チャオのかぜ

 二匹のチャオの世話をする藤村茜。世話とはいうものの大変な作業ではない。ほとんど二匹で遊ばせているのを見ているに近い。生まれてから一ヶ月ばかりしか経っていないチャオに芸を仕込むようにシュンは自分のできることを見せていく。何度か繰り返してリンゴは歌の真似事ができるようになってきた。それとなく節ができてくると佐伯心は凄い凄いとはしゃいでいた。二人以外も至近距離でないがチャオの引力の影響下だろう。まるで小さなキャンプファイヤーだ。通と紗々はチャオに興味を示すことが少なく祐介はどっちつかずなのは最初から変わっていない。しかし祐介の心にはいくらか余裕が生まれていた。一発芸をしていた時、自分も向こう見ずに混ざっていけばよかったなどという後悔ができるほどに。チャオそっちのけ組の話題は夏休みに移った。学生の中で最もホットな話題だ。
「この面子でなんかしたいな」
 通が提案する。できれば海に行きたいと添えて。そして紗々の足からホットパンツへ、そこからさらに上へ上へとボディラインを見ていく。その下心を感じたようで「海以外にどこか行きたいね」と紗々は回避行動に出た。まだ一ヶ月の付き合い。いきなり海はハードルが高いだろう。そこをくんだ祐介は「どっかの祭りに繰り出すとか?」と無難そうな案を出す。そこから話は膨らんで「この時期が一番楽しかったというオチ」と茜も冷たい言葉を入れてきた。夏休みの予定を考えて期待に胸を膨らますことのできる今。これもまた夏休みの恩恵か。祐介は長期休暇に感謝する。既に楽しくなっているからだ。
「なんやかんやでここに集まりそうだけど」
「ありそうありそう」
 紗々が笑う。その様子だと夏休みでも来る気でいるのだろう。物好きだ。他の面子はどうか。チャオガーデンに茜が来るのは言うまでもない。通は女子が来るのであれば来るだろう。
「夏休みなのに、結局普段と変わらない、と」
 揚げ足を取るような茜。彼女は夏休みをどう思っているのだろうと祐介は思った。今の発言は夏休みだから特別なことをしたいと言っているようにも取れる。しかし彼女にとっての夏休みらしいこととは平日の朝からチャオガーデンにいられることかもしれない。ただの毒の可能性ありだった。
 まあどっちでもいいか。
 そこまで考えた祐介はそう結論した。どうあれ彼女はチャオとの生活を満喫するのだ。夏休みなどは関係なく自分がチャオを飼い始めることで新しい面白みを彼女と共有できれば満足。共有。祐介は共有したい。あれ、と自身の感情に違和感を覚えた。
 別に俺がチャオと楽しくいられればいいわけなんだけど、どうして藤村さんもと思うんだろう。
 これはもしかしたら恋なのだろうか。そう思った瞬間祐介の心拍数が上がった。自分は恋をしているのだろうかという意識で胸をどきどき言わせている自分をどこか滑稽だった。通のことを笑えないかもしれないなあと祐介は内心苦笑いした。

 日曜日のチャオガーデンは木々もどこかよそよそしい。その鮮やかさも駆け回る子どものものだ。祐介の見知った顔は茜のみだった。人口密度の低い場所を見つけ岩を背もたれに座っていた。騒ぎ立ててエネルギーを発散わけでもなく緩やかに生涯を消化するわけでもない少年少女にうってつけの場所だ。そこでもたれている黒い髪は静かに流れる。服の色は明るいが灰色の落ち着きようが地蔵のようだ。祐介が声をかけると大人しい印象に少し変化が訪れる。顔が向けられることで眼鏡のフォルムがはっきりと見えてくる。声の主に目が視線を投げかけて一転、地蔵を思わせたものたちから知性の鋭さがにじみ出て弁慶らしさが出る。
「今週四回目だけど、病気?」
 来ることを想定していなかったためにそう言うまでしばらく時間を要した。
「そしたらまずあんたが病気だ」
 祐介が言い返すと、そうではなくて、と茜の溜め息が漏れる。「チャオ飼ってないのに、よく来る」現在のチャオガーデンは、チャオを飼っていない人間が来ることはまずない。チャオに無関心な人間が多いグループがここで集まっていること自体、かなりのレアケースと言える。興味なさそうなのに週に四回もガーデンを訪れることも同様だ。
「いや、飼うことにしたから」
 ぽかんとした茜はその三文字分だけ間を空けて「どういう風の吹き回し?」と聞く。どう答えたものかと考える祐介。今までの葛藤を馬鹿正直に話すのは少し恥ずかしい。そこにドラマのようなセリフを吐いてみたいというかねてからの欲求が身を乗り出してきてしまった。「転生をしなくても、いいかなって」遠い目をしながらそう言ってしまった。茜の方に向き直ると眉がなんのこっちゃと言っていた。脈絡なかったのだから当然か。そう観念して事情をかいつまんで話すことにした。前にチャオを飼っていた時、転生のことばかり考えていたこと。しかし死んでしまったこと。そのことがちょっとしたトラウマになっていたこと。
「でまあとりあえず吹っ切れたんで、もう一度飼ってみようかなっと」
「そう」
 チャオと遊んでいる子供がチャオに何かをはやし立てるだけの間があった。端正な顔はもう祐介の方を向いてはいない。その彼女の口から出た言葉は存外優しげなものだった。「今度はいい思い出ができるといいね」目線の先にはシュンがいる。絵を描いていた。恒例行事にも思えるその遊びはもう完成しかかっていた。描かれているのは飼い主の顔だ。眼鏡の形を確認してから、その通りにスケッチブックに色を塗りつけた。完成して再び顔を上げたところでシュンが祐介に気づいた。彼の顔をじっくりと観察する。祐介も祐介で自分も描いてくれるのかと期待の眼差しで見る。見つめ合う形となる。顔を逸らしたのはシュンの方だった。何事もなかったかのように絵を茜に渡した。がくりと祐介の頭は重くなった。
「こっちは描いてくれんのか」
 落胆は流された。茜はスルーしたし祐介もすぐにどうでもよくなっていた。どこからか殺気のぎらつく茜の絵だ。とりわけつり上がった目が怖い。しかし下手ながら特徴を捉えているとも言えた。何を思って描いたのだろう。飼い主の茜も量りかねて顔の下半分は笑顔を作りかけていたのに上は困惑に満ちている。こちらの表情を絵の題材としてはよさそうに思われた。おもちゃはチャオを楽しませる物だと思っていた。チャオを楽しませることで幸せにして、そして転生に近づける。しかし視線をチャオから少し遠ざければ飼い主も楽しんでいることがわかる。自分が本当に転生のことばかり考えていたのだと思い知らされる。こういうことを積み重ねれば、飼っていてよかったと思えるだけのいい思い出なるものができるのだろう。
 シュンはぺたりと座り込んだ。茜の顔をじっと見る。やんちゃな小僧を思わせるチャオにしてはやけに落ち着いた面差しだ。上目遣いの形になっていても愛嬌などはなく、ただただ注視している。その様子が妙だなと感じた二人。どうすることもできはしない。突然チャオが出したシリアスな雰囲気が壁のようにも思えてきたその時だ。壁が本当に一匹のチャオと二人の人間を隔てた。半透明の壁の正体はチャオの繭だ。チャオの頭部と同じ栗形をしたセロハンのように薄い膜が出来上がる。寿命が来た合図。黒田が近いと言った昨日の今日だ。早すぎる、あるいは的確すぎるというのが祐介の動揺だ。膜のようだったのが少しずつ厚みを増してくる。色がついているのがはっきりとしてきて繭らしい硬そうな外見に整ってくる。目を離せない場面ではあったが祐介はもう片方の興味である茜にも意識を向けた。シャープな目を時に針のようにしてより鋭くする彼女だが今は見開いて自分のチャオの最期を見守っている。夏の雲のように輪郭が膨らんだ目は僅かな透明度の変化も見逃さんとする意気込みが伝わってきそうだった。
「ねえ、これ」
 声も青々としている。興奮によるさわやかさ。祐介も同じように胸が躍っていた。繭の色ははっきりとピンク色になっていたからだ。転生の合図であるらしい暖色が二人を期待させる。「これ、本当に転生するのかな」実際に転生を目の当たりにしたことのない二人。祐介の時は白い繭だった。「転生、するのかも」白であったらそのようには言えなかっただろう。すごい。本当に。茜の口から次々と言葉が出てくる。それはチャオについて解説する時の饒舌さとは違っている。心の動きがポンプとなり彼女に喋らせているのだ。濃くなりきった繭が中身を完全に隠した。どうなっているか想像するしかない。卵へと変化しているのか。それとも消滅するのみか。どちらにせよ、どういう変化がチャオに起きているのだろうか。不思議なこと、わからないことで溢れている。ピンク色の繭に気づいた他の人たちも離れたところから見つめていた。無数の視線は架空の熱量を感じさせる。それを受けた繭は溶けるように薄くなり始めた。祐介が横目で茜を見る。いくらでも言葉を発していそうだった口は真一文字になっている。目は大きく開かれたまま。しかし目の色はいつの間にか緊張のものへと移り変わっていた。繭は大気へと変わっていくようにどんどん透明に近づいていく。繭が薫風となって散ってしまったその中、置き土産のように卵が一つ置かれていた。
「ああ」
 言葉として聞き取れたのはその二文字だけだった。茜は卵に抱きついて言葉にならない詠嘆を続けた。周りからも声がする。何を言っているかわからないが、それぞれが混ざって喜びや安堵の空気となり祐介に伝わってくる。段々と盛り上がったのが落ち着いてきて転生の最後に笑顔の茜と卵が残った。茜は嬉しさが口からこぼれるのが止まらなくなっていた。落ち着きのない彼女に合わせて黒縁の眼鏡はその楕円形から可愛らしさを出していた。クールな印象のある女の子がこうも変わる。今回ばかりではない。チャオと接する時彼女の表情は少なからず柔らかくなっていた。チャオは人の心を優しく撫でるのだろうと祐介は思った。まるで心地よい風のように。それならチャオによって様々な表情を引き出される人間の心は風鈴か。
「あ、チャオのかぜって」
 祐介はそう心の声をそのまま出した。思いついたことを彼女に聞いてほしかったのだ。これが正解だと思った。しかしいざ話してみると恥ずかしい。チャオのかぜとは人の心を動かすという魅力のことだったのだ、などと言わなくてはならないのだから。羞恥心が正解という確信を霧散させる。チャオが人の心を笑われるだろうかと祐介は不安になったがそのようなことはなかった。
「なるほどね」
 ゆっくりと頷く。三度そうして答えを噛みしめた。
「いい風」
 茜は卵をぎゅっと抱きしめて言った。室内で吹くわけのない風もどこからかやってきそうな光景。彼女は風を感じているに違いない。風がゆるりと雲を動かすように幸福感が茜の中を流れていっている。そのことを祐介は手に取るように感じ取っていた。自分の中にも風が吹いているのだとわかる。とても気持ちがよかった。
「もっと吹いてくれるといいな」
「それはだめ」
 茜はそよ風を出すように言う。
「風を吹かすのに夢中になったらまた死んでしまうから」
 そうだったと祐介は笑う。笑えたことが解放だった。やっと消化できた。よどみが消えた喜びで笑みが長く保たれた。正方向の気分で何時間もチャオガーデンに過ごし、解散となった。卵を抱えた茜と施設を出た祐介は空を見上げた。青を深めて夏に染まっていく空がどうしてだか感慨深い。ただ青が濃くなってきただけ。そうとわかりつつも季節までもが自分たちを祝福しているように感じていた。太陽も張り切ってこれからの夏休みを過ごすのだろう。祐介はその日光をできる限り浴びながら帰路に着いた。

このページについて
掲載日
2011年12月23日
ページ番号
8 / 8
この作品について
タイトル
「チャオのかぜ」
作者
スマッシュ
初回掲載
2011年12月23日