バイザウェイ 三
私の予感は外れて、私たちはそれから三回もチャオガーデンで会いゴウと遊んだ。
一月も経たないうちに五回もチャオガーデンに来るというのは、会員になっていない子供にはちょっとした出費になる。
彼の小遣い事情は知らないが、私だったら大打撃になるくらいの額を彼は既に払っている。
ゴウなんかのためにチャオガーデンの入場料を払わせ続けるのも嫌だった私は、五回目にチャオガーデンで塩崎君と会った次の日、メールで塩崎君と放課後に会う約束をした。
部活動のない人たちが一通り帰り、人が少なくなった頃に私は靴を履きかえて一年生の下駄箱へ向かった。
彼は靴を履きかえ、下駄箱の近くに立って私を待っていた。
「私、自転車」
そう言って駐輪場へ寄ることを告げると、
「俺もです」と彼は言った。
停められている自転車は遠目で見るとほとんどが似たような自転車で、大体黒かシルバーだ。
今朝どこに停めたのか大体覚えておいて、その大体の位置から自分の知っている自転車を探すことになる。
私は今日、赤い自転車の右隣に停めた。その赤い自転車がまだあったので見つけるのは簡単だった。
私も赤い自転車にすれば今ほど手間がかからなくなるけれど、赤じゃなかったとしても黒とシルバー以外の自転車に乗るのは自分を浮かせてしまうようで嫌だし、このためだけに新しい自転車を買いたいと親にねだるのも小さな子供みたいだから、冗談でも言うつもりにならない。
塩崎君の自転車は私と同じで黒かった。
私は彼とどこに行けばいいかわからなかった。
駅近くのマクドナルドに行ったりカラオケで歌ったりゲームセンターで遊んだり、皆がやっているようなことを私は昨日の晩に思い浮かべたのだけれど、どれもお金がかかってしまう。
チャオガーデンに入るのにお金を使わせているのが嫌でそれ以外のことをしようと思っているのだから、お金を一切使わないで済ましたい。
私たちは自転車には乗らず、押して歩き校門を出た。
「今日はチャオガーデン行かないんですか?」と塩崎君は聞いてきた。
「毎回入場料払って、きつくない?」
「まあ、きついですね」
「だから今日はお金を使わずに遊ぼう」
「わかりました。ありがとうございます。それで、どこに行くんですか?」
「決まってない」
私はそのように答えながら、いつも通る帰路を歩く。
私の家に連れ込むのではない。母に新しい男が出来たと思わせたくはない。母も私の悲しみを想像しているのだ。
ただ途中に駅があるから、ひとまずそこに向かっているのだった。駅の近くには公園だってあるから、決まらなければそこにすればいい。
「別にチャオが好きで飼ってるわけじゃないんだよ」
私には、行き先のことよりもそちらの話をする方が大事なことのように思えて言った。
「じゃあ、どうしてチャオを飼ってるんですか」
「死んだ恋人の飼っていたチャオだから」
事実なのに、まるで脚色して言っているように感じられた。
恋人なんて単語を口にしたことが今までなかったせいだ。彼氏、と言うべきだったんだろう。
それとももう付き合っていないから元彼なのだろうか、と思いながら、
「本当のことだよ。彼氏が交通事故で死んだの。それで彼の飼っていたチャオを引き取ることになった」と私は言い直した。
「そうなんですか」
「遺品が欲しかったんだよ。一生彼のことを愛し続けるつもりで。でもそんな風にはいかないね。もう彼のこと、そんなに愛してない気がする。勿論ゴウのことも。それまでチャオなんて飼ったことなかったし、彼氏の飼っているチャオに時々構うくらいが丁度よかったんだよ」
私はいくらでも自分の思っていることを彼に話せるような気がした。塩崎君と遊ぶうちに、私はゴウと翔矢のことを彼に告白しようと思うようになっていた。
打ち明ける気にさせたのは、外見がそれなりにいいのに趣味が鉛筆を削ることだったからだ。
それは私が変人を好きになるということでも、変人だから振られてもダメージが少ないという意味でもない。
私が今持っている翔矢を愛する気持ちと、短い鉛筆を愛する彼の気持ちがほとんど等しいのではないかと私は感じていたのだ。
「時間が経てば、風化するものでしょう」と彼は慰めるように言った。私は、そうじゃないよ、と言い返した。
「まだ一年も経ってないんだよ。早すぎでしょ。時間が経つうちにとは思っていたけど、こんなに早いとは思ってなかった。どうでもよくなる心の準備をする間もなかった」
準備なんてするつもりもなかったけれど、と私は自分の言ったことについて思った。
「そういうのって、どのくらいで平気になるものなんでしょうね」と塩崎君は言った。
慰めることは諦めてくれたようで、私は安堵した。
慰められても黙っているしかなくて窮屈なのだ。私はそんな思いを翔矢が死んでからしばらく味わい続けてうんざりしていた。
「平気になんてならなくて、一生背負うものって感じがあるよ。私は。現実はそうじゃなかったけど」
きっと怜央ちゃんも同じように思っている。怜央ちゃんはまだ私が傷付いていると思っているのだ。
私がそういう振りをしたり、怜央ちゃんが気を遣ってくれた時に甘えたりするせいだ。怜央ちゃんには私の気持ちを正直に話せていない。それは怜央ちゃんが塩崎君のような趣味を持っていないからに違いない。
「それで、俺たちはどこに行くんですか?」
塩崎君は黙っていたが、駅が近くなってきたところでそう言った。
塩崎君が黙っている間に私が考えていたことといえば、塩崎君がプラトニックな関係を重視しない人なら今日にもキスくらいするだろう、ということくらいで、行き先については何も考えていなかった。
「さあね。お金のかからない所がいいな」と私は言った。
「じゃあ俺の家に来ます? 近いですけど」
冗談を言うように彼は言ったので、私も冗談で返すように、そうしよう、と言った。
「じゃあ、そうしますか」と塩崎君は言い、私は頷いただけで何も返さなかったので、私は彼の家に行くことになった。
塩崎君は自転車に乗り、前を走った。私も自転車に乗って追いかける。
塩崎君は近いと言ったけれど、彼の家に着くまで自転車で十分も走ることになった。
塩崎君の部屋は、来客を待っていたかのように片付いていた。
チャオガーデンじゃない所で遊ぼうと誘ったのが塩崎君であったと錯覚するくらい、机の上も本棚も整理されてあった。そして彼はオレンジジュースをコップに入れて持ってきた。
「ゴウの名前ってね、本当はソニゴロウって言うんだ。彼が付けた名前。センスないでしょ」と私はコップを受け取ると言った。
翔矢の付けた名前を教えようと思ったのに、私はソニゴロウという名前を思い出すのに三十秒くらいかけてしまった。
「センスないです。080です」と塩崎君は頷いた。「じゃあゴウってのは押花さんが?」
「そう。前からソニゴロウを縮めてゴウって呼んでた。恥ずかしいでしょ、そんな名前で呼ぶのなんて」
「はい。ゴウの方がずっといいです」
「でも翔矢は人前でも全然平気そうにソニゴロウソニゴロウって言うんだ。どうして恥ずかしくないのか凄く不思議だった」
「変な人だったんですね」と塩崎君は言った。私は、そうだよ、と言ってオレンジジュースを飲む。私に合わせて塩崎君もジュースを飲んだ。
そして私たちはセックスをしたが、その時の塩崎君とのセックスは、捺印するような行為だった。
抱き合ってキスをしたところでもう彼の陰茎は大きくなっていて、私はそれに手を添えてしまえばよかった。
私は彼の履いていた物を脱がして手で陰茎をこすり、一回射精させた。
キスと射精ができれば男は満足する、と翔矢は言っていた。
精液を包んだティッシュペーパーを私はゴミ箱へ投げる振りをして、わざとゴミの落ちていないカーペットの上に落とした。
これだけで終われば楽だと思ったのだけど、塩崎君は何としても挿入して射精するつもりでいたので私は横たわって服を脱がされることになった。
塩崎君は私の靴下まで脱がして自分も全裸になり、そして私の髪から太ももまでを十分に愛撫してから挿入した。
私は翔矢とする時にしていた翔矢が気持ちいいと言う愛撫や腰の動かし方をするつもりがなく、塩崎君の動きに全てを任せていた。
その私の気分は、翔矢をどれだけ愛していたか私に思い出させてくれるようだった。
旅行の時に泊まったホテルで、部屋を暗くしてゴウが寝てから私たちは囁き合いながらお互いをいじめたことを繰り返し思い出して私は胸をときめかせる。
塩崎君が二度目の射精するまで、私は自分の愛と再会した喜びで自慰をした。
塩崎君は気持ちよかったということを告げて、私にキスをしてきた。唇が離れると私は、
「ねえ、ゴウが進化するまでは駄目だからね」と言った。
「何がですか?」
「そんなこと聞かれても、わからない」
私は服を着た。翔矢の家でセックスをする時は、ゴウをいつも部屋から追い出していた。
なるべく早く部屋に入れてやるために、裸のままでいることを翔矢はしなかった。あまりチャオには見られたくなかったから私も終わるとすぐに服を着た。
そんなことをしていてもチャオは転生できる。そう思うと、ゴウが翔矢から大して愛されていなかったような気さえしてきた。
「たとえば、正式に付き合うのは進化するまで待つってことですか。再婚ができない期間があるみたいに」と塩崎君は聞いてきた。
「じゃあそれでいいよ」と私は答えた。「でも正式ってなんだろう。やることやっちゃってるのに」
「手を繋ぐとか、彼女だと人に言うこととか、ですかね」
そういうのはされると困ると私は思ったので、そんなところだろうね、と相槌を打った。
可哀想な人の振りをしている私にとって、付き合っていることはできればずっと隠しておいてほしいことだった。
塩崎君の家から私の家までの最短ルートを思い描くことができなかったので、私は一度駅まで戻って帰ることにした。
私は、夜に翔矢と電話で話す約束をしているような気分で自転車をこぐ。
チャオが生まれてから一年で進化すると考えると、ゴウが進化するまであと二ヶ月くらいある。
それまでの間私は翔矢の恋人でいられるような気がしたし、ゴウが進化した後は新しい彼氏の塩崎君と楽しくやっていけそうな気もしているのだった。
そのように思えるのは自分が大人になりつつあることを感じているからだ、と私は思った。
自転車を思い切りこいで、風を切りたくなる。
自転車といえば、風を切るという言葉が出てくるけれど、私はその表現をどこで覚えたのだろうか。
二つの言葉が結び付いたきっかけは思い出せないけれど、私はそのどこかで覚えた気持ちよさを体感したくて、誰も歩いていない舗装された歩道で自転車を加速させた。
家に帰ると、リビングにはいつものようにソファに座ってテレビを見るヒーローチャオがいた。ゴウはヒーローノーマルチャオに進化していた。頭上に浮かんでいる球体が今は天使の輪のようになっている。
見ればわかるのに興奮している母は、
「ねえ、ゴウちゃんがヒーローチャオになったのよ」と私に言う。
「うん。なってるね」
「私、進化するところ見ちゃったのよ。なんかもう感動しちゃった」
ゴウがデジタルカメラを持って、私の方に寄ってくる。
進化した途端に体が一回りほど大きくなっていて私は驚いた。
しかし転生する前のゴウもこのくらいの大きさだったから異物のように感じたのは一瞬だけだった。
「進化してるところ動画で撮ったのよ、そのカメラで」と母は言った。
私はゴウからカメラを受け取って、母が撮影した動画を再生した。
ゴウはソファの上で進化したようだった。撮り始めた時にはもう水色の繭がゴウの体を覆いつつあって、ゴウの姿はほとんど見えなくなっていた。
それでも繭は透けていて、中に座るゴウが見えた。
動画の母が、進化する進化する、と騒いでいる。
やがて水色の繭は完成して、母はどれくらいで進化が終わるのかわからなくて途方に暮れていた。
これいつ終わるのかしら、と呟いて、それから五分待って母は撮影をやめた。他の動画はなかった。
「続きはないの?」と私は聞いた。
「進化が終わるところ撮ろうとしたんだけどね、でもいつの間にかゴウちゃん繭から出てたのよ」
そんなことだろうと思った。家事をしたり買い物に出掛けたりしているうちに終わってしまったに違いない。
私ならリビングから離れないようにして進化が終わるのを待つのに、母はそういうことをしない人なのだ。
「今日の夕飯はお祝いで豪華にしましょう」
母はそう言ったけれど、いつもと大して変わらない夕飯だった。
一月に二回か三回作るハンバーグを母は作った。いつもは一人二個なのが今日は三個だった。それと父は缶ビールを二本飲むことを許された。しかし主役であるゴウの餌はいつもと同じだった。
ハンバーグ一個と缶ビール一本だけでお祝いや豪華と言える母のいい加減さには不満を言いたくなったが、大袈裟な喜び方をしないところがいいなとも私は思った。
父はゴウを大いに褒めて、ゴウを喜ばせた。
食べ終わって風呂に入り寝間着に着替えると、私は五線譜ノートを開いて楽譜を書いた。
塩崎君と付き合うからって鉛筆を使ったりはしないぞ、と自分に言い聞かせるために私はシャーペンを握って落書きをする。
途中芯を折りながら音符を黒く塗っていく。
曲名は新しい愛。明るく楽しい見た目の曲だ。私の書く曲は、書きたい気持ちに合わせていつも音符をたくさん書くので、楽譜の見た目が賑やかになる。
演奏したら緩急のないやかましいだけの音楽になるだろう。
音符の丸い部分を塗り潰さない全音符と二分音符を一切使わないで作ったこの曲は、鉛筆を使わないことの誓いなのである。
しかしゴウを引き取ったように塩崎君が死んだら私は彼の鉛筆を引き継ぎ、そして鉛筆を使うようになるかもしれなかった。
でも死ぬのが私だったとしたら、でたらめに楽譜を書くこの遊びを受け継いでほしくはなかった。この遊びは私のもので、だから事故に遭って死んでしまってもいいように、塩崎君には黙っておこうと私は決める。
一曲を完成させてしまうと、やりきった感じがあって私はもう今日のところは落書きをしなくていいという気分になった。
それで私はゴウをリビングから持ってきた。ゴウは私が今日塩崎君としたことを知っていると思った。だから今日進化したのではないか。
「私が今日、塩崎君と何してたか、わかってるんでしょ」
そう聞くとゴウは首を傾げた。全くわからない、と言うように天使の輪をクエスチョンマークに変形させたままにしていた。
ゴウの頭上のクエスチョンマークはいつまでも元に戻らなそうに見えたので、
「もういいよ」と私は言う。すると考えることをやめたのか、天使の輪に形が戻る。
「でもさ、塩崎君と付き合うかもしれないってことはわかってたでしょ?」と別の質問をしてみる。するとゴウは笑顔で大きく頷いた。その通りだよ、と言うように。
「それが今日だったんだよ。それ知っててゴウは進化したんじゃないの」
ゴウは首を横に振って否定した。
話が通じているように見えるけれど、本当にわかって頷いたり首を振ったりしているのかと私は疑った。
言っていることのほんの数パーセントくらいしか理解していないんじゃないか。それでそれらしい答え方をしているだけかもしれない。
「私の言っていること、本当にわかってる?」
ゴウは頷いた。本当かよ、と私は呟き、もうゴウと会話をしようと試みるのはやめようと思った。
チャオはペットなんだから、人と話す時と同じように話そうとしても無駄だ。
私はゴウを撫でて、喜ばせてやる。ゴウはすぐにうっとりとした目になり、天使の輪をハートマークに変える。
ほら見ろ、と私は私に言った。チャオはこんなに単純なのだ。
「それじゃあさ、私と塩崎君、どっちが早く死ぬと思う?」
そのように雑誌の占いのページを見るような気持ちで聞いてみたら、ゴウはクエスチョンマークを出して考え始めた。
私はゴウの額に軽くチョップをして、そんなこと考えても答え出ないでしょ、と言って笑った。
ゴウも私に合わせて、きゃははと笑った。