ヨーヨー

 六月も三分の二が終わりつつある日曜日。激しい雨の音は部屋の中でも騒ぎ立てる。意識せずとも自然と聞こえてくるほどの音量に大雨であることを否応なく認識させられる。時折、ばばばば、と荒い音が鳴る。無数の水滴が風によって窓に叩きつけられたのだ。耳をすませば車が水をひいていく音も聞こえる。賑やかだ。こういう雨は嫌いではない。心地よいバックミュージックとして受け入れながら緩やかに時間を過ごしていく。綿のような一時を引き裂いたのは携帯電話だ。着信音とバイブレーションのお祭り騒ぎ。かけてきたのは誰かと表示を見ると通という文字。電話に出れば一言目に「おい今すぐチャオガーデンに来い」と言う。突拍子もない言動。慣れて驚きはしないもののそれに振り回される身になってほしいと切に思う。「チャオガーデンねえ」携帯を当てているのとは逆の耳にざあざあと音が入ってくる。「大雨だぞ」まさか知らないなんてことはないだろうと思うものの言う。
「だからこそチャオガーデンで遊ぶ」
 理解できなかった。よくあることだ。「それになんか金本さんも来てるから、せっかくだからお前もと思ってな」既に三人はチャオガーデンにいるらしい。金本紗々の正気も疑った。「わかったよ、行くよ」人がいるならば、と決断してしまう自分もまたおかしいのかもしれないと感じるが心地よさがある。変なことはえてして子どものすることとされる。まだ子どもでいられることに安堵しているのだ。それは大人になりたくない、ずっと子どもでいたい、というのとは違う。大人になりたいと祐介は思っている。しかし同時に自分ではどうしようもない強い流れが強制的に変えてしまうことが怖い。小さい頃、大人になりたいと願った時にはなれなかった。失いたくないと未練があっても子どもっぽさを捨てなくてはならない時が来るかもしれない。だから今そういうことができて嬉しい。いくつか確認して電話を切る。外を見る。雨はまるで可視化された空気のように世界に充満し降り注いでいる。ずぶ濡れ確定。こんな日に外に出るなんて、やはり断った方がよかったのかもとげんなりしながら着替える。
 酷い雨の中歩く人は少ない。車の数は少なくない。家から駅、駅から施設までの僅かな時間少し惨めな思いをした。途中のコンビニで昼食を買う。雨の日におにぎりを買うのはどうなんだろうと思いながらも他にいい選択があるわけでもなかった。コンビニの中がやけに明るく見える。いつだって変わらず便利な店として人々に光を投げかけている。外が暗い時に来れば眩しささえ覚えるほどに。以前はチャオ用のペットボトルや食べ物を買うこともできた。チャオでも人間でも遊べる設計とうたわれた小さな娯楽道具も並んでいたが今ではそれらの商品が扱われることはない。現在店頭を飾っているのはアニメとコラボした華やかな商品たち。キャンペーン期間の案内がある。六月六日から七月四日まで。二週間後の月曜日に終わるらしい。その後このアニメのキャラクターたちがここを彩ることはない。しばらくすれば他のキャラクターがこの場所にいるのだろう。いつだって流行は一時の喧騒でしかない。その中にいる人々の感情もまたそうだ。興味は次の喧騒へと移っていくのだ。一瞥して鮭おにぎり二つとペットボトルの緑茶だけ購入した。これらはきっといつまでもこのコンビニにある。食欲の確実さを祐介は感じた。

 チャオガーデンにはしっかり例の四人がいた。本当に来ていたのかと紗々のいることに目を丸くする。さらなる驚愕とそれ以上の呆れを誘ったのは一人携帯ゲーム機に必死になっている通だ。「何をしているんだお前は」そう言うしかない。通はゲームの名前を述べた。祐介がプレイしていたそれである。「そうではなくどうしてお前はゲームをしているのかと聞いた」予定調和のように進む会話に、通はわざととぼけているのではないかとすら思わされる。通はけろっとした笑顔で「だって退屈じゃんか」と言った。今日ばかりは紗々も茜や心に近い位置にいる。祐介もそうすることにした。「もしかしてあいつはずっとああしてるのか」と三人に聞く。紗々が苦笑しながら頷いた。「私が来た時にはもうあんな感じだったよ」今度はチャオの方に視線を向ける。リンゴは寝息を立てている。それより一回り大きいシュンが寄り添うようにして見守っていた。
「まるで兄弟、いや親子か?」
「親子だね。それか孫とおじいさん」
 シュンは六歳だから、と茜。チャオの寿命は約六年。つまりシュンはいつ命が尽きてもおかしくない老体ということだ。外見や行動では歳がわかりにくい。そのため祐介は「六歳なのか、こいつは」と聞き返していた。「そうだけど」と茜が言う。もうすぐ寿命、もうすぐ転生。浮かび上がる言葉を祐介は抑えた。
「つまり小学五年頃からチャオを飼い始めたってことか。デビューは遅めなんだな」
 代わりの発言に茜は首を振る。「じゃあ小学四年か」それにも首を振った。
「幼稚園の時」
 祐介は、それはつまり、とまで言って止まる。最初のチャオは今ここにいるシュンなのか、それとも転生せずに死んでしまったのか。「この子は二匹目」シュンを撫でる。頭の上の手の動きに体を委ね、手が離れると茜に擦り寄った。転生できなかったのだ。それなのにまたチャオを飼うことは珍しいのではないのか。祐介はそう考えている。チャオは転生できる。確証はないが幸せな一生を送ることが条件と言われている。もしそれが本当だとしたら。チャオが死んでしまった場合、飼い主はチャオを幸せにできなかったということになる。だからチャオの死は他のペットの死よりも重い。大きな鉛玉を胃に落とされるような苦しみ。その罪の意識を持ってなお誰がチャオを飼いたいと思うのか。
 少なくとも俺は思わなかった。
 鉛玉はまだ祐介の中に残っている。彼がその体を動かすごとに重量が存在を主張する。チャオに触れたくないと思わせる。たった一回の接触でも他人のチャオの転生を妨げてしまうのではないのかと不安でたまらない。祐介にとってのブームが終わった理由は死の重さが大きかった。茜が何をどう考えて二匹目のチャオを飼うに至ったのか気になる。その時、ゲームをやめた通が立ち上がった。その動きに反応して視線が彼に集まる。通は四人に近寄った。そして二匹いるチャオを見る。寝ているリンゴを見て、そしてシュンを持ち上げた。突然の行動に警戒心を持った茜が「ちょっと」と制止しようとしたが構わずチャオを自分の服の中に入れて言った。
「妊婦」
 絶句が四つ重なり濃厚な無言となってどろりと集団を囲う。泥のような不快な空間を通は清めることができない。いやしない。チャオがティーシャツの中で暴れてもぐらたたきのようにティーシャツが荒ぶる。もはや一発芸は芸の体にすらなっていない。しかし意に介さず「お腹を蹴ってる」などと言っている。あまりにもシュールな光景だった。チャオガーデンから切り離されたがごとく独特の空気が充満していく。水場で泳ぐチャオのバタ足の音も既に遠い。手を自らの顔に当て嘆く祐介の姿が集団を現実に引き止めていた。茜が引き剥がすようにチャオを無理やり奪い返し罵倒をしながら泣きそうになっているチャオの頭をゆっくりと撫でてあやす。徐々に空気が現実のものに戻ってくる。今度は寝ているリンゴを持ち上げようとした通。
「寝ているチャオはそっとしておいて」
 それを茜が言葉で刺した。「それだと一発芸ができない」と抗議するが、今度は視線で射落とされる。元々釣り目気味の茜であったがその威力は眼鏡によって強化されていた。そうなってやっとフリーズしていた紗々が復旧した。ふふふと叱られている通を生暖かく見ているような笑いだった。最初はそうだった。段々と声の調子が上がってきたかと思うと笑い転げた。笑うあまり座っているのも辛くなって芝生の上に倒れながら笑い続ける。あははあはは、という笑い声がしばらくすると「えへ、えへ、えへ」と息苦しさと狂気をはらんだ声になってきた。呼吸困難になりながら笑いが落ち着いてくると「やばい」だの「おかしい」だのと言っては再び笑いが戻ってくる。三分ほどその状態が続いた。完全に鎮まって喘ぐように酸素を体内にかき集める紗々。茜は大爆笑の様子を物珍しそうに注視していた。ふむ、とチャオと交互に見ながら何かを考えている。そして茜は紗々を呼び、目を自身に向けさせる。チャオの頭の上の球体を右手で掴み、左手でチャオを猫つかみした。左手のチャオだけ上下させながら言った。
「ヨーヨー」
 空気が急速冷凍されていく。通でさえも絶句していた。数秒の沈黙を置いて紗々が沸騰した。地獄再び。酸素を爆笑に奪われていく紗々を見て茜は満足げだ。何度も同じことをやってはにやけている。笑いは起こらないが意外そうな視線が茜に注がれる。常に騒がず物静か、冷静な人間だという印象が覆った。ただマイペースに生きているのだ。だからチャオが絡むことだと今回のように彼女なりにはしゃぐのだろう。そういう点では通と似ているのかもしれないと祐介は思った。「やばい、やばい」と連呼しながら笑い続けた紗々がその渦から逃れた後に「やっぱここ最高」と漏らした。
 自分の好き勝手に行動してばかり。思えば紗々だってそうだ。わざわざチャオガーデンに来て、やることは茜たちと話すだけ。茜が好きだと言ってた。気に入った人間とつるむためにこんな所にも来る。そうやって自分の好きに楽しんでいる。どこか似ている。類は友を呼ぶということか。
 では自分はどうなのか。自分はただ流されているだけだと祐介は感じた。彼女らのように原動力となる価値観がないように思われた。むしろ行動することを嫌いさえする。止まっていることを好む。流れるだけがいい。しかし何もしないことは寂しいことだということはわかっている。だから今のように知り合いと行動を共にしている。ただそれだけの生き方だ。他者の排熱で動く自分をどうして尊重できようか。彼女たちが眩しい。同等になりたいと思う反面その結果待っているものを思い浮かべずにはいられない。こういう時に祐介は昔に戻りたいと思う。無知にすがりたくなるのだ。嫌なことが未来にあると知っているから、楽しくなくなるのだから。
 茜にヨーヨーにされているシュンが彼女に身振り手振りで何かを要求していた。右腕で大きく円を描いている。茜はどこか残念そうに地面に下ろして、バッグの中からクレヨンの箱を取り出した。それを渡してどの色を使おうか選んでいるうちにスケッチブックを出して手元に置いてやった。絵を描くのが好きなようだ。水色のクレヨンで描かれたのは赤ちゃんにされた自分でもヨーヨーにされる自分でもなく寝ているリンゴの姿だった。

このページについて
掲載日
2011年12月23日
ページ番号
3 / 8
この作品について
タイトル
「チャオのかぜ」
作者
スマッシュ
初回掲載
2011年12月23日