュさんの顔はもう一瞬でぐしゃぐしゃになって、一応入院している身の上の私のことなんかお構いなしに引っ付いてきた。
「ちょ、アンジュさんちょっと」
「どこに行ってたのよ! どれだけ私が心配したと思ってるの!」
「あの、それは重々承知してますのでひとまず離れて」
「ばか! ばかばかっ! 未咲のばかぁっ! 未咲のっ……!」
ああ、そういえばアンジュさんってこういう人だったなぁ。
人前ではデキる女の人みたいな姿を見せるけど、私と一緒の時は、私より遥かに子供っぽくなってしまうんだ。私があの探偵事務所で所長の役割を貰った後は、その関係が顕著になったんだっけ。年齢でいえばどう考えても子供な私が、年齢でいえばどう考えても大人なアンジュさんを養っているような関係に。
「未咲っ……みさきぃ……」
本当の家族でもないのに、どうしてここまで私を気にかけてくれるんだろう。探偵としてのスキルがなければ、私はただのお荷物じゃないのかな。昔からそんな疑問を抱いていた。
でも、二年の時を経て小説事務所で過ごした私なら、なんとなくわかる。人はそこまで薄情な奴ばかりではない。どんな形であれ、毎日顔を合わせる親しい人物の身に危険があれば、不安になって当然なんだ。所長達の希望を繋ぎとめ、兄妹達の絆を繋ぎ合わせた、お節介な私が言うんだ。間違いない。
「よしよし」
泣き崩れたアンジュさんの頭を撫でてあやしてあげる。本当は逆なんじゃないのかな、なんて不粋な事は考えないようにした。
結局、いつまでそうしていたのかはわからない。最後にはお互い、眠気に負けて一緒に寝てしまったような気がする。
まだ全てが解決しきったわけでもないのに、私達は今の幸せを享受して、勝手にこの物語を終わらせてしまった。
――この続きは、またいつか。