第1話
一人の少年は、今、黒と白の鍵盤が並ぶ楽器の上で、両手を動かしている。
「啓作君。そこは、リタルダンドです。ア・テンポではありませんよ」
「すみません」
「では、ここからもう一度」
「はい」
一つの曲を完成させるのに、今までこんなにも時間が掛かった事があったか?
彼は、指を忙しく動かしながら思った。
そういえば、これ、ドビュッシーの曲だっけ?
彼の指が、ドビュッシー特有の甘美なメロディーを奏で上げる。
確か俺、前にもドビュッシーで、引っかかってたな。
曲調が変わり、先程先生に注意された箇所に入る。
リタルダンド…だったな。
「良く出来ました」
「はい。ありがとうございます」
「では、次回はドビュッシーの音楽理論を学び、それを踏まえた上で、この曲を最後にしましょう」
「はい」
「では、また来週。爪は切っておいて下さいね」
「あ、はい。それでは」
最後のは、先生の口癖だ。
でも、まぁ、そろそろ切ってもいい頃かな。
塾が始まるまで後、一時間。
「とりあえず、練習しとくか。」
リタルダンドを忘れないように。
リタルダンド。
これ以降は、曲をだんだんゆっくり、滑らかに奏でるよう、指示する音楽記号。
ドビュッシーの曲は、まるで啓作の今日一日を、まだ、終わりを迎えそうもない長い一日を表すかの様に、彼の指によってゆっくりゆっくり奏でられていた。
ーーー続