黒いリストバンド
チャオはまるで人の心をトレースして生きているようだ。
ヒーローチャオ。優しいチャオ。
それを飼っている人も、それが攻撃のように見えるほど優しい。
ダークチャオ。いたずら好きなチャオ。
悪意でやっているのか。それともただそれが楽しいのか。
わからない。だから怖い。そんな飼い主。
ヒーローかダークかはその人が善人かどうか判断するものではない。
非道な犯罪者の飼っていたヒーローチャオが無邪気に遊んでいるのが報道されると、首を傾げる人がいるが。
人に優しく、とかそういう善意に縛られていて歪んでしまったと考えれば、そういうものなのかもな、と納得できる。
ただチャオをよく見れば飼い主の中身が見えるのは確かだった。
チャオガーデンで見る人の顔は、どれも明るかった、と思う。
無邪気な振る舞い。子どもがその動きを真似て楽しんだり、大人が微笑んで見つめたり。
そういう顔ばかりを脳が選んでいたのかもしれない。
しかしチャオガーデンはいつも愉快な声に包まれていて。
どうしてチャオを飼っている人たちはあんなに幸せそうなのだろうと考えたことがある。
チャオと一緒にいるから幸せなのか。それとも、幸せだからチャオと一緒にいるのか。
幸せが先に決まっていた。
そうでなければチャオなんかで楽しい生活を過ごせるはずがないのだ。
チャオは有益な他人の代わりでしかないように思う。
だから時間さえかければ、いつか彼女のような人に会えるとわかっていた。
初めて見つけた時、黒いリストバンドの彼女はチャオに餌をやっていた。
チャオは淡々と食べる。
それを眺める少女は監視者のよう。肩まで届く墨色の川は止まったまま。目を離さないが何かを感じている風でもない。
チャオの口を使って、木の実を減らす作業をしているように見えた。
「何か違う」光景。釘付けになる。どんな微かな変化も見逃すまいと。
食べ終わったチャオは置物のようになる。
座ったまま空を見る、遠くを見る。目が合う。しかしこちらに関心があるように見えない。
がらんどうの目。感情を表す球体も丸いまま漂っていて、動きものろい。
空白のチャオ。
主人もまた無表情でチャオを見ているだけ。
何もない人間だからチャオも、と思うのだが違和感があった。
そうではないように感じた。
感情もないように振舞って、何かを隠しているような。
光に晒されないように、頑丈な箱の中に入れて。
それは飼っているチャオにすら気取られないほどに徹底しているのだ。
きっとそうだと思った。
右手首のリストバンドは目印のようなものだった。いつ見ても着けている。
夏なのに露出しているのは首と腕くらいなもので、小ぢんまりとしたシルエット。
ファッションのアクセントとして、綿のそれが手首にあるとは思えなかった。
むしろそこだけが浮いているように見えるくらいで。
じゃあどうして彼女はそれをいつも着けているのか。
目星は簡単について、後はうまくやるだけだった。
「こんにちは」
開かれた目。初めての表情。
そこから言葉が返ってくるまでの秒数が長く感じられた。
彼女は何を思って、どう考えて、五秒をどれくらいに感じたのだろうか。
「こん、に、ちは」
尻すぼみ。いい子だ。
「不思議なチャオだね。何もしない」
「え……まあ」
「キャプチャ能力って知ってるでしょ?小動物を取り込んで、っていうやつ。まあそんな酷いことをさせる人はあんまいないけどさ。でも俺はチャオはいつだってキャプチャ能力を使っていると思ってる」
目が合う。向こうが逸らす。無言だがこちらの話を遮ってはこない。続きを話してもいい、ということだろう。
「人の心をさ。食べ物にしているってわけじゃないけど。なんて言えばいいかな。えと、ああ、共有。うん、共有って感じでね」
そこまで話して、どういう方向に話を持っていこうか悩む。
どうにか彼女の抱えているものを吐露させたい。
しかし初めて話した日にそこまでいくのは難しいだろう。
時間をかけなければならない。
ただ踏み込もうとする姿勢を維持するのは悪くない。
話題の不足をそんな理屈で誤魔化して続けた。
「君のチャオは空っぽに見える。それは君の何もないというところを共有したわけじゃなくて、君がこのチャオに何も共有させなかったからなんじゃないかって思うんだ」
眉が寄った。初対面の人間に変なことを言われれば当然こうなる。
接近するのはここまでか。
警戒を解かなくてはならない。
相手の傷を見るために、自分の傷を見せなくてはならない。
呼び水のように。
「俺のチャオも似たような感じだったよ。その後すぐ死んだけど」
少しずつ。
似た者同士のように演出していく。
黒いリストバンドの彼女を見かける度に俺は話しかけた。
踏み込むのは少しだけ。
最近どう、なんて問いかけもほどほどにひたすら自分語りだ。
不幸な少年なんです、と言わんばかりの独白を続けていたら、二週間も経たないうちに彼女は自分が不幸な少女であることを話し始めた。
私、虐待されていて。
実は親から。それも両方からで。
学校でも一人で。
服で隠れているけど、体中痣だらけ。本当に。
じゃあ、ほら、脚のとこ見ていいよ。
時間さえ惜しまなければ、いくらでも芋づる式に引き出せた。
チャオが暗に示していた通りに、少女は傷を内面に隠していたのだ。
まるで飼い主を暴くピッキングツール。
口元が上がるのを抑えられなくなるのだった。
両親は頼れない。学校では一人ぼっち。
だけどチャオガーデンには友人がいる。
たった一人だけの友達。
それもお仲間で、さらに異性。
そうなってしまえばもう意識されない理由はない。
現実はそのように物事を運んだ。
けどそれは恋愛という甘い蜜で偽装された依存だってことに、彼女は気づいていない。
だから俺は黒いリストバンドの彼女に近づき続けた。
食べ頃になるまで。
「ねえ、それってリスカだよね」
彼女が自分から言わなければ、攻略の最後の鍵にすると決めていた。
似合わないリストバンドの下。
そこで自分を傷つけているに決まっていた。
「うん、そう」
肯定。「見る?」と聞いてくる。
心に触れるのだ。見ないわけがない。
細い腕には縦に流れる血管が浮き出ていた。それに対してみみず腫れが横に線を引く。
「辛いから?」
「うん」
「チャオを飼っても、救われない?」
「そうだね。チャオを飼っても、駄目だったね」
苦笑いしながらリストバンドを定位置に戻した。
「そう。チャオを飼っても駄目なんだよ。君も、俺も」
チャオは人の心を映す鏡だ。
ならばチャオとの触れ合いは、人とのそれの反復でしかない。
いくらチャオと触れたところで幸せが生まれるはずがないのだ。
人から得るのを諦めて、チャオから得ようとしたところで、無理が生じる。
「人じゃないと駄目なんだ。けれど、それにふさわしい相手がいない。だからこうなってしまう」
手首の傷だって同じで。
その傷は自分以外の誰かに付けてほしかったはずだ。
言い争い。ちょっとした喧嘩。
そういう明らかな行為だけでなく、日常の中に溢れる、互いに認めた上で作る心の軽傷を。
だから彼女は傾く。今だって飢えているのだから。
「でも二人なら大丈夫だと思わない?」
「二人」
「そう、二人。ずっと一緒にいたいんだ」
その告白に頷くのにそれほど時間はかからなかった。
「じゃあ行こうか」
「どこに?」
「どこにでも。二人で、ね」
チャオを連れて行こうとした視線に言う。
「チャオはいらないよ。救ってくれない。必要なのは二人」
「ん」
置き去りにして、チャオガーデンから去る。
幸せそうな空気。
でも事態は何も好転していないことにいつか気づくだろう。
心の支えができたわけでなく、自分を食い物にする人間が増えただけ。
お互いに依存をしようというつもりならいいけれど。
そうでないなら、優しさを見失った者同士の関係にハッピーエンドはない。
弱い方が酷い傷を負って終わる。あるいは両方の心にそれが残る。
そうなった後、彼女はまだ依存するのか。それとも何もかも拒絶するのか。
どちらに転んでも、嬉しい。
黒いリストバンドの彼女はもっと歪んで美になるのだから。
俺は満たされるだろう。
一瞬後ろを振り返ると、彼女のチャオが白い繭に包まれつつあるように見えた。