1話 七回目の朝日が昇る頃
骨犬のボンが星を数えるのをやめた。それを知った時ぼくは山ほど驚いて、彼に問い詰めてみたのだ。
すると彼はいつもの調子でひょろりと答えた。
「数えても仕方がないよ。キリがないもん」
「だけどあなた、七年も続けていたでしょう。どうして辞めちゃうのさ」
「キリがないからだよ。それに今は他のことに興味がある」
ボンは小さな手足を大きく動かして円を描いた。それからぽかんとしているぼくを見て、彼は「この星のことさ」と言った。
「この星にはチャオがたくさんいるだろう?」
「いるね。ぼくのような善良なチャオがいっぱいいる」
「でも、どうやら昔は違ったようなんだ」
「昔って……君が子犬の頃の話かい?」
「いいやもっと昔さ。そうだな、きっと君のお母さんのお母さんの、そのお母さんくらいの頃の話だ」
ボンがこういう遠い話をする時には必ず何かきっかけがある。
彼が星を数え始めた日のことはよく憶えている。七年前のさんかくの木の実がなる頃だ。
その日は綿の雨が降らなくて、いつもよりも暖かかったから、ボンが王さまの山へ行こうと言い出したのだ。
王さまの山を登ったぼくたちはその頂きで星を近くに見て、そうしたらボンが突然「星がいくつあるのか数える」なんて言うものだから、ぼくは疲れと呆れで何も言えなくなってしまった。
彼はそれから七年、毎晩欠かさず星を数え続けてきた。
「それで何があったのさ」
「これだよ」
ボンが骨の隙間に挟んでいた紙切れをほいと寄越す。
手足の長い生き物がいくつも映っていた。
「これは……生き物かな? これは何だい?」
「分からない」
むむむと唸るボン。
「けれどその紙は湖の洞窟から見つかった」
「それで昔のってこと」
「そうさ」
湖の洞窟は「掘り出し物」が見つかることが多い。村にある道具のほとんどはその洞窟から見つかったものだ。
木の実を効率よく回収するはしごや、回収した木の実を美味しくするお鍋。どれもぼくらが生まれる前に見つかってから、ずっと使われているものらしい。
「その紙をよく見て欲しい」
「うん」
「何か気が付かないかい?」
「うーん」
「よく観察してみてくれ」
「そもそもこれは、生き物なんだろうか?」
「手足が長いんだ。君もそれに気づかないとは、まだまだだな」
ええっ!
ぼくが呆気にとられているうちに、ボンは続けてしまう。
「洞窟で見つかったものを改めて観察してみると、どれも大きいんだ。チャオが使うにしては、大きすぎるんだ」
「というと?」
「この生き物が使っていた可能性が高い。ボクはそう見ている」
彼は稀に、こうやって誰にも思い付かないようなことを、けれど少し考えれば誰でも思い付くようなことを言ってみせるのだ。
「村のチャオに聞いてみたが、詳しいものはいなかった」
「そうだね。ぼくのひいお祖母ちゃんは、だいぶ前に旅立ってしまったし」
そこだ、とボンは言った。
「お年を召している方ならきっと知っているはずなんだよ」
「お年を召している方?」
「竜のことさ」
「竜!?」
「川の先に大きな湖があって、そこに竜が住まうらしいんだ」
話には聞いたことがあった。なんでもこの星には古くから住まう三つの聖なるケモノがいるのだという。
うちひとつが、終わりのない湖に眠る竜。火を吹き、嵐を起こすと言い伝えられている。
「それで、いつ行くんだい?」
「今日から数えて七日の後、ボクは発つ」
ボンはそれからぼくをじっと見た。
王さまの山は村から近い。けれど川の果てまで行くとなると、それとは比べ物にならないくらいの長い旅になる。
「あなたはいつも唐突だ」
「そうかい?」
「でも、きっと行くよ」
「分かった」
彼は骨をかたかたと笑わせた。
「じゃあ七回目の朝日が昇る頃、川の始まるところで待っているよ」
林をくり抜いて作られた道には綿が敷き詰められていた。
さっくさっくと音を立てて歩くと、まるい足跡がついて、ぼくはそれがとてもおもしろくてつい音を立てて歩いてしまう。
少し先に進むとまだ新しい足跡が見えた。
すぐ傍の木には看板が打ち付けてあって、これがこの村の証になる。
村は岩場を中心に造られている。暖かい時期には美味しい水がたくさん湧き出るので、ぼくたちにとってはうってつけの場所だ。
ボンは水が苦手なので、その時期になると村にはなかなか寄り付かなくなる。
ぼくの家は岩の陰に藁と木で区切られたところにひっそりとある。
お鍋の良い香りが漂って来た。木の実を煮込むと甘酸っぱい香りがする。この香りにはチャオのお腹を空かせる効能がある。
藁作りの暖簾を潜って中に入ると、部屋の真ん中にお鍋があって、お祖母ちゃんが木の実を煮込んでいるのだった。
「お母さん」
その隣に座って木の実を細く切っているお母さん。
「なあに?」
「川下の湖は危ないかな?」
「なんね急に。危ないさ」
「行くつもりならやめとき。湖にはこわーい生き物がたくさんいるっちゅう話よ」
とお祖母ちゃん。
「ボンに一緒に行こうって誘われたんだ」
「またあの子かい!?」
「……なんだけれど、良い?」
お母さんは木の実を切るのをやめて、キッ!とこちらを睨む。怒っている時の顔は少し怖い。
「何しに行くん?」
「竜に会いたいって。ボンが」
「それはダメ。いい加減、あの子と遊ぶのはよしなさい」
険しい顔をしたままぼくから目を離さない。
「川の下は急流になっていて危ないかんねえ。それに竜さんも、チャオをとって食うって話さ」
普段はぼくに甘いお祖母ちゃんも反対のようだ。
それを聞いた父が木馬を組み立てる手を止めて、
「ボンくんは、星数えに夢中じゃなかったんか?」
と尋ねて来た。
「星数えをやめたみたいなんだ」
「ええっ。またどうしてだい?」
「どうせ下んない理由に決まってん」
とお母さん。
「キリがないからみたいなんだ」
「キリがないねえ。ボンくんが星数えを始めたのはいつ頃だったっけね?」
「七年くらい前さ」
「七年。お婆様がいなくなった年かね」
そうだ。七年前はひいお祖母ちゃんが旅立った年だった。
ぼくはひいお祖母ちゃんによく物を教えてもらっていたので、今の今まで忘れていたことに驚いた。
父はそれからしばらく考え込む様子を見せた。
「良いんじゃない」
「お父さん! デイはまだ八つなのに、川下に向かわすなんて危ないでしょう!」
「お友達も一緒なんだろう? 大丈夫さ」
「お友達言うても、骨犬の子よ! 何やらかすか分からん!」
「そうかい? ぼくはボンくん、とてもしっかりしている子だと思うよ」
「デイが五つん時も、洞窟で怪我して来て……謝りもせんで、ほんと何考えてるか分からん子! 母さんは許さんからね」
「お母さん」
父の声色が少し重くなる。いつも穏やかに話す父だが、時々その声に厳しさが混じる時がある。
しばらくお母さんと父は無言で見つめ合って、やがてお母さんは家から出て行った。お祖母ちゃんはそれを見届けると、何も言わずに木の実の煮込みを再開する。
「すまんね、デイ。お母さんは……知らないものが怖いんよ」
「知らないもの?」
「そう。ぼくたちがまだ知らないものさ」
父がうんと深く話す。
「ぼくたちはこの山の湧き水の出る場所と、木の実のなる場所しか知らないのさ」
「ぼくは、王さまの山に登ったこともあるよ」
「うん」
にこっと笑う父。
「でも最初は怖かったろう? 知らない場所は怖い。お母さんは怖がりだからね」
「うん」
「だからデイにもできれば安全な場所で安全に育って欲しいんさ」
「うん」
「だけど、デイにはデイの生きる場所がある。それもちゃんと分かってくれている」
父が微笑む。
「お友達を悪く言うのはよくないね。ただ、お母さんもそれは分かってる。時間はかかるけれど、ちゃんと受け入れてくれるはずさ」
「お父さん、大丈夫。分かってるよ」
「分かっているなら、好きにしなさい」
それきり父は木馬を組み立てる作業に戻った。
「デイ、お鍋ができたよ」
「ありがとう、お祖母ちゃん」
お祖母ちゃんなりの気遣いなのだろう、木の実のお鍋をぼくの目の前に出してくれる。そうしてまた新しいお鍋を出して、木の実を煮込み始める。
お母さんが帰って来た時にも、きっとぼくと同じようにするのだ。
そう思うとなんだか安心して、急に眠たくなってきたので、木を削って作られた寝袋に入る。
あした起きたら、もう一度お母さんとお話してみよう。
けれど、その日、お母さんは帰って来なかった。
その次の日も、次の日も、帰って来なかった。
ぼくたちは村のチャオにも声をかけて、総出で探してみたけれど、お母さんは見つからなかった。
そうして、六回目の日が沈んだ。
「お母さん、帰って来ないね」
父もお祖母ちゃんも、何も言ってはくれなかった。
二人とも不安なのだ。
チャオは時々いなくなって、帰って来なくなることがある。
「竜に食われたんさ」
お祖母ちゃんが言った。
「竜に会いに行くなんて、罰当たりなこと言うから」
「母さん」
父がお祖母ちゃんの弱音を咎める。
そういえばひいお祖母ちゃんが旅立った時もこんな感じの日だった。寒くてたまらない日で、木の実の貯えも底を突こうかという頃に、ひいお祖母ちゃんはいなくなった。
木の実がたんまり採れなかった年は、村のみんなで少しずつ分け合って暮らしていくことになる。
でもその年、ひいお祖母ちゃんは木の実を食べなかった。村の子どもたちにたくさん食べさせてあげたがった。
お腹が空いているのはみんな同じなのに……どうしてそんなことをするんだろう?
ぼくはそんなふうに思ったけれど、美味しい木の実をいっぱい食べられるのは嬉しいので、何も言わずにいた。
「大丈夫さ。そのうち帰って来る」
そう言う父の声は震えていた。
「それよりデイ、今日は約束の日だろう」
「うん」
でも……と言い淀むぼくに、父は言う。
「ボンくんは良い子だ。ずうっと前からそうだった」
「うん」
「デイとボンは、友達だろう」
そうだ。
でも、お母さんが帰って来ないまま行くのはずるい気がした。
「お母さんは、きっとひいお祖母ちゃんのところに行ったんだ」
「ひいお祖母ちゃんのところに?」
「うん」
「だけど、まだお母さんとちゃんとお話してないよ」
「お行き!」
お祖母ちゃんが声を張った。
「お祖母ちゃん……」
「あの子はやりたいことをやっただけさ」
それに、とお祖母ちゃんは続ける。
「あの子が戻って来た時におまえがいたら、あの子、ずうっと後悔することになる」
ぼくはそれを聞いて、ぶわっと頭が熱くなった気がした。
走って家を出ようとして、何も準備をしていなかったことに気が付く。
寝袋と枯れ葉、枯れ枝を布切れに包んで、太くて丈夫な枝の先に引っかける。それをぼくは釣り竿みたいに肩にかけた。
「デイ、これも持って行きなさい」
父が木の実をくれたので、それも布切れの中にいれる。
ぼくは家を飛び出した。
川の始まるところは村から少し遠い。林の中をぐんぐんと進まなくちゃならないから大変だ。しかも道は暗い。
ぼくが今よりもっと子どもだった頃は、ボンと一緒にいろいろなところへ行った。
なのにいつの間にかどこへも行かなくなってしまった。
その間も、ボンはひとりで湖の洞窟や王さまの山の裏側に行っていたみたいだけれど。
草木をかき分けているうちに綿の雨が降ってきた。
足を急かす。
ひいお祖母ちゃんがいなくなって、お母さんもいなくなった。
どうしていなくなってしまったんだろう。
今日までずっと考えていた。でも答えは出なかった。
きっとぼくたちにはまだ知らないことがいっぱいある。
ボンが見つけて来た紙。それに映っていた手足の長い生き物のこと。川を下った先にある湖。そこに住む竜。
それだけじゃない。
お母さんが本当はどんな気持ちで、どういうふうに考えていたのかだって、ぼくは知らないままだ。
そのうちに川が見えた。流れの強い水が岩場のあちこちにぶつかって、それでも大きく逸れずにまっすぐ進んでいる。
川の勢いが強いということは、目的地は近いということだ。
ぼくは川の流れが来る方へ走った。
木の実のスープを零したみたいに、端からゆっくりと、空が白く塗りつぶされて行く。
更に急ぐ。
あの日から数えて七回目の日が昇る。
その日の向こうからずかずかとやって来る骨犬の姿がうっすら見えた。
「遅いよ」
ボンが言った。
「ごめん」
ぼくも言った。
ぼくらは少しの間、そうして朝日が昇るのを見ていた。長い旅になる予感があって、けれどそんなのはいつものことで、短く終わってしまう時だって何度もあった。
やがてどちらともなく、川の流れ着く方へと歩き出した。