1 新現実
1 新現実
吐息が白い。
早朝の路地に、排気音が響く。少年の右側には白くそびえる校舎があった。校舎というものは、たとえそれとわかっていなくても、雰囲気で察せてしまうものだ。なぜだろうと少年は思った。思うだけで、考えることはしなかった。
白いわたあめの中に灰色の異物を放り込んだような空を見て、少年は冬を実感する。下手をすれば雪でも降りそうな天気である。少年の傍らに寄り添うピュアチャオが身震いした。
その対面、ふとましい男がフルフェイスヘルメットを被った。実際には彼の体脂肪率は十八%程度であり、体重も六十キログラムの誤差五キロ範囲を維持している。
では、なぜふとましく見えるかと言えば——わざわざ言及するまでもない事だが——着膨れである。
ふっと吐く息に白が混じる。風にあおられ、黒縁の眼鏡のレンズがくもった。ぼんやりとした視界は、しかしすぐに色を取り戻す。
少年は爪の先に強烈な痛みを感じて、手袋をして来なかったことを真っ先に後悔した。
膨らんだジャケットをぱぱっとはたいて、男はフルフェイスヘルメットのシールドを下ろした。もごもごとした声色で、彼はつぶやく。
「昔、冒険好きの青いハリネズミがいたらしい」
「その話は三度目になりますね、先輩」
ふとましい男がフルフェイスヘルメットの奥で笑う。まあ聞け、と少年を手で抑え、男はバイクのハンドルを捻った。
「そのハリネズミみたいになりたいと、俺は思った」
「まあ、なれないんですけどね。先輩は人間ですから」
排気音で少年の言葉はかき消される。わざとだ。少年の嫌味もわざとならば、ふとましい男の排気音もわざとである。
「で、カオスエメラルド。遠い昔にあったらしいな、七つ集めると奇跡を起こす石のことだ」
「なくなりましたよ、それ。世界中の研究機関が虱潰(しらみつぶ)しに探し回ってますけど、十何年、手がかりは全く無しです」
「考えたことはないか?」
ふとましい男はハンドルから手を離して、両の手を擦り合わせた。彼もどうやら手袋を忘れたらしい。
それとも、元々持ってくるつもりがなかったのだろうか。それとも、元々持っていないのだろうか。どんな理由にせよ、この寒天の下、手袋をしないのは愚か者だと少年は思う。
バカにしているのが通じたのか、男がじろりとヘルメット越しに睨みつけて来た。なぜ分かるか? 勘である。習慣とは恐ろしいもので、同じようなやりとりを繰り返していると、相手がどのような行動をするか、どのように考えているか、容易に見当が付いてしまうものだ。
「そんなすっげえ石を手に入れたなら、いざって時のために隠して置いた方が都合が良い、とかな」
「そんなすっげえ石を隠せるのなら、世界的に考えても目を瞠(みは)るほどの情報隠蔽能力を持つ組織なんでしょうね。それで、どこに行くんですか?」
どうせまた戯言だと少年は聞き流した。聞こえているけれど、聞こえていない。しかし男は真剣そのものである。いつもとは調子が違っていたのだ。
けれども、そんなことは少年と何の関係もない。恩があるから、見送りには来た。だがそれだけだ。他意はない。
男は肩をすくめて、ハンドルを握った。
「ダチに頼まれちまったんだ」
「何を?」
「ちょっくらエンジェルアイランドに行って来る」
——幻の大陸。浮遊する島。あるいは、巨大な柱を内包する遺跡。
そう呼ばれていた。
カオスエメラルドの力を完全に制御するために使われたマスターエメラルドが保管されているという、浮遊大陸。
それが現実のものとしてこの世界に存在したことが確認されているのは、少年の生まれ出でる遥か昔。古い文献の中においてのみ、生きる大陸。
少年は笑った。少年の右手あたりにあったピュアチャオのポヨが、その雲を吹き飛ばすような大胆な笑い方に驚いて反応する。
「ないですよ、そんなもの。ありえない」
てっきり、軽口だと思ったのだ。
てっきり、少年はいつもの軽口だと思って聞き流していたし、真剣に捉えていなかった。もちろん、現実の中に非現実性というものはあるだろう。だが結局は曖昧なもので、夢物語(ファンタジー)が目に見える形で現れるのは、夢の世界だけなのだ。
「急すぎると思わないか。科学の発達がだよ。あの『仮想現実システム』といい、『チャオガーデン・プロジェクト』といい、どうにも胡散臭いものばかりだ。人の心をトレースして機械に人格を生成する、ってのもだな」
「22世紀には、猫型ロボットが一般的になるはずだった、らしいですよ。有名なマンガの話ですけどね」
「ま、そんなことはどうでもいい。それよりも——いいか、ここからが大事だ。よく聞け、浅羽(あさば)」
フルフェイスヘルメットの奥で、彼はどのような表情をしているのだろうか。いつものしかめ面だろうか。それとも、したり顔だろうか。
浅羽和利(あさばかずとし)は考えてみた。彼があまりに深刻そうな、重苦しい声をしていたからである。
長い笑い話の前座だろうか、とも考えた。真剣な声色でばかばかしいことを話せば、面白おかしく見えるだろう。それである。
だが。
何か違うような気がした。
ふとましい男は続ける。
「これから話すのは独り言だ。いいか、独り言だからな。答えるなよ」
「なにを」
「人の持つ最大の武器は、その適応力だ。どんな状況だってその武器は効果を発揮するんだ」
和利は口を閉じた。
「具体的な環境にだけじゃない。例えば平和そのものにだったり、上手く言えないが……適応するんだ。慣れてしまう。嫌なことも続ければ、いつの間にか嫌じゃなくなったり、人を信じないままの人間はいつまでも人を信じられない」
「言いたい事は分かりますよ」
少し間を置いてから、和利は答えた。
「そうか、ならいい。俺はもう行く。忘れるなよ浅羽。自分に疑問を持つな。他人に疑問を持つな。そういう自分に慣れるんじゃないぞ。慣れてしまったら、二度と元には戻れない」
「しっかりと。憶えておきます」
きっと忘れるだろうな、と和利は思って、排気音に備えた。案の定、ふとましい男はハンドルを思い切り捻って、ぐんぐんと進む。
和利はその姿が点になるまで、背中を見続けていた。
自分に夢を運んでくれる人はいなくなり、再び自分は退屈な日常を送ることになる。それが果たして良いことなのか、悪いことなのか。和利には分からない。
そのすぐ隣で、ピュアチャオのポヨは「はてなマーク」を形作っていた。
恐らく、という言葉を和利はよく使う。
少し信憑性に欠ける、という意味合いを含めて使うことが大半ではあるものの、それが癖になっている感じがするのは否めない。いわば慣れである。
ピュアチャオが木の実をねだる。呆れた表情を作りながら、和利はかばんの中からチャオの実を取り出した。
がたん、と電車が揺れる。人の姿はまばらだった。
学校は既に冬休みであった。だから、普段は孤独な高校二年生に準じる和利であっても、今は一介の小国民にすぎない。
ひゅう、とどこからか隙間風が流れ込む。鼻をくすぐる。早朝というものは新鮮であると同時に、なんだか自分だけ別の場所に来たような、小さな非日常の世界へと連れて行ってくれる時間だ。
余談であるが、今年は例年に比べると気温が低いらしい。チャオが発するCAS(無意識下におけるキャプチャー能力の効果が適用される空間)の影響で、大気中の熱が、あるいは日光がキャプチャーされているためではないかと言われているが、立証はされていなかった。
そもそも、それであれば様々なものを同時にCASに取り込んでいるはずだから、極端に寒くも暑くもならないはずである。
ふと目をやったところには、優先席のマークがあった。お年寄り、妊婦、けが人には席をゆずりましょうという暗黙の了解というべきマナーが形になったものである。
こういう親切の強要というものが、和利はどうも好きになれない。
マークの「けが人」のすぐ隣、チャオのシルエットが見えた。チャオ同伴の方のための、優先席である。
問、チャオは社会的弱者であるか?
否、チャオは社会的弱者ではない。
チャオは愛でるべき存在であり、ペットの延長線上に位置する。和利にとっては、まさに生きる理由とも言えるだろう。チャオの実を食べるピュアチャオの頭に、右手をそっと乗っける。
こういうチャオへの愛を勘違いした人たちが、チャオを不幸にするのだと和利は思った。
車掌のアナウンスが入って、電車が停止する。
駅ごとに異なる独特のBGMが、開いたドアの外から寂しく響いて来る。
乗客が減って、増える。
和利の向かい側に帽子を被った男が座った。角の切れた新聞紙を読んでいる。今の時代、新聞紙というのは非常に珍しい。電子書籍がメインとなった今では、紙媒体の需要は低いのである。
男の帽子は茶色いチェックのベレー帽だった。
フレームのない眼鏡をかけている。
ブラウンカラーで統一された服装に、薄汚れた革靴を履いていた。
なるほど、旅の人なのかもしれない。というか、いかにも旅の人である。
そう考える理由は二つほどあった。一つは色だ。茶色というのは目立たない。景色に溶け込みやすいのだ。もし彼がデジタルカメラを持っていたとしたら、そこには風景を強調された彼の写真が何十枚も保存されていることだろう。
もう一つは薄汚れた革靴である。ローファーというのは傷むことはあっても、汚れることは少ない。もし汚れたとしても極端なものだ。加えて見かけから推測するに二十代の後半といったところ。革靴を汚したまま会社に行くというのは、少し考えにくい。
電車が発車する。
がたん、とやや揺れて、和利は帽子を被った男の姿に、違和感を覚えた。
強烈なものではない。
あるいは、既視感であったのかもしれない。
表現しがたい感覚が、和利を襲った。
気のせいだろう。
和利は自分にそう言い聞かせる。
「ちゃうー」
隣から寂しそうな声が聞こえて、和利はたまらなくピュアチャオを膝の上に乗せた。
——お前は変わらないな、エモ。
たかだか十六年しか生きていない、物心ついてから換算すれば十三年もない、そんな人生でも、懐かしさを感じられずにはいられなかった。ほんの数年前まで早朝の電車はものすごく混雑していたのだ。今の状況では、とても信じられたものではない。
進化という。
進歩という。
けれど、人はちゃんと前へ進んでいるだろうか。人はちゃんと正しい方向へ進んでいるだろうか。誰にも分からない。誰かにしか分からない。その誰かが分からない。
「君のチャオ、名前はなんていうんだい?」
重たい空気を感じて、和利はエモを抱きかかえた。対面の席に座っていたはずの帽子の男が、いつの間にか席を立って目の前にいる。和利は驚いて言葉が出なかったが、少しそんな自分を情けなく思って、いつもの調子を取り戻した。
「エモです。エモート」
「良い名前だ」
和利はあやうく腰を抜かすところだった。
まるで物語の登場人物である。『良い名前だ』なんて言う人が実在した。それ以上に、彼の言葉から感じられる壮絶な違和感が驚きを加速させる。
台本を読んでいるかのように一字一句はっきりした言葉。
伝えもらすことのないように、一字一句はっきりした言葉の羅列だ。
「浅羽和利君」
警戒心が沸き起こる。とはいえ既に動いてしまった電車の中だ。逃げようがない。
しかし、そういった危機感を覚える中で和利は本当に物語の登場人物と対面している錯覚がしてならなかった。下らない発想。いつもなら愚かだと切り捨てることも出来ただろうが、見ず知らずの人に名前を知られているなんてことがありえるだろうか。
ぎゅっとエモを強く抱きしめる。こんな状況でもポヨはハートマークになっていた。
「君はチャオを愛しているかい?」
「は……はい」
なにを言うのかと思えば。和利の緊張は一瞬にして解けた。
「当たり前です」
「そうか。なにがあっても、だね」
「なにがあっても? そんなの当たり前じゃないですか」
帽子の男の目が和利を試す。だから和利もしっかりと見返す。
電車の音だけが際立って聞こえて来た。周りの音は耳に入らない。真剣な帽子の男の表情が、更に和利を緊張させる。
試されている。それは分かった。しかし何の為に? 何の目的があって?
「願わくば、それが本物の愛であることを祈ろう」
不思議な感覚だった。目の前の知らない誰かの声が、懐かしい響きを帯びているように感じた。かと思えば聞きなれているような、そんな感じもする。
何より、違和感がある。
この声は、何か違う。
「本物じゃないってことですか?」
口だけで男はにやりと笑った。ちょうどそのタイミング。電車が揺れる。ただの揺れではなかった。衝撃。強い衝撃である。照明が明滅して、消える。
和利はチャオを抱きかかえて、強く抱きかかえたまま、死を覚悟した。
揺れはおさまらない。
目を開けているのも辛かった。視界がぐわんぐわんと揺れ動く。誰かの声が聞こえた。叫び声だった。聞こえただけで、声は多くの音の中に囲まれて行った。
浅羽和利、十六歳。
十二月二十日の出来事である。
寂しそうな声が耳に心地よく響く。それは和利にとって、何よりもかけがえのない、自分を現実につなぎとめる楔だった。
目を開ける。立ち上がろうとして、足に力が入らない。何より眩しい。何時だろうか。どれだけの時間を眠っていたのか。いや、長くて十数分程度だろう。長い時間の失神に耐えられるほど、人の体は強くない。
エモの心配そうな目を見て、和利はようやく笑みを取り戻した。
「大丈夫?」
「ちゃうう」
エモの頭を軽く撫でながら周りを見渡す。
惨状、だった。
道端に倒れる人、人、人。瓦礫だらけの線路。人のうめき声すらしない。和利は目を瞑りたかった。赤い液体が飛散している。かすかな悪臭が更に不快感を運んで来た。
後ろを見た。電車が横たわっている。自分は窓から投げ飛ばされたようだった。道理で体の節々が痛む。
(俺はどこへ行こうとしていたんだっけ)
世紀の大発見、ジュエルピュア誕生祭。その当地、チャオフェスタ会場に向かっている途中だった。
空気の冷たさが肌を劈(つんざ)く。
頭痛がする。
漂う鉄の臭いが、痛みを増幅させる。
——慣れるなと先輩は言った。慣れるわけがないと和利は思った。こんな地獄のような環境に適応できる人間なんていない。いるはずがない。
「チャオ所持者を確認!」
唐突な生きた声。
あまり良い雰囲気ではない。目の前から向かって来る集団。外面だけみれば、まるで軍隊だ。その軍隊らしき人物が、物騒な声で言った言葉はなんだったか。
チャオの所持者を確認。
すなわち。
「エモ!」
「ちゃっ」
和利はエモを抱えた。崩壊した電車の中を通って、反対側に突き抜ける。後ろから何らかの叫び声が聞こえて、内容はうまく頭に入って来なかった。
とにかく逃げるしかない。
そう思った。
「速やかにチャオを渡せ! 抵抗するならば射殺する!」
瓦礫の山を乗り越えて進む。行く当てはない。だが走らなければ殺される。
「なんでっ……」
自分が呼吸しているのか、自分はちゃんと走っているのか、自分の目はしかと現実をとらえているか。わけがわからなくて、今すぐにでも眠りにつきたかった。
「なんで俺がこんな目に遭ってんだよ!」
エモを差し出すわけにはいかない。どうしてたった一人の家族を差し出さなければならないのか。
あんな人間たちに。
あんな人間どもに。
「抵抗は無駄だ! 十数える! それまでに渡さぬ場合は、容赦なく射殺する!」
——ふざけるな。
叫びたかったが、声が出なかった。喉から空気が出ただけである。物陰に隠れ、角を曲がって、道も分からぬまま進み続ける。後ろは振り返らない。見る余裕はない。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
確かに鬱屈した毎日を過ごしていた。けれどそれでも必死に生きていた。なのにどうして、こんな最悪の形で。
相手の目的はなんだ。チャオ——つまりエモ。自分は? 発砲して来ないところを考えて、出来るだけ殺すなという命令を受けているのかもしれない。
そうなれば。
相手の目的は。
エモだけだ。
「四! 三! 二! 一!」
和利は足を止めた。発砲はない。エモのポヨがはてなマークになっている。その頭をゆっくりと撫でて、和利は息切れしながら振り向いた。
軍人と思しき人物が三人。銃を構えて照準をこちらへ定めている。
ゆっくりと来た道を戻る。
エモさえ渡せば、殺されはしない。
エモさえ渡せば。
自分だけ助かることが出来る。チャオはまた買えばいい。けれど、自分が死んでしまったら。全てが終わってしまう。自分がなくなる。
「よし、そこにチャオを置け」
和利は立ち止まる。選ぶべき道は二つ。一つ、殺されてエモも奪われる。二つ、エモは奪われるが生き永らえる。
どちらでもない道は選べない。
なら。
それなら。
「いやだ」
とっさに口をついて出た言葉は、考えていたはずの答えとは違っていた。
「嫌だ!」
もしここに先輩がいたら、鳩に豆鉄砲を食らったような顔をしたことだろう。十六歳にもなると、自分が他人からどういうキャラクターで見られているのかがよく分かって来る。
いつでも冷静沈着。皮肉屋。嫌味ったらしい。場合によっては、勉強できるぐらいでチョーシに乗ってる、なんて思われることも。
自分でも、自分がこんなに叫べるなんて思わなかった。
言いたくなかったことが、言わないで済んでいたことが、堰を切ったように。
止め処なくそれは流れ、溢れ出す。
「大体、お前らなんだよ! 一方的に! 話し合おうともしないで! 自分が間違ってるなんてつゆほども思わないんだろ!」
銃口が三つ、和利を向いている。
構わなかった。
「うざいんだよ、どいつもこいつも! お前らは俺より劣ってるんだから一生部屋の中で縮こまってりゃいいんだよ! 消えろよ、邪魔なんだよ! 目障りなんだよ!」
「チャオを渡す気はないと?」
「お前らは」
発砲音が甲高く響いた。
死を覚悟する時間的猶予はない。一瞬で和利は脳天を撃ち貫かれ、即死する。
事実、和利は体をつめたい何かが通り過ぎたような、そんな感覚がした。
そして、それが彼らの描いた、間違えようのない予測だった。
和利に銃弾が当たる寸前。
それは起こる。
大気が歪曲し、銃弾は停止する。驚愕に顔を歪ませる暇はない。
陽炎を幾重にも重ねたようなそれが、銃弾を弾き返す。そうしてそれは、銃弾の放たれた道筋をなぞるようにして、軍人の胸部を貫いた。
「こっちだ!」
その声がどこから発されたものなのか、和利には分からなかった。気が付けば手を引かれて走っていた。
どうやら自分はまだ生き永らえているらしい。
辛うじてそれだけは理解することが出来たが、良い気分にはなれない。
ここで死んで置けば、楽だったろうから。