水筒
毎日のように雨を見ている。梅雨入りが発表されたのはほんの数日前だ。しかし高井祐介にはいつだって外では雨が降っていたような気がしていた。五月下旬の長雨はまるで卯の花でなく彼の心を腐らせてしまったかのよう。思考からも鮮やかさは欠落し、色彩は常に曇天。心象を漠然と覆う不安が彼にとっての梅雨だった。明るくない世界、スピードに乗ったトラックが水溜りを引きちぎる音、濡れた分だけ体を冷やすズボン。不快な思いをするのに不便のない時期と言えた。
「おはようさん」
声をかけられ、視界が蛍光灯で明るい部屋に戻される。「おは」と返しながら窓から佐伯通へ顔を移す。体を九十度右に回転させると斜め後ろの席にいる通と会話する構えになる。通は先端から雫を落とす傘を、布をまとめないまま傘立てに突き刺した。先に祐介が立てた杖のように整った傘が傾いた。通はそのことを気にしなかった。
「なあ天気予報見たか」
「見てないけど」
椅子に腰を落とす。彼の視線は正面の窓に向いていた。
「そうか。放課後には晴れるといいんだがなあ」
雨雲がどこかに行ってくれそうか見る通。音を聞くだけの祐介には先ほどから調子を変えない雨音が止む気はないと主張しているように感じた。
「何か用事あるのか、今日」
晴れでも雨でも能天気な通だ。気にするのは珍しく思えた。
「家でさチャオ飼い始めたんだけどさ、妹がそのチャオをガーデンに連れてくってんで、俺がお守りをすることになっちまってよ」
チャオ。祐介は懐かしい響きにどきりとした。
「珍しいな、今時、チャオなんて」
その言葉に通は、だよなあ、と深く頷く。「妹がなんか、ペット飼いたい、って言い出してよ。ペット飼うこと自体は親も俺も賛成だったんだけどさ、あいつ、チャオがいいって駄々こねたんだよ」通は喋り出すと話が長くなる。祐介は彼の言っていることに耳を傾けるだけだ。たまに聞いているふりだけすることもある。今回はそのたまにには属さなかった。チャオというワードに引かれたからだ。「今時チャオなんてって思ったんだけどよ、結局ペット飼いたがってるの妹だし、じゃあそれでいいやってことにったんだが、しかしどこでチャオのことなんて聞いたんだかなあ」床に視線が向けられ疑問の様相。祐介の喋る間ができる。
「最近テレビにも出てこないしな」
ラジオにも出てこないしネットでも話題になっていない、という印象があった。前は興味がなくとも耳にするほどだった。通もほとんど同じ見解のようだった。他に予想できそうなほどありがちなパターンは少ない。「大方チャオ好きなやつがクラスにでもいたんじゃないのか」と言うと「それで自慢してきたとかか」と通。「そうそう。それでもって影響された、と」
「まあそこんとこは別にいいんだがな、ガーデンに付き合わされるっていうのがよ。今回だけで済めばいいんだが」
「休日ごとに連れ出されたり」祐介がそう言ってやると、勘弁してくれと首を振って揺れる頭が段々沈んでいく。沈みきるとそのまましばらく戻ってこない。佐伯家ではそういうこともあり得るのだろう。
「ああ、そうだ」スイッチをオンにしたように、ぱっと顔面が現れた。「お前、チャオ飼ったことある?」
「え、あ、ああ、あるけど」
「そりゃいいや。じゃあ今日一緒に来てくれよ」
どうして行かなきゃいけないんだ、と祐介は渋るものの、チャオを飼うのは初めてだから経験者にアドバイスをもらいたい、というそれらしい理屈や、一緒に来るやつがいないと正直しんどい、という本音など様々な理由でもって説得される。結果祐介はその勢いに負けた。
アドバイザーを兼ねる道連れを早々に確保できて通は上機嫌だ。このまま外に出れば雨の水たまりを思い切り踏んで遊びそうなほどに。祐介ははねた泥水を浴びている気分になっていた。濡れた感触を気にかけるクラスの女子が靴下を脱いでいる光景が目に入ると、すっかり落ち込んだ靴下の水分が涙腺への呼び水になってしまいそうだった。
雨は一切止まなかった。授業中何の音もなくなる瞬間、休み時間に視線の矛先をもてあました瞬間。彼らは隙を見つけては心に入り込もうとしてくる。本当のところ、雨を見て憂鬱な感情を引き出す自分がいるだけなのだが、それをわかっていても前向きにはなれない祐介だ。放課後になっても朝と変わらぬ表情の空。降り止まない雨はお先真っ暗であることを暗示しているのだ、とまでは思わないものの溜め息と共に傘を開く。
「ていうか、どこのガーデンに行くんだ?遠いのはごめんだぞ」
「大丈夫、大丈夫、近くだから」
通が前を歩く。駅に向かって歩いていることに安心を覚える。それと同時に思うところがあった。高校に入学して、登校に電車を使うようになった祐介だ。その学校の近くのどこにチャオガーデンがあるのか、と気にかけなかったこと。知る必要はない。例えチャオを飼っていたとしても、通うのは自宅に最寄のガーデンだから。それでも以前の自分ならば場所くらい覚えたのではないだろうか。今と昔の自分の違いに抱くのは、複雑な感情だ。成長とは違うだろうから。絶えず傘が叩かれて周りの音に鈍感になる。無数の水滴がカーテンになって視界を遮る。通も話しかけてはこない。その環境が思考の中に祐介を落とす。あの頃は楽しかった。小さい頃の自分を振り返ると祐介はいつもそう思う。成長は人生をつまらなくするのだろうか。それは本当に成長なのだろうか。わからない。しかし祐介にとって時間の経過だけは間違いなく悪質なものだった。傘から垂れる雫が目に留まる。チャオのことが頭に浮かんだ。水や水滴を意味するマーク。それとチャオの頭部は似ている。その点だけに限らず、チャオはよく水と結びつく。それでも雨が祐介にチャオを思わせたのは随分久しぶりのことだった。
駅を通り過ぎ、曲がり角を折れた先。チャオガーデンの施設が姿を現した。
「着いたぞ」
「へえ」
図書館のような大きい建物だが、ビル群によって上手く隠れていた。そうするつもりはなかったのだろうが、祐介にはひっそりと目立たないようにしている風に見えた。建物に意思はないし、動くこともできない。冷めた現実とは裏腹に趣を感じてしまう。三年ぶりの施設だった。外観にチャオらしさはない。どこか市役所のような空気さえある。自動ドアが開き、中に入ると目の前にあるのは受付だ。その右には陳列棚に雑貨が置かれており、直方体の冷蔵ショーケースの中にはペットボトルや缶詰が入れられていて小さなコンビニの様相。二つ折り財布から小銭を探っている通に声をかける。
「水は?」
「あ、そうか。買わないとな」
財布が畳まれる。そしてショーケースを空けペットボトルを一本取る。祐介は陳列されている物に目をやった。おもちゃ売り場で見られる物よりもサイズの小さいヨーヨーが売られていた。
チャオもヨーヨーをやるのか。というか、チャオはどんくらいできるんだろうな。
思いながら、受付にいる女性に入場料を払う。次に通がそれに加え二五〇ミリリットルペットボトルの料金も払った。受付左のドアを開く。開くと手前に岩があった。
「え」通が声を漏らした。祐介は無反応。そのまま右を見るとそこには緑が広がっている。チャオガーデンである。壁を隠すように背の高い岩や木が並んでいて、ここが室内であることを思わせない。チャオの住みやすい環境を提供するこの場所では、自然で埋め尽くされた景観を崩すからという理由でドアなどが見えにくい造りになっていることが多い。
「あれが妹さんか?」
開けた空間に進みながら、それらしい人物を指差す。その先では小さな女の子が一人でチャオをいじくっていた。人差し指でチャオの顔やお腹をぷにぷにと押している。
「ああ、そう。あれ」通が声を上げて呼ぶ。「こころお」少女がその声に応じ、手を振った。祐介と通は少女の下に向かう。
その間、祐介はチャオガーデンにいる人を見ながら、自分の想像より人が多いと感じていた。平日ゆえ人の入りは比較的少ないのだが、それでも二十人ほどがチャオの世話をしている。目立たなくなっただけでまだチャオ人気は続いているのだろうか。その考えをすぐに打ち消す。チャオガーデンの数が減ったから、一つ一つの来場者数があまり減っていないのだ。チャオに澱みのない空気を吸わせている人々の中にチェックのスカートの制服姿があった。祐介にはそのスカートに見覚えがある。先ほどまで目にしていたからだ。ブレザーの色は彼自身の物とほぼ同じで明らかに同じ高校の生徒であった。それも二人組で、今でもそういうことはあるのか、としみじみとした。
「どうだ?なんかあったか」心と呼ばれた少女は首を振って答える。「なんも。でもぷにぷにしてて気持ちいい」通が妹にペットボトルを渡すと、早速飲ませようとした。ふたをひねって開ける。そしてチャオを抱きかかえ、ボトルを口に当てて傾けた。この水もチャオを人が飼うために用意された工夫の一つだ。ペットであるため常にチャオガーデンにいるわけにはいかない。住むには適切とは言いがたい人間の住居にいる時間の方が長い。そのチャオの負担を減らすために、小まめにミネラルウォーターを飲ませることが薦められている。今も上質な水をチャオの体内に取り入れるはずだったのだが、むせてしまい、中断せざるを得なくなってしまった。
「ああ、ああ」
下手なことをしたと咎めるような通の声。祐介はその通に尋ねた。
「水筒は?」
「え、水筒?」
知らないのか、と祐介。チャオを飼う時、あるとないとでは大違いな物がいくつかある。その一つがチャオ用の水筒なのだ。ペットボトルから直接水を飲ませるのは少し難しい。先ほどのような失敗はよくあることだ。さらにチャオだけでペットボトルを持ち上げて飲むこともできない。そこでチャオの背の丈に合わせて飲みやすいように高さを調整した水筒が売られている。これにはストローがついているため、飲むために持ち上げる必要もない。ふたを取って近くに置いてやればチャオは自分で水を飲めるようになっているのだ。そのことを説明する。
「ないならストローをペットボトルに刺せば大分ましになるけど、あるわけないよな」
「当然ないな。ってかあれだ。水買った時ストローを一緒に渡せと」
コンビニだとよくついてくるじゃんか、と彼が文句を言っている横から、水筒が差し出された。
「あの、これよければ」
差し出したのはチェックのスカートの制服を着た少女だった。もう一つの腕でチャオを抱えている。ぽかんとする二人。空いた間に耐え切れなくなった目が泳いで、彼女は後ろにいた友人らしき制服の少女の方に顔を向けた。役目を引き受けたらしい。苦笑いしてから、八の字の眉をアーチ状に変えて言った。
「なんか同じ高校の人が来るとか珍しいなあって思ってたら、なんか困ってるみたいだったんで、でえ、この子、茜って言うんだけど、茜なら助けられるんじゃないかなあって」
「そういうわけなんで」
茜という少女の方は無愛想な表情で水筒を持った左腕を突き出し続けている。緩まない瞳は黒い眼鏡とあいまって怒っているようにさえ見える。
「え、でもいいの?」
祐介は眼鏡の少女に聞く。どうもお供に言われてやっているようだが、本人の意思はどうなのか。
「どうぞ」
促すように、水筒が僅かに上下する。怒りというより早く事が終わってほしいと思っているのか。短い言葉からその空気を掴んだ祐介が水筒を受け取る。そしてやりとりを見ているだけだった心にリレーする。彼女は水筒の持ち主に「ありがとうございます」と会釈して、ふたの開いたそれをチャオの目の前に置いた。だがチャオは頭の上で浮いている球体をクエスチョンマークに変形させるだけだ。「あれ」と呟いた心。茜が彼女とチャオに近づき、屈む。何をするのかと緊張する男子二人。
「ちょっと見てて」
しかし発せられたのは柔らかい声。水筒を取り、ストローを自分のチャオの口に運んだ。腕に抱えられているチャオはそこから水を吸い上げる。その姿を心のチャオに見せる。その様子を見て、「おお」というような感嘆の声をチャオは出した。ストローを心のチャオへ運ぶ。今度はしっかり口に含んで水を飲み始めた。
「こうやって、手本を見せてあげるとチャオはすぐ吸収して覚えるから」
「へええ、すごいな」
感心する通。「昔は水を買ったらストローをつけたこともあったらしいんだけど、チャオガーデンに捨てて問題が起きたとかで用意されなくなったって聞いた」突然そのようなことを言う。彼女に話しかけられる前に言っていたことに対する発言だと、一瞬ぽかんとしていた二人が気づく。心に向かって「チャオを飼うのは初めて?」と聞く茜。それに対して彼が代わりに「家族ぐるみで初めてだ」と答える。それを聞いた彼女はふむ、と数秒考えて口を開いた。
「えっと、空気清浄機はある?」
通へ質問。「ああ、必要みたいだから買ってた」と頷くと、茜は一気に喋った。
「じゃあ、水はこんな感じで、一日このペットボトル一本くらい飲ませれば十分。あとご飯だけど、外で売っているみたいにみかんとか桃とかアーモンドをチャオは食べるから。雑食だけど肉は基本食べない。熱い物も苦手。だから食べ物は果物中心。エネルギー源はアーモンドだけどチャオは軽くてあまりカロリー必要ないから、食べさせすぎちゃだめ。おやつであげるなら、みかんがいいと思う。アーモンドの代わりにバナナをあげてもいい」
そこまで言うと、「後は」と再び思考に入る。
「二ヶ月くらいで歩けるようになると思うけど、それまでは床を綺麗にしておいた方がいいみたい。なんか、汚かったせいで体調悪した人とかいたから。あと、キャプチャされそうな動物がいたら近づけないようにしておくことと、自分から外に出れないように窓とかしっかり閉めておくこと。こんくらいかな」
そこで区切りがつくと、今度は彼女と一緒にいた女子が喋った。「今時チャオを飼い始めるなんて珍しいよねえ」
「俺もそう思う」と言う通に祐介も「本当に」と首肯する。
「同じ制服の人なんて見たことないし、しかも平日だし、気になったんだよ」同じような理由で祐介も彼女たちが気になっていたことを思った。向こうの同じだったのか、と。「初めてだったんだ、なるほどね。でも、なんで今日来たの?」
「ああ、妹がな」せっかくチャオを飼い始めたのだからチャオガーデンにも行きたいと駄々をこねたのだということを言う。「で俺はそのお守りで」と説明するとそれに便乗して祐介が「その道連れに」とおどけた。「おいおいお前、昔チャオ飼ってたって言うから色々教えてもらう予定だったんじゃねえか」その必要はなかったけどな、と祐介は返す。
「茜はチャオ大好きだから仕方ないよ」と笑われる。その本人は佐伯家のチャオを抱っこしているところだった。どうするとチャオが喜ぶかを教えているようだが、声は先ほど水筒を渡す時より格段に弾んでいた。
「ああ、そういや君の名前は?俺、佐伯通。こいつ、高井祐介」名前を紹介されて、軽く会釈する祐介。「ああ、私、金本紗々」と彼女が名乗ると、「藤村です」とぶっきらぼうな声がした。心のチャオを抱っこして、ゆすって喜ばせているところだった。祐介はこちらの話を聞いていたのか、と驚きつつも声の調子とやっていることの不一致におかしく感じた。彼女の飼っているチャオが自分にもやれと飛び跳ねてねだる。それに応じて茜はチャオを心に渡して、自分のチャオを持ち上げた。上下に揺らしてはしゃぐチャオ。やがて高い高いをするような上下運動になる。ハートの形になった頭の球体が飛び回るように振れる。
昔、似たような光景を見ていたと祐介は思い出す。自分も同じようにしてチャオを可愛がり、好かれようとしていた。赤ちゃんをあやすように持ち上げる大人を見たこともある。今でも茜のようにチャオに接する人がいることに胸が締めつけられたような気分になる。ブームに助けられて爆発的に普及したチャオだが、それも昔の話。今となってはあえてペットに選ぶ人は少ない。手間がかかるからだ。週に一度は豊かな自然と接するように推奨されている。例え近くにチャオガーデンがあるとしても、毎週そこに行かなくてはならないのは負担が大きい。だからブームの終わった今となってはチャオの影はとても薄い。チャオに関心の薄い世の中で、ただこの場所だけチャオへの関心が濃く残っている。祐介の頭の中にいつか聞いた話が蘇った。チャオガーデンの入場料が安価であることについての話だ。毎週来なくてはならないことを考慮してのことだが、低価格の実現は国の支援によって成り立っている。チャオガーデンへ連れて行きやすくする理由。それはチャオが有害な生き物だからだという。他のペットを飼っている人々からすれば、チャオのキャプチャ能力は脅威でしかない。そのチャオを少しの間でも一箇所に閉じ込めるために用意された施設、世の中からチャオを隔離するための鳥かご、それがチャオガーデンなのだと。愛くるしい姿をしているこの生き物に恐ろしい能力があるのは事実で、その力が他の生き物に向けられないように国が施設を維持できるよう協力していることも納得できる。しかし祐介には今のチャオガーデンは流行の波から彼女たちを守る砦めいて見えた。きっとこちらの方が弱者に違いない。外では雨が熱を奪ってしまおうと降り続いている。ここだけが晴れているのだから。
ガーデンから出ると、出入り口の向こうの外の暗さが目に入る。自然に囲まれ、天井には晴天の絵が描かれているあの場所にいると本当の天気との落差を意識せずにはいられない。妙に暗く寂寞として見える。濡れてしまうだろうが、空模様を仰ぎ見てみたいとも思う。作られた空と本物のそれにどれだけの違いがあるのだろう。しかし知り合ったばかりの女性が二人三人いる手前、行動に遠慮が出る。しかも二人は自分たちと同じ二年生だと言うではないか。他人でありながらどこか近さを感じさせる関係は羞恥心を多分に呼び起こした。だから結局普通に傘を差して、遠くに見える空模様だけ眺める。向こう側まで広がる灰色の雲で世界が狭く見える。傘の上では水滴が増え、重なって流れ、垂れる。下を見れば水溜りに映る世界は真っ暗だ。楽しい気分になれそうもないが、祐介はそのおかげで一つ思い出した。チャオによる被害から生物を守るためにチャオガーデンがあるという見方に否定的な人が多少いることだ。他の生き物を守るだけならばわざわざ国の金を投じることなどせず、チャオを飼うことを禁止すればいいのだ、と。だから彼らはそうまでして国民がチャオを飼わなくてはいけない理由があるのではないかと考えているらしい。国の本当の狙い、それらしいものがネットなどでまことしやかに噂されているという話だ。中にはチャオを大事にしないと災害が起こるなどという荒唐無稽な噂まであるようだ。思い出しはしたが国が何を考えているかなど祐介にとってはどうでもいいことだった。そのようなことを考えている人々の心にあるものと自分の中にあるものが同質なような気がすることの方がよほど重大で、溜め息しか出なくなった。他人にとってはどうでもいいこと。佐伯兄妹だけ駅とは別方向に去っていく。駅前で茜が集団から外れた。雨に濡れないようにチャオを強く抱き寄せているのが印象的だった。傘の存在感がなければそのまま雨の町に霧散してしまいそうに見えた。そう祐介が感じてしまうのは彼女がチャオを持っているからだ。いつか消えてしまう。今すぐにでも。祐介にとってチャオとはそういうものなのだ。残った二人。何か話した方がいいのだろうかと祐介は思ったものの、乗る電車が違ったために別れの挨拶だけ交わして一人になった。一人。安心と物寂しさが同居する。なにか面白い会話をしたかったような未練がある。寂しさや空しさがなくなればいいのにと祐介は思った。雨は彼にとって賑やかなものではなかった。
ドアが開く。中に入る。「ただいま」そう言いながら靴を脱ぐ。玄関の扉を閉めて傘を立てれば雨音はもう耳に入らない。家である。自室に入って電気を点け、教科書やノートの入った鞄を落としてブレザーを脱ぐと世界が霞む。自分のための空間に、一人。決して広いとは言えない個室全体が彼自身の心だ。漫画単行本や小説の類、それにゲームソフトが本棚に入れられている。ゲーム機は机の上に置かれていて、学校で配られたプリントはベットの下から積まれた一部が顔を出す。クーラーはないが、窓の近くには小型の空気清浄機が置かれていた。それが目に留まる。祐介自身、その存在を確かめるのは久々だった。学校の鞄のように部屋の中ではあまり注目しない存在である。三年前から部屋の主が触れていない機械は埃で覆われている。中学生のある時期から親は部屋に入ってきて掃除しなくなった。思春期の抵抗が勝利したのだ。それからずっと蓄積されてきた埃。確かに親は入ってきていないようだと把握するわけではなく、祐介の思考はこの機械を必要としていた生き物のことを思い出していた。もうチャオは飼っていない。流行が過ぎて祐介の両親は興味を失っていたし、彼もまた飼いたいとは思わなかった。だから使う必要のなくなった道具たちは見えない場所へと押しやられ、チャオの思い出に浸るきっかけは乏しい。昔この家には観葉植物まであったものだが、家の風貌というのはチャオ一匹いるかいないかで大きく変わるようだ。その変化を噛みしめるのはひとえにチャオガーデンに行ったせいだ。変わったのは家の中だけではない。世界中、自分も含めて変化してしまったのだ。現在に三年前の記憶が重なりながら、祐介は部屋を出た。台所へ行って母親に声をかけた。「チャオの水筒ってある?」
曇り空。日が昇るのは早くなってきているが暗い。曇天は太陽光の通り道を徹底的に封鎖しようと試みている。今にも降りだすぞと言わんばかりの低い空。祐介は長い傘を左手に登校していた。歩いていると道路は点描のように色がついていく。髪や制服にもそれが触れていることを感じ、面倒だと思いながらも傘を差した。学校に着く。下駄箱の前で傘を畳み、床を軽く叩いて水を落とす。そして布をまとめボタンで留める。濡れた手はズボンにこすりつけ、上履きを取った。二階へ行き、自分のクラスを目指す。それまでに通るいくつかの教室。そのどれかに昨日の藤村茜や金本紗々がいるのかもしれなかった。それが祐介に横目で中を確認させる。しかしそれらしい姿は発見できなかった。別のクラスなのか、まだ登校していないのか、それとも見落としたのか。気になりつつ自分のクラスに入ればそこには佐伯通。その足だけで学校まで来られる彼の登校時間は流動的だ。向こうの挙手に答え、傘立てに向かう。傲慢な態度で居座っている傘はなかった。安全な場所を探す必要もなく、祐介はスムーズに傘を入れた。
「水筒、持ってきたぞ」
言いながら席に座り、鞄を開ける。中から小さな水筒が出てくる。子供用の物にも見えるが、水色でふた部分などが黄色いそれはチャオをイメージした物だとわかる。この配色で普通の物と区別できるようにしてあるのだ。「おお、ありがとうな」そう言い通はふたを開けてストローがあるのを見た。それからふたを閉じて「ふうん」と水筒を眺めている。昨日自己紹介などをした後水筒を買おうとした通を祐介は引き止めた。祐介の家にある水筒はおそらくもう使うことがない。だからそれをもらってくれと言ったのだ。ただで手に入れられた通は勿論だが渡すことのできた祐介も何かが進展したような心持で嬉しい。不要だといえ持ち物を手放したことに変わりはない。それでも進展したと感じるのは渡した水筒の重さだけ抜けたものがあったからなのかもしれなかった。
「しかし昨日はラッキーだったな。女子二人に逆ナンされるなんてな」と言う通。「逆ナンパと言うのかあれ」口説かれたようには感じていない祐介に「そうじゃなかったらどうして話かけてきたんだよ」と返す。「絶対一目ぼれだって」と興奮気味。
「珍しいって言ってたし、レアモンスターって感じじゃないのか」
氷の意見が鎮火する。怪物扱いだったのか、と恋愛とは程遠い言葉にテンションが著しく低下したのだが「いやしかしこれからの付き合いによっては恋に落ちる可能性だって十分にあると俺は思う」と食い下がる。しかし祐介は「そうかもな」と熱くならない。祐介に色恋と縁があるとは思っていないのだ。「可愛かったなあ二人とも」どちらかが自分の彼女になった想像をしているのだろうか。語調から深い感動が伝わってきた。「どこのクラスか聞いておきゃよかったなあ。ガーデンでまた会えるかねえ」溜め息をつきながら祐介は応じてやる。「土日ならいんじゃないの。普通休日に行くもんだし」
「ああ、なるほど。それじゃあ一緒に行こうぜ」
「どうして」
答えず、いいじゃんいいじゃんと押せ押せの通。じろりと思考を巡らせて言う。「チャオの世話をさせて自分は女と?」調子のいい笑顔が眉だけ歪んだ。すぐに取り繕って言う。「ついでに妹もいかが」
「ふざけんな」
祐介は突き放すのだが諦めず噛みついてくる。「まあまあ。チャオガーデンで遊ぶと思ってさ、いいじゃん。ゲームとかしようぜ」祐介はチャオガーデンでゲームをやろうとする神経を疑った。「お前賑やかな所苦手だろ。静かだしいいじゃんか」
彼の発言にぴたりと止まる。
「待った。なんで苦手ってことになってるんだ」
二人は知り合ってからまだ二ヶ月しか経っていない。学年が上がってからの付き合いだ。学校帰り寄り道をする程度で、休日にどこかへ遊びに行ったことはない。それなのにどうしてそう思ったのか。尋常ならざる観察眼があるのかと祐介は驚いていた。
「だってよ、人増えるとお前影薄くなるし」
通の知り合いグループに混ざった時に確かにそうなっていた。しかしそれは自分だけ部外者のような感覚で居心地が悪かったのだ。繋げてきたのが遠い所で祐介はほっとしていた。
「まあ、その気になったら」
歯切れの悪い返事で話題にけりをつけた。本心では迷っている。行きたいという気持ちはない。チャオを飼っていない自分がチャオガーデンに行くことに抵抗がある。チャオは悲劇の象徴に思える。それでも行きたくないと切り捨てることはできないためらい。チャオほど彼の心を揺さぶるものがないのも事実だった。そのために結局、少しならそこに小銭を投じるのも悪くないというところに考えが流れていった。