味のなくなったガム
恋人の美香は看護師だ。激務だが高給取り。港区にあるタワーマンションの高層階に部屋を借りて一人暮らしをしている。
俺は彼女の部屋が一番好きだった。バルコニーから見える景色がとても綺麗だったからだ。しかも美香は料理が上手くてスタイルが良い。
だから彼女から別れを告げられた時は結構辛かった。
「みゆきが私のことを本当に好きかどうか分からない」
「好きだよ。何度も言ってるじゃん」
最初はよくあるヒステリーだと思っていたけど、今回は違うみたいだった。
「じゃあどうして仕事探さないの? 私、来年30だよ。このままじゃ結婚もできない」
ごめん、と伝えた。何がごめんなのか分からないと彼女は答えた。
「探すよ。来年までに」
「いつもそうじゃん。いつもそれで探さないじゃん。昼間、どこ行ってるの? 何してるの?」
「寝てるよ。家で」
「嘘。どうせ他の女のところでしょ」
「違うよ。俺が好きなのは君だけだよ」
言いながら、あーもうこれはダメそうだなと思っていた。
"こうなる"のは彼女が初めてではない。以前付き合っていた富美子も佳苗も"こう"なった。
原因ははっきりしている。
部屋の隅でうずくまっている水色の丸い生き物。
チャオだ。
「出てって。もう来ないで」
美香は情なんてこれっぽっちもないって顔で俺を部屋から追い出した。
「チャオを飼い始めた時から嫌な予感はしてたんだよなぁ」
BAR・RABBIT RABBITでマスターに愚痴る。マスターは気心の知れた仲で、よく女の子を紹介してもらっている。
「またダメだったんだ。懲りないね。働いたら?」
「ヤだよ。俺はプロのヒモだから」
「でも前は会社興して一発当ててやろうって盛り上がってたじゃん。あれはどうなったの?」
「あれはなぁ……」
会社は興した。代表取締役って肩書きも手に入れた。でもその時やりたかった仕事は一度やったら満足してしまって、それきり何もやる気が起きなくなった。半年前の話。
「社長になったら女の子にモテたから役に立ったよ」
「あのねえ。みゆきくんももう若くないんだし、そろそろ落ち着いた方がいいんじゃない?」
「そのうち落ち着くよ。ところで今他にフリーの女の子いない? できればおっぱい大きくて稼いでる子がいいなぁ」
「そんな子いないよ」
「最悪おっぱい大きければいいから」
「いてもみゆきくんには紹介しないよ」
「いる時間教えてくれるだけでいいから」
「あのねえ」
さすがのマスターも付き合いきれないといった様子でたばこをふかす。最近都条例で飲食店の喫煙は禁止になったはずだけど、ヘヴィースモーカーにはそんなことお構いなしだ。
「毎回続かないじゃん」
「そう言われると弱いけど」
「なんで? 富美子ちゃんも良い子だったと思うけどなぁ」
……長年、プロのヒモ生活をしていると分かる。
愛情には限りがある。
チャオを飼い始めると与えられる愛情が分散する。チャオは愛情を乞食するのが上手い。
俺よりも可愛くて、従順で、都合が良い。
「チャオになりてーなぁ」
「そんな突拍子もない」
「チャオがいると俺の居場所がないんだよ。だから邪魔になって追い出される」
「由紀ちゃんはチャオ関係なくない?」
由紀。何年前だかに付き合っていた子だ。大企業の経理部に勤めていた。
彼女と別れたのは、彼女が俺に魅力を感じなくなったからだった。でも元からなんで俺と付き合っていたのかよく分からなかった。何考えてるのかもよく分からない子だった。
「まあ確かに」
「死ぬ前に職探したら?」
「冷たいなあ」
マスターは既に短くなったタバコをゆっくりと吸った。毎回もったいないと言ってギリギリまで吸うのだ。味がなくなったら捨てればいいのに。
「仕事するの、嫌なの?」
珍しくまじめなトーンで聞いて来るから、俺はドキッとした。
「うーん……そんなに嫌じゃないかも」
「じゃあ何で働かないの?」
考える。でも考えてるふりだ。答えはとっくに出てる。"やりたいことがない"も"何にも興味が持てない"もきっと言い訳に聞こえると思った。だから質問で返すことにした。
「おまえ、なんでBARなんてやってんの? 儲からないでしょ?」
「女にモテるからだなぁ」
「おい」
「で、気が付いたら彼女が奥さんになって、子どもがいて、とりあえず金が必要だったから店畳むわけにも行かなくなって。そんなもんだよ」
「そんなもんか」
「みんなそんなもんじゃないの?」
思い出す。
美香は、看護師って仕事が好きな子だった。元々は医者になりたかったけど勉強があんまりできなくて、だけど医療系の仕事に就きたいって気持ちは強くて、だから看護学校に通って看護師になった。激務だし夜勤だってある。性格のひん曲がった患者さんは多い。でも毎日懸命に働いている。
富美子はデザイナー。大学で自分のデザインがやたら評価されちゃって、有頂天になってデザイナーの道を志望した。けど最初に勤めた企業がブラックで体調壊して辞めた。デザイナー辞めようかなと言ってたけど、だからと言って他にできることもないし、知り合いの伝手で同じ職種に就いた。ちょっとパワハラ気味な上司の愚痴をほとんど毎日言っていたが、楽しそうだった。
佳苗と早紀はキャバクラ勤め。稼げるから。キャバクラに来る男にはろくな男がいないって、笑ってLINEを晒し物にしてた。今頃は俺のLINEも晒し物になっているかも。
みんなチャオを飼って俺と別れた。
"俺のために働く"が段々と"チャオのために働く"になって行った。
欲しいものが、俺じゃなくてチャオになった。
「チャオがいれば俺いらないからなぁ」
「まーチャオの方が可愛いし」
「カノジョに振られたばっかの友達に言うことそれかよ」
傷付くわぁ、と言って笑う。
「これからどうすんの?」
「とりあえず昔の女のとこ当たってみて、ダメだったらしばらくネカフェだな。どうしても金がなくなったらここ来るわ」
「……まぁ、働く気になったら連絡してよ」
「ははは。そのうちね」
お店に備え付けてあるサービスのガムを一個とって、俺は店を出た。
「もう連絡してこないでって言ったでしょ」
ガチャッと通話を切られる。三人目。
吐息が白い。今日の宿を探すにしても、深夜の公園のベンチは寒すぎてやっていられない。段々と惨めになって来る。
当てを探して連絡リストを見る。一番当てにしていた美穂に断られると、どの子もダメなような気がしてくる。
「参ったなぁ」
最近独り言が増えた。
なけなしの食糧であるガムを噛む。
何で働かないの、ってマスターの言葉がずっと引っかかっていた。そんな理由なかった。ただ頑張る理由がないだけで。
みんなはちゃんと働いていて偉い。辛いことも耐えて、自分なりの欲しいものを見つけられて、偉い。
俺も欲しいものが欲しかった。
でも欲しいものが手に入るとすぐに満足してしまうから、俺の欲しいものは手に入らないものが良いんだと思った。
だけど手に入らないものには興味なんて沸かないから、手に入りそうで、入らないものが良い。
そんなものどこにあるんだろう?
ふと気が付くと、隣にチャオが座っていた。
「ひとりか?」
言ってから自分の言葉に自分で笑ってしまった。
チャオに話しかけるなんて、俺寂しいのかな。
チャオは言葉が分からなかったみたいで頭を傾げていた。?って感じだった。
「おまえは可愛くていいなぁ」
でも、ひとりってことはこのチャオも捨てられたのかもしれない。
ひょっとして愛情を乞食するのが苦手なチャオなのか?
じっくり観察してみたが、俺にはチャオの違いがよく分からなかった。
たぶん可愛い。
「俺、ごはん持ってないから。ごはん持ってる人のとこに行きな」
ベンチを去る。俺がいたら宿主を探せないだろう。宿主は孤独に共感する。お互いにプロのヒモだからこそ分かる心理というヤツだ。
深夜の公園は寒い。寒いと孤独感が増す。今日からは女も家もない。そろそろ死ぬ時が来たのかもしれない。
それでもいいかな、と思った。
公園の池の前に来た。水は冷たいだろうし、溺死はちょっと辛そうだったけど、死ねる気分の時に死んでおいた方が楽かなと思った。
ふと隣を見るとまたあのチャオがいた。
不思議そうに俺を見ていた。
「何もないぞ」
チャオと話している惨めさで泣けて来た。
「何もない」
チャオは不思議そうに俺を見るだけだ。
チャオを通して俺は俺の姿を見ていた。宿主が見つからなければこのチャオはそのうち餓死するだろう。可哀そうだなと思った。同時に理解した。
本当に宿主がいなければ死んでしまう生物に、俺が敵うわけがないだろ。
そう思うと案外笑えた。
「おまえ、死にたいか?」
チャオは不思議そうに俺を見るだけだ。
死ぬ前に色々なことができるような気がした。わざわざ寒い日に溺死を選ぶのも馬鹿らしい。明日になったら美香の気が変わっているかもしれない。
だけど、とりあえずはこのチャオにごはんを与えてやらないといけない。
マスターに電話をかける。
「おかけになった電話番号は、電波の届かないところか……」
「繋がんねえじゃねえか、あいつ」
しょうがないので夜が明けるのを待つことにした。
チャオを抱っこしてベンチに戻る。腹が減って来た。お金も飯もない。
味のしなくなったガムは退屈だったけど、まあ、今日のところはコイツを噛んでおいてやることにした。